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短編集

いわし雲

作者: さばみそに

 その人は、真っ青なキャンバスに白い絵の具でいわしと書いた。そうして私の方を振り返ると、いたずらっ子のような笑顔を見せるのだ。秋の風が吹き抜ける中庭で、私はたしかに、その笑った顔に、恋をしていた。


 その人は美術の学校に通うために田舎から出てきて、親戚筋の我が家に居候をしている人だった。その人が初めて我が家を訪れた日、母の背中に隠れた私にその人は腰をかがめて視線を合わせると、はじめましてと言った。その笑顔は、途端に私の緊張を解いた。その日からその人は、私にとって特別な存在になったのだった。私よりも年が上で、落ち着いていて、どこかお茶目な一面も持ち合わせている。そして優しくて、紳士的。手のかかる弟や近所の悪ガキとはまるで違うその人に私が憧れたのは、必然とも言えるのかもしれなかった。

 その人は時々、私に絵を描くところを見せてくれた。それは、デッサンだったり、静物画だったりしたけれど、その人が一番よく描いたのは、雲だった。青い空に映える白い雲。その人は好んでそういう雲ばかり描いた。反対に言えば、その人はそういう雲の他は描かなかったのだ。

 私も真似をして、くれよんや水彩絵の具で青い空に白い雲を描いてみたけれど、出来上がったそれを見てもその人の雲を見た時のような感動はなかった。けれどその人は私の描いたその絵を見て、私の頭を撫でてくれた。幼い私はそれだけで、絵を描いた意味があったと思うのだった。


 ある春の日、その人が桜を描きに行くと言って、私を誘ってくれた。私は出来るだけ良い服を母に出してもらい、それを着てその人に着いて行った。

 着いたのは近くにある公園で、桜は満開と言うには少し足りないと感じるほどである。けれど空は抜けるような青空に白い、ふわふわとした雲が浮かんでいた。それを見上げたその人の口元が緩んでいるのを見て、私もこっそりふふと笑った。その人の両手はキャンバスと道具でふさがっていたから手をつなぐことは出来なかったけれど、二人きりでその人の隣を歩けることが、私には嬉しいことだった。

 桜並木をしばらく歩いたところで、その人はぴたりと足を止めた。このあたりかな、とその人がつぶやく。それからてきぱきと準備を始めるその人の横で、私は桜越しの青い空を見上げていた。さわさわと風が吹いただけで花びらがはらりと散って飛んでいく。足元を見れば、散った花びらがぽつりぽつりと地面に白い斑点を作り上げていた。その小さな斑点の中に一回り大きなものを見つけて近寄ってみると、それはがくのついた桜の花だった。私はそれをそっと拾い上げて手のひらに乗せると、キャンバスを青く塗りつぶし始めていたその人のもとへ駆け寄った。そうして桜の花を乗せた手のひらを突き出しこれは何と尋ねると、その人は少し目を丸くして私の手のひらを覗き込んだ。その人が、ああ、と言った吐息が私の手のひらにかかる。

「鳥の仕業だな」

 その人は笑って、そう言った。私の目を見て、鳥が蜜を吸うんだよと教えてくれるその人の目元はやはり優しくて、私は少しだけ恥ずかしくて目線を下に落とした。その人は私のそんな態度を気にした風でもなく、真っ青なキャンバスへ向き直った。その背中をちらりと見やり、私は手のひらのそれをそっとポケットの中へしまうのだった。


 その年の夏。去年の浴衣が短くなったので、新しい浴衣を作ってもらえることになった。青地に白い文様の入ったそれは私が選んだ反物である。何を思ってその柄を選んだなんてことは、言わぬが花というやつだ。

 その人に新しい浴衣をお披露目すると、似合うよと褒めてくれた。

「青空みたいだね」

 その人に言い当てられてしまって恥ずかしくなった私は、咄嗟に浴衣の袖で顔を隠してしまった。私の気を知らないその人は、綺麗な仕草をするねとまた私を褒めた。

 新しい浴衣を着て、縁日へ行けることになった。もちろん、その人と二人でだ。その人は父の古い浴衣を着て、いつもよりずっと大人に見えた。そんなその人と二人で歩き出した道は、夕焼けの柔らかな赤い光に照らされていて、私の浴衣もその光でほんのりと赤く染まった。私の隣でその人がははと笑う。

「浴衣の空が、夕焼けしてるね」

 その顔を見ながら私は、今なら顔が赤くなっても夕焼けのせいに出来ると思った。

縁日は思った以上に賑わっていた。その賑わいを見てその人がああと声を漏らしたのが聞こえた。

「手をつないで行こうか」

 聞こえたそれに、心臓が跳ねたのがわかった。差し出されたその人の手を取るのにどれだけの勇気が必要だったか、想像できるだろうか。その人は、想像できなかったらしい。想像できたのなら、握り返すのをためらう私の手をこうもさっそうとさらっていくはずはないから。その人の手のひらはじんわりと湿っていて、温かかった。


 ある秋の日。中庭で、その人が空を見上げていた。その横顔が間抜けだったから、こっそり近づいておどかしてやろうと私の中に少しのいたずら心が生まれた。けれど私のもくろみはすぐに失敗してしまう。縁側から降りる踏み石でサンダルを履いたときに、うっかりからんと音を鳴らしてしまったのだ。その人はそれを聞きつけて見上げていた頭をもとに戻すとこちらを見た。と思ったのも束の間、その人は長い間空を見上げていたらしく、首の後ろに手を当ててうめき声をもらした。それがおかしくて笑うと、その人は恥ずかしそうに笑った。

 その人の傍に行くと、見てごらんと上を指すので頭をこてんと後ろへ倒してその人の指す先を見上げることにした。見えたのは抜けるような青い空。そして無数の細長い、白い雲。

「あの雲、何かに見えない?」

 その声の聞こえ方からして、その人もきっと空を見上げているのだろうと思った。なんだろう、わからないと答えると、その人は難しいかと笑った。

「ああいうのをね、いわし雲って言うんだ。もう少し丸みを帯びていればうろこ雲。まあ、ほぼ見分けがつかないけどね」

 正直なところいわしにもうろこにも見えないし、とその人が笑うのでつられて笑うと、反射的に肩が竦んだ。

「こんなことを言っているけれど、俺はいわし雲が一番好きなんだ」

 好き。その人の口からその言葉を聞くだけで心臓がきゅっと締め付けられたのは、私が多感なお年頃だからである。それに一番なんて言葉がのっかってしまえば尚更だろう。その人も空を見上げているから、思わず心臓のあたりを押さえたのはばれていないはずだ。

「あまりうまく言えないけれど、いわしという言葉の響きとか、あの曖昧な様子とか、いかにも秋の季語らしくていいと思う」

 その人の言ったことは本当にうまくなくて、その人の語るいわし雲の魅力は、私にはよくわからなかった。けれど私にとっていわし雲の魅力とは、その人が一番好きなものというだけで十分だった。

 頭をもとに戻すと、首がひどく傷んだ。思わず首の後ろに手を当て、いたた、とうめいた声がその人のものと重なった。首は痛くて動かせないので目線だけをその人へ向けると、その人も同じようにこちらを見ていて、今度は思わず笑ってしまった声がその人のものと重なる。笑うと、首が痛かった。


 それから数日して、中庭にキャンバスを立てて座っているその人を見た。サンダルで踏み石をからんと鳴らして合図をすると、その人は振り返って笑った。キャンバスが真っ青だったから、その人が空を描いているのだということはすぐにわかった。その人の傍へ寄って空を見上げると、そこにはあの日見たような雲が浮かんでいた。いわし雲だ。あれを描くの、と聞くとその人はうんと答えた。

 キャンバスに向き直ったその人はパレットから白い絵の具を選ぶと、それをべったり筆につけた。そうして筆をキャンバスへ向かわせると、真っ青なキャンバスにひらがなで、いわしと書いた。私が思わず吹き出すと、その人は振り返って、いたずらっ子のような笑顔を見せた。いわしの銀鱗よりまぶしいそれに、頬に熱が集まるのがわかる。それを隠すように笑ってみせると、その人は再びキャンバスへ向き直った。私はその背中から目をそらすように、空を見上げた。

 抜けるような青い空に、細く白いいわし雲。冷たい風が火照った頬を撫でて吹き過ぎていった。


 また別の日、いわし雲に似たそれを見つけて、その人を中庭へ連れ出した。私が指差した先のそれを見て、その人はため息交じりにああともらした。

「あれ、下のところが黒いだろう? ああいうのはひつじ雲っていって、雨が降り出してくるかもしれない雲だ」

 言われてみるとそれはいわし雲よりもずっと陰気で、図体もでかいように思えた。

「雲の好きな友人に聞いたんだけれど、あれはいわし雲よりずっと低い場所に出来るんだそうだ」

 反対にいわし雲は空のもっと高い場所に出来るそうだよと、その人は言った。

「だから、あれの上にはもしかするといわし雲があるかもしれなくて、いわし雲を隠してしまうなんて、あれは本当に、憎らしいやつだ」

 嫌い?と聞くとその人はいいやという言葉で否定した。私はその人の口から嫌いという言葉を聞かずに済んだので、ほっとしていた。

 雨が降らないうちに中に入ろう、というその人の言葉でようやく見上げていた頭をもとに戻すと、首がひどく傷んだので思わずいたた、と手で押さえた。痛がる私の様子にその人が笑うのが聞こえる。首が痛いのでそちらを向くことは出来ない。うーっとうなって不平を訴えると、首の後ろにふっと温もりを感じた。

「笑っちゃってごめんね、大丈夫?」

 私が首の後ろに当てた手にも重なるそれが、その人の手だということはすぐに理解できた。けれどそれを理解できることと、冷静でいられることは別である。自分では見えない場所に触れられることほど人を緊張させることはない。それが、その、そういう人が相手ならば、尚更だ。更にはそれが、想いを秘めている相手ならば、もっと。耳の奥に響く鼓動の音と、ぎゅうと締め付けられる胸の痛みに、私は首の痛みなどすっかり忘れてしまっていた。


 冬はつとめて、と書いた大昔の人がいる。つとめて、は日の出直後の早朝を意味するのだそうだ。だから冬はつとめては、冬は早朝。冬は早朝が趣深くてとても良いという意味だと習った。しかし、冬の早朝の何がいいものか。寝相が悪くて布団を蹴飛ばし、寒さで目が覚めてしまった早朝の気持ちたるや、残念ったらない。手繰り寄せた布団の中で足をすり合わせるけれど、すぐには温まらない。なんだか目を閉じていられない気がして目を開けた。私は寒さに眠気がすっかり奪われたことをようやく認めて、お手洗いへ行くべく布団を出ることにした。

 お手洗いからの帰り道、中庭で空を見上げるその人を見つけた。サンダルで踏み石をからんと鳴らすと、その人は私に気づいてこちらを見る。おはよう、と言ったその人の吐息が白く宙に浮かんで、すぐに消えた。

 その人の隣で空を見上げると、薄い青色をした空がどこまでも広がっていた。

「冬は早朝がいいと、昔の人はとてもいいことを言うな」

 その人の言葉に、どきりとした。同じことを考えていた。いや、私は何がいいものかと言ってしまったけれど、それは気の持ちようでどうとでも変えられるものであって。その人とこうして空を見上げることのできる早朝ならば、たしかに冬の早朝はいいものだと思う。

「冬は空気が澄んでいて、遠くまで見えるんだ。だから成層圏まで見える気がして、冬の早朝はつい長く空を見上げてしまうね」

 その人の言っていることはよくわからなかったけれど、冬の早朝は空気が澄んでいて、なんだか空がいつもより綺麗に見えるのだなということは分かる気がした。

「それにこうして空を見上げたまま息を吐くと、白い息が雲みたいに見えるだろう」

 ほうっと息を吐くと、白い息が薄い青色の空に広がってすぐに消える。雲みたいね、と言うとその人が嬉しそうにそうだろうと言う声が聞こえた。面白くて何度も白い息を吐き出していると、その内口の中が冷えてしまったのか白い息は出なくなった。すると途端に寒さを感じて、体がぶるりと震える。見上げていた頭をもとに戻すと両手の指先を合わせて唇につけ、はあっと温かい息を吹き込んだ。それから両手をすり合わせて温めながら隣に立つその人を見ると、その人はまだ空を見上げていて、ぽかんと開いた口からはかすかに白い息が立ち上っていた。

 途端にその人がひゅっと息を吸ったかと思うと、その人は体をぶるりと震わせて見上げていた頭をもとに戻した。それがおかしくて思わず笑うと、その人は照れくさそうな視線を寄越して、寒いねと笑った。


 その頃もう戦争の影は忍び寄っていて、私の鼻歌はそのほとんどが学校で教わった軍歌になっていた。

 そんな中、ある秋の日。その人が田舎へ帰ることになったと告げられた。私は、自分でも驚くほどに泣きじゃくってしまった。いい歳をして、いやだと駄々もこねた。幼いながらに、これがその人との一生の別れになると感じていたのだ。両親が私を諭した言葉は、仕方がないというものだった。戦争だから、と。私だってそんなことはわかっている。わかってはいるが、涙は出てくる。

 その人は、そんな私の手を引いて中庭へ連れ出した。その人はつないだ手をそのままに、私に上を見てと言った。見上げた先には、抜けるような青い空。それから無数の白い雲の群れ。相変わらずいわしに見えないそれは、その人が一番好きだと言ったいわし雲だった。その人が、綺麗だ、とつぶやく。

「こんなに綺麗ないわし雲を、最後に一緒に見られてよかった」

 その言葉で、私はその人もこれが最後だと感じているのだということを知った。だからその人は、またすぐに会えるよという気休めはまったく言わないのだ。それはたぶん、両親も同じである。仕方がない、のだから、気休めの言葉なんて空しいだけだ。

「ありがとう」

 その人は、唐突にそんなことを言った。

「そんなにも悲しんでもらえることは、嬉しいことだ」

 そう言ってその人は、もう一度ありがとうと言った。私は何も言うことができず、ただにじんだ空と雲を見上げて唇をぎゅうとかみしめていた。

 翌日の早朝、その人は汽車で田舎へ帰っていった。

 それからしばらくして、我が家も母の実家に身を寄せるためにこの家を離れることになるのだった。これがその人との一生の別れになると私が感じた通り、我が家は戦争の終結後もとの家に戻ったけれど、その人が再び我が家を訪れることは一度も無かった。



 その人の絵と再会したのは、まったくの偶然であった。

 母の勧めで結婚した夫は絵の好きな人で、暇があれば美術館や画廊へ出かけていく人だった。

 いつもは一人で行く夫だが、その日は一緒に行こうと私を誘った。出かけた先は、個展が開かれているという画廊だった。そこで私が見たのは、何十枚もの雲の絵だった。といっても、抜けるような青空に描かれた白い雲ではまったくなくて、もっと陰鬱な、どんよりとした雲。記憶に残るその人のものとはまったく違うそれを見て私はなぜだかそれが、その人の絵だと思ったのだった。陰鬱でどんよりとしたその雲は、その人のものとは似ても似つかないはずだというのに、私はそう思えてならなかった。それが不思議で、不安で、いや、それよりも、この絵があるということはその人が生きているということで、けれど、その絵は私の知っているその人のものとは違って。様々なことが頭の中を駆け巡る。夫に声をかけられて私はようやく自分の足が止まっていたことに気が付いた。顔を見た夫は優しげにほほえんでいて、そんなに気に入ったのかと言った。私はそれに、曖昧な笑みを返すことしかできなかった。そんな私に夫は、気に入ったのなら一枚買おうかと言う。私が驚いたようにえっと聞き返すと、夫は結婚記念日の贈り物をしたいんだと言った。結婚記念日。ああそうか、だから夫は、私をここに誘ったのか。

 私は夫の愛情を受け取る意味で、その人の絵を受け取ることにした。そして受け取ったそれは、寝室の壁に飾られるのだった。

 私はそれを、何気ない瞬間に何度も眺めた。暗くて図体のでかいその雲は陰鬱で息苦しくて、見ていると私はなんとなく悲しい気持ちになるのだった。それでもなぜだか目をそらすことはできず、一度眺めると長い間見入ってしまうのである。見ていると悲しくなるその絵を、私は寝室の壁から外すことも出来ず、その絵が目に留まる度見入っては悲しい気持ちになるということを繰り返した。


 それから数十年が経ったころ。その人の陰鬱な絵がなにか大きな賞を獲ったらしく、その人の名は一躍世に広まることとなった。

 夫は私を、絵を見る目があるんだなあと褒めたが、私の心は複雑だった。この陰鬱な雲の絵は、私の知っているその人のものではない。その絵でその人が世間に認められたことは、なんとも言い難い思いだった。

 その人の絵が評価された理由は、その陰鬱な雲が漠然とした不安を見事に表現しているということらしかった。その理由を知ったとき、私はこの陰鬱で図体のでかい雲は、その人の漠然とした不安なのかもしれないと思ったのだった。


 その人は、やはりというか、戦地に行っていた。私がそれを知ったのは、夫の購読している雑誌を読んだからだった。有名な画家ともなればその半生が特集で組まれたりすることもある。戦中戦後のその人の壮絶な半生を書いたその記事を読みながら、私はあることを思い出していた。

 縁側に座ったその人は、同じように隣に座る私のいとこと話をしていた。たしか、いとこが志願して軍隊に行く前日のことだった。私はそれを、襖の陰で聞いていた。

「実は外国の空に興味があって、軍隊はいいなあと思うことがあるんです。だって、軍隊なら外国の空がタダで見られるでしょう」

 いとこはその人の言葉に、呆れたように笑っていた。襖の陰で聞いていた私も、少し笑った。あんまりその人の言い方が、無邪気に聞こえたからだ。空のことしか頭にないのか、と思うと自然に頬がゆるんだ。

「外国の空は、いったいどんな青さで、どんな白い雲があるんでしょう。それとも空は、どこでも変わりのないものなんでしょうか。興味は尽きません」

 その人がそう言う声は浮かれた調子で、その無邪気さに、やはり聞いているこちらの笑みがこぼれた。

 そんなその人が外国の戦地で見た空は、どのようにその人の目に映ったのだろうか。記事の中でその人は、初めて見た外国の空は、美しかったと語っていた。しかしその次には、その美しい空は次第に様相を変えていったと語る。その先を読もうとしたのだが、ついにかすんだ目に限界が来たのでその日はもうそれ以上は読むことが出来なかった。翌日になるとなぜだかもう一度読んでみようという気にはなれず、そのうち雑誌は夫の本棚の奥にしまわれたのだった。


 近頃体調の良くなかった夫に外出許可が出たので、久々に外へ連れ出した。病院の近くにある公園で夫と手をつないで歩いた。しばらく歩くと、夫が芝生に座ろうかと言うので二人で芝生に腰を下ろすことにする。

「あれ、ああいう雲、なんて言うんだっけ」

 空を指した夫がそう言うので見てみると、抜けるような青い空に、細く白い雲の群れが浮かんでいた。あれは、いわし雲だ。夫に教えると、夫はそうそうと言った。

「いいよね、いわし雲って言葉の響き。僕がいわしが好きだからかな」

 そう言って夫が笑うので、私もつられて笑った。

「退院したら、君の作るいわしの梅煮が食べたいなあ」

 言いながらお腹のあたりをさする夫に、私は、はいと答えて頷いた。けれどその約束を果たすことは出来ないまま、夫は先立ってしまった。娘夫婦のところに、孫が生まれたころだった。


 夫の遺品を整理していると、数枚のあるものが出てきた。それは、雲の絵。陰鬱でどんよりとした雲は紛れもなく、その人の絵だった。夫は絵を買ったとき、必ず私に見せる人だった。けれどこの陰鬱な絵は、見せられたことはない。ここにあるということは、夫が買ったものであることは間違いないだろう。夫はなぜ、どうして、隠していたのか。

 絵を裏返すと、そこには白い封筒が張り付けられていた。封のされているそれを丁寧にはがすと、上の方を細く破いて開封する。そうして取り出した手紙は、夫の字でつづられていた。


『君がこれを読んでいる頃、僕は君を置いて逝ってしまったことだろう。君を悲しませてしまったことは、本当に申し訳ないと思う。

きっと君は今、僕の部屋で“あるもの”を見つけて驚いていることだろう。僕は、僕の生きている間はこれらを絶対に君には見せないようにしようと決意した。なぜならこれらはきっと、君にとって特別なものだと思うからだ。

君を画廊へ連れて行ったあの日、僕は君がこの絵を気に入ったんだと思った。けれど繰り返しその絵を眺める君を見ていて、少し違うのだとわかったんだ。

君はとても複雑な思いで、この絵を見ていたんだね。なぜなら君がこの絵を見る時、君はいつも泣きそうな顔をしていた。僕は、ようやく気が付いたんだ。君が初めてこの絵を見たあの日も、同じ顔をしていたと。

けれど君は、この絵をしまうことはしなかった。寝室の壁に飾って、ふとしたときに眺めていた。だから君が、この絵が好きであることも本当の事なのだと思う。この絵を君に贈ろうと買ったのだけど、君の悲しい顔が浮かんで、渡すことが出来なかった。

いいや、本当のことを言うと、それだけではないんだ。この絵が君にとって特別なものであること。つまり、きっと、これを描いた人間が、君にとって特別な人だったのだろうと思って、つまりその、嫉妬を、したんだ。ああ、こういうのは文字で書くことすら恥ずかしいな。つまりまあ、複雑な男心というものをわかってもらえると嬉しい。

なにはともあれ、ようやく、これらを君に贈ることが出来る。僕の事はいいから、とは正直なところ言えないけれど、どうか、君は君の幸せを考えて。これからの君の人生に、この絵を贈ります』


 手紙の内容は、始終夫の声で、私の頭の中で読み上げられた。それと同時に、照れくさそうに笑う夫の顔が浮かんで、涙がこぼれる。これらのその人の絵は、私にとってその人の絵であると同時に、夫の愛情でもあったのだった。それを深く理解した今、私はこの絵を手放すまいと固く決意するのだった。



 その人が、死んだ。病気だったらしい。私が娘家族と同居を始めたころだった。

 私がそれを知ったのは、なんとなく見ていたテレビ画面の上部に流れた速報でだった。その瞬間私は、その人の死は速報で知らされるようなことなのかと思った。つまり私はその瞬間、その人の死が悲しいとは思えなかったのだ。


 その人の死が知らされてから何週間か経ったころ、娘家族との夕飯の最中にそのニュースは流れた。その人の遺品から、未発表の作品が見つかったのだという。画面に映し出されたそれに、ひゅっと息をのんだ。

それは、あれは、私の知っているその人のものだった。

 抜けるような青い空。そこに描かれているのは、薄い、白い雲ではなくて、白い、いわしという文字。途端にその人のいたずらっ子のような笑顔が頭に浮かんで、私の胸を締め付けた。

娘が慌てて私を呼ぶ声が聞こえた。どうしたの、と言って心配そうにこちらを見ている。そうしてようやく気が付いた。私は、涙をこぼしていたのだ。

 その人は、その人はあれを捨てずにいた。あのころのその人を、捨てずにいたのだ。ああ、そうか、だから私は、初めてあの陰鬱などんよりとした雲の絵を見たその日、それがその人のものだと気付くことが出来たのだ。その人の描いた、暗くて図体のでかい陰気な雲。それは、その人が憎らしいと言ったひつじ雲だった。きっとその人が描いたひつじ雲の上には、抜けるような青空と、白いいわし雲があるのかもしれなかった。いや、きっとある。必ずある。だって、その人はあれを捨てずにいたから。ずっと、ずっとひつじ雲の上に隠していたから。いわし雲の好きな自分を、その人はひつじ雲の上に隠していた。自分が死んでしまうまで、ずっと。

 いわし雲を隠してしまうなんて憎らしいやつだと、その人は言った。そう言ったその人は、その人が、死んでしまった。死んでしまったのだ。ようやく悲しみの波が押し寄せてきて、私の目からぼろりぼろりと零れ落ちていった。

 いわし雲を覆って隠してしまうなんて、ひつじ雲は、憎らしいやつだ。いいや、違う。このひつじ雲は、憎いやつだ。私はその人の描いたこのひつじ雲が、嫌いだ。その人のいわし雲をすっかり覆って隠してしまうこのひつじ雲が、嫌いだ。大嫌いだ。

 大嫌いだ。


 その日以来、私は寝室の壁からその人の絵を外した。その陰鬱なひつじ雲の上に白いいわし雲が隠されていると思うと、まったく見ていられなくなってしまったのである。それでもその絵が夫からの愛情でもあることは変わりなく、私はその絵を夫からの手紙と共に大切にしまいこむのだった。


 最近ダイエットを始めたらしい娘に散歩に誘われたので、一緒に出掛けることにした。行先は、近所の公園である。

 あの雲キレイだねと娘が指した先に、細く白い雲の群れがあった。いわし雲ね、と言うと娘はええっと言って笑った。

「全然いわしに見えない」

 私は娘にそうよねと笑ってから、でもいわしって言葉の響きがいいじゃない、と言う。娘はあははと笑って、お父さんいわし好きだったもんねと言った。私は娘に、うんと答えた。

 それからもうしばらく歩いたころ、向こうの空から陰気な雲が迫ってくるのが見えた。思わず、いやだと口をついて出た。娘がどうしたのと聞くので、向こうに見える陰鬱な雲を指してあれと言う。すぐに天気が崩れるわ、と言うと娘は、洗濯物干しっぱなしと言って慌てはじめた。

 私は娘に雨が降る前に帰りましょうと声をかけると、迫ってくるひつじ雲に背を向けた。そうして白いいわし雲の方へと、歩き出すのだった。





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― 新着の感想 ―
[良い点] 青い空に白い雲がゆったり流れていくような感じが良いです。 頭の中で声が流れるとかいい表現ですね。 [一言] こういうお話も面白いです。
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