コルヴィス・ファイル ②
後編もお読みくださり、ありがとうございます。
16
烏森は双眼鏡を両目に当てて、根気強くネバーランドの建物を観察し続けながら(菜那と石室を乗せたバンが門をくぐって以来、人の出入りも車の出入りも一切なかった)‘課長’からの連絡を待ち続けていた。
中はいったいどうなっているんだろう。
菜那は無事なのか。
石室は何の行動も起こしていないのか。
そろそろ我慢も限界に近づいていた。
ジーンズの尻ポケットに突っ込んでいたスマホが振動した。烏森はもどかしげにスマホを取り出して、耳に当てた。
「どうした。騎兵隊は来ないのか。俺はどうすればいいんだ」
「そこにいろ。これから見ることを、私に報告するんだ」
「これから見ること?」
烏森の訓練された耳に、くぐもった低い音が海上かなたから入り込んできた。
「おい、何か音が聞こえるが、あれは」
「攻撃用ヘリコプターだ。ネバーランドを上空から爆撃する」
烏森は‘課長’の言葉と、自分自身の声に狼狽を聞き取ったことの二つに驚いた。
「おい、菜那がいるんだぞ」
「わかっている。君は忘れているのかもしれないが、石室と本物の浅野教授もいるはずだ。私は忘れていない。それでも攻撃は必要なのだ」
殺してやる、烏森の心はどす黒い殺意で満たされた。
「あんたは総理からの命令しか受けないと言っていたはずだ」
「その通り」
総理からの直接の命令なのか。
「俺が今から突っ込む!」
ヘリの音は刻々と大きくなっていた。すぐに車に飛び乗り、突進したとしても、絶対に間に合いはしないとわかってはいたが、烏森はスマホを怒鳴りつけた。
「待て、私の言うとおりにするんだ。見えるものを報告するんだ。それしか、道はない。私を信じてくれ」
‘課長’を信じるつもりも、信じるべき理由も全くなかった。
石室はそのままスマートフォンを地面に叩きつけて踏みにじり、車に飛び乗って突撃を敢行していただろう。スマホを耳から離そうとしたその瞬間に、‘課長’の言葉が耳に飛び込んでこなかったならば。
「頼む」
それまで烏森が耳にしてきた‘課長’の言葉には、いかなる人間的な感情も込められていなかった。人工知能があくまで合理的に算出した結論を、音声合成ソフトで発話したかのように、人間的な暖かみは皆無で、悲しみも怒りも、どんな形の悪意さえも欠如していた。
だが、そのたった一言「頼む」には、焦りと思いやりと、そして烏森に対する絶望的な信頼が込められていた。
烏森の手の動きは、意識的にそうする前に止まった。
なぜなのか、烏森自身にも理解できなかったが、彼はスマホを再び耳に当てた。
「俺はここでは絶対に死なない。どれほど傷を負おうが、たとえ今度こそ心臓を撃ち抜かれようが、必ず貴様のところへ戻る。そのとき、菜那が死んでいたら、俺はお前を考え得るもっとも残酷なやり方で殺す。信じた方がいい。俺はやり方を知っているし、やったこともある」
スマホは無言のままだった。‘課長’は答えるつもりはないらしい。だが、メッセージは伝わったはずだ。
ヘリの音はますます大きくなり、もはや爆音と言うのにふさわしい音が周囲に響き渡っていた。
ヘリ自体の姿もますます大きくなっていた。沈みつつある夕日を背に、真っ赤に染まった空と海面を低空飛行しながら近づいてくる。血のような海面を、ローターの巻き起こす風で波立たせながら、AH‐1コブラがネバーランドに接近していた。その名のごとく、切り落とされた蛇の頭部のようなボディには、それが自衛隊のものにせよ、米軍のものにせよ、所属を示す文字は一切ない。隠密任務用に使われる機体なのだろう。
機体の両側にロケット弾ポッドとTOW対戦車ミサイル発射機が装備されていることを、烏森の鋭い目は一瞬にして見て取った。
コブラが牙を剥けば、ネバーランドは一瞬にして壊滅し、地上から消え去るだろう。
菜那たちとともに。
烏森の脳裏に、好奇心いっぱいの子供のように大きく見開かれ、くるくると回る菜那の目と、そしてほんのつかの間、目にすることになった自分自身の娘、絹子、の顔が同時に浮かんだ。
くそ、殺す。
やはり‘課長’は嬲り殺しにする。
そのとき、ネバーランドの異変に、烏森は気づいた。
17
部屋のドアがゆっくりと開き、グレイのスーツに身を包んだ男が入ってくると、それまで気持ちよさげに話を続けていたドクターはぴたりと口を閉じ、そちらに鋭い眼差しを向けた。
「どうした」
「ヘリが一機こちらに向かっています。コブラです」
菜那の瞳が希望で輝くのを見て、石室の心は痛んだ。
救出作戦であれば、イロコイやチヌークなど、隊員たちが何人も乗り込めるヘリが使われるはずだ。二人乗りのコブラが使われたということは、ヘリが着陸し、そこから救出部隊が降りてくるということはない。空中からの攻撃が指示されているはずだ。
そしてコブラなら、ネバーランドを一瞬にして消滅させることができるだけの火力が装備できる。
石室は、いかなる感情も表に出したことのない‘課長’の顔を思い浮かべた。
「おい、どうする。ばれてるぞ。こいつらが場所を知らせたんだ。早く殺して、ふけちまおう」
竜崎がぎらりと燃える目で菜那と石室を睨み付けた。
「ふむ、連絡などさせないように、通信機など身につけていないかを、しっかり確認しておくように、君に頼んでおかなかったかな」
穏やかな物言いだったが、その言葉に秘められた怒りと冷たさは、竜崎を震撼させるのに十分なもののようだった。
「調べたさ。ちゃんとな。信じてくれ」
打って変わって、慌てたいいわけがましい調子で竜崎は喚いた。
「まあ、いい。そういうことなら、たぶん、石室君の体内に探知不能の発信装置が埋め込まれているのだろう」
そういうことなんだろうな、と石室自身も見当を付けた。それにしてもドクターは冷静すぎる。そのことが石室にはどうにも気に入らなかった。もっとも、現在の状況の中に、彼の気に入っている要素など一つもなかったが。
「まあ、そのあたりは、後で君の体を徹底的に調べさせてもらって、最終的には解剖する際にわかるだろう」
石室が‘課長’のリクルートに応じ、また顔と全身のオーバーホールに応じたときも、彼が超人的に身体能力を持つようになった原因は徹底的に調べられたはずだった。だが、結論は出なかったという。代謝が異様に高く、筋力、瞬発力、骨の強度など、すべて常人のそれらを遙かに超えている理由は、結局わからないままだったと知らされたとき、石室は落胆した。ドアーズによって、いかなる改造を施されたのか、彼自身知りたいと思っていたのだ。
俺を調べたのは日本でも有数の医療調査チームだったはずだが、こいつらならさらに進んだ技術と知識を持っているかもしれない。そうなれば、俺自身知らない俺の秘密を突き止めてくれるかもしれない。解剖もするって言ってるしな。
まあ、何が明らかになるにしろ、その時にはもう死んでいる俺には知ることができないようだが。
「いずれはこうなるだろうと思っていたよ。いや。かえって好都合だ」とドクター。
「何を言ってるんだ」竜崎がまた吠えた。
「敵の力を利用して、このお嬢さんを手に入れようと計画した時点で、こうなることは予測できたと言っているのさ。もう、代替の施設は九割方用意できている。そこへ引っ越すまでだ」
ドクターは石室の方に顔を向けた。
「さあ、見晴らしのいい場所に案内するよ。そちらのお嬢さんも、お父さんとご一緒にどうぞ」
ドクターがにやりと笑った。
「面白いものを見せてあげよう」
18
建物の屋上中央から、角の部分が丸みを帯びた四角い筒が四つ水平に並んだものを載せた台がせり上がり、海に向いた先端部が三〇度の角度に上向いた。
それが何であるか、烏森は瞬時に見て取った。
八一式短距離地対空誘導弾発射装置だ。
さすがに、改良型の一一式ではなかったが、しかし、これでも手に入れたというのは大したものだ、と烏森は感心せずにはいられなかった。
烏森は手にしたスマートフォンで‘課長’に語りかけた。
「ネバーランドには誘導弾が備えてある。今、見えている。早く知らせてやれ。引き帰させるんだ」
オフィスの中にいる‘課長’は、スマートフォンを左手に持ち替え、右手で卓上の固定電話のボタンを押して受話器を置いたまま電話をかけ、通話ができる状態にした。
「おい、聞こえたのか? 中止だ。中止させるんだ」
烏森の碇と焦りに満ちた言葉を、‘課長’は無視した。
数秒待ってから、卓上電話の、あらかじめ登録してある番号の登録してあるボタンを押した。
「私だ。ヘリは攻撃を受ける。先制攻撃の時間はない。引き返そうとしても着弾は避けられない。脱出させろ」
誘導弾の一発が白い煙を吐きながら、解き放たれた矢のようにコブラに襲いかかろうとするのと、コブラから二つの小さな点が海上に落下するのは、ほぼ同時だった。
誘導弾はヘリの機体を直撃した。
炎に包まれた機体の上で、ローターは数秒回転を続けていたが、燃え尽き書けた線香花火のように、赤とオレンジに包まれた機体とローターはばらばらになり海面に落ちて、無数の水しぶきを上げた。
実のところ、海に落ちたパイロット二人が助かったかどうか、烏森は全く気にかけていなかった。
彼にわかっているのは、これで時間が与えられたということだ。
ネバーランドの四階、海側に面して大きな窓のあるフロアは、入院患者たちのための談話室として設計されたものらしく、あちこちに古いが高級そうな、洒落たデザインのテーブルやソファが置かれていた。
窓からの眺めも素晴らしく、広々とした海面が、どこまでも見渡せた。
しかし、石室は眺望を楽しむ気にはなれなかった。
建物の中に入る際、石室は顔を上げて、五階建ての建築物の最上階であるべきところに、窓が一つもないことに気づいていた。
だから、ヘリコプターが迫ってくるとともに、フロアの天井から重々しい機械音が響き、爆音とともに部屋全体が振動しても、それほど驚きはしなかった。
よく磨かれたパノラマ状のガラスがビリビリと鳴った。
ミサイルがヘリコプターを直撃するのが見えた
石室は超人的な動体視力によって、スコープなど使わなくても、乗組員たちが海上に脱出する様子も見てとっていた。
ヘリが炎に包まれると同時に、浅野教授を支えるように寄り添って立ち、共に窓の外を見つめていた菜那が小さな悲鳴を上げた。
「また人を殺したのね」
菜那がドクターにぶつけた言葉には、怯えた調子はなく、ただ怒りと非難に満ちていた。
「それはどうかな。ミサイルが当たる前に、何か海面に落ちたのが見えたような気がするんだが。あれがパイロットとシューターだったとしても、上から降ってきたヘリの残骸で命を落とした可能性は大きいがね」
ドクターは菜那の方を見て、傷ついた調子で大げさに言葉を続けた。
「感謝してもらいたいんだが。あのヘリは君たちを救助に来たのではない。君たちごと、ネバーランドを吹き飛ばしにきたんだ。助けに来たのなら、二人乗りの攻撃ヘリではなくて、兵士たちが乗り込める輸送ヘリが来ていたはずだ。つまり、君もお父さんも、今生きていられるのは私のちょっとした用心のおかげだということなんだよ」
浅野教授が嗄れた細い声で、言葉を発した。
「私は死んでしまった方がいい。罪を重ねた。だが、菜那は巻き込まないでくれ。自由にしてくれれば、どんな命令にも従うから」
「パパ!」菜那が顔を歪め、泣きながら抗議をした。
「やっと会えたのに、そんなこと言わないでよ」
燃えるような眼差しをドクターに向けた。
「何をさせられたのか、よくは知らないけど、こいつらに掠われて、無理矢理させられたんだから、パパはちっとも悪くなんかないよ」
ドクターは、ふざけ半分の傷ついた芝居をまだ続けていた。
「おいおい、何でもかんでも私のせいかね。人を非難する前に、君のご立派なお父さんにちゃんと確かめてみた方がいいんじゃないのかな」
浅野教授がうめき声を漏らし、その場に頽れかけた。
「パパ!」菜那は必死で支えた。
「私は・・・」 どうしても言いたくはないこと、言ってしまえば破滅すること、それでも言わねばならないことを言葉にするために、浅野教授は両足を踏ん張って立ち直った。
「確かに私は掠われた。でもね、菜那。その後の研究は強制されたわけでも、脅迫された結果でもないんだよ。少なくとも、最初のうちはそうではなかった」
菜那は魅入られたように父親の顔を見つめていた。父の話の続きを聴きたくはなかった。しかし、浅野教授が話さねばならないと知っていたように、菜那も聴かねばならないのだと理解していた。
「人工冬眠に関する彼らの研究は進んでいた。資金も設備も、好きなだけ使わせてくれた。冬眠と代謝の関連を研究することで、人間を強化し、病気にかからない人間を作ったり、不治の病を治療するチャンスが与えられたんだ。私は自分から、そのチャンスに飛びついたんだよ」
「でも、知らなかったんでしょ。犯罪者が刑を逃れるための設備だなんて、あんな」
菜那は燃えるような怒りの眼差しを、竜崎の方に向けた。
「あんな化け物を作るための研究だなんて」
竜崎の、傷ついたような、怒りに満ちた声は芝居ではなかった。
「なあ、ドクター。どこか部屋が開いているだろう。この女としばらく二人きりにしてもらえないかな」
菜那の方に卑猥な目つきを向けた。
「怪物ってのが、どういうものか、ゆっくりと教えてやりたいんだよ」
竜崎の薄い唇が、残酷な微笑の形に歪んだ。
「案外、気に入ってもらえると思うんだがな、お嬢ちゃん」
やせ細り、やつれた浅野が、どこにそれほどのエネルギーが残っていたのかと思わせるほどのスピードで、竜崎に飛びかかろうともがくのを、菜那が必死の形相で抑え、止めていた。
「いいかげんにしろ」
ドクターの口から鞭のように飛び出した言葉に、竜崎の笑みはたちまち凍り付いた。
「この娘さんには一緒に来てもらう。浅野君に研究と、新しい施設の運営と維持を手伝ってもらわねばならないからね」
ドクターは、言うことを聴かないペットを憎んでいいやら、かわいいと思っていいやら、決めかねている飼い主のような表情で、石室に語りかけた。
「困った男なんだ。何が気に入らないのか、協力を拒否するようになってね。挙げ句の果てには、自殺しようとまでしたんだ。まったく、少しは命を大切にすることを学んでほしいものだよ」
最後の言葉に、皮肉もユーモアも全く込められておらず、至極きまじめな調子だったことが、逆に石室を戦慄させた。菜那は父親の体を支えながら、怒りに満ちた眼差しをドクターに向け続けている。
ドクターは、その眼差しをまともに受け止めて、少しも動じる様子はなかった。
「そこで君の助けが必要なんだ。いろいろと面倒な細工をしてまで、探し出さねばならなかったというわけさ。もっとも、おかげで石室君という興味深い実験用マウスが手に入ったし、われわれにとって将来的な脅威になるかもしれなかった勢力の芽を摘むことができたわけだがね。いずれにせよ、君が手に入った以上、浅野君は積極的に、精力的に研究に邁進してくれると、私は確信しているんだよ。
きちんと結果を出してくれれば、君にもお父さんにも、何の不自由もさせないよ。まあ、施設の内部において、という制限は付けさせてもらうがね。万が一、逆らおうとしたり、自らの命を絶とうとすれば、そうだな、絶対に殺してはいけないという条件付きで、竜崎君と二人だけの時間を用意させてもらうことになるかもしれない」
竜崎のあえぎ声は、絶食の後にお預けをくらった意地汚い犬のようだった。
「殺さなきゃ、いいんだろ。わかったよ」
「だから、万が一、逆らったら、と言っているだろうが。まったく困ったものだ」
ドクターは、一転してうきうきとした声を出した。
「さて、次のお客さんが来ないとも限らないからな。いざ、新天地へ!」
20
都心の本部では、‘課長’が質素なオフィスで、デスクの後ろのソファに深々と腰掛け、待っていた。
何を待っているのかは、自分でもわかっていない。
それでも、彼は待っていた。
待つことしかできなかったのだ。
自分は総理からの直接の指令しか受けないのだと‘課長’は烏森にも石室にも説明していた。それは嘘ではなかった。
しかし、総理が誰からの指示も受けないということにはならない。
八十歳を過ぎているはずの鯉沼が、数発の弾丸を体に撃ち込まれ、高所から落下してアスファルトの地面に激突した後も暴れ続け、数人のやくざを惨殺し、腹部に刃物を深々と突き立てられてからやっと絶命したときから、様々な可能性が上層部の、極めて限られた人々によって議論され、浅野教授の失踪と結びつけられた。
太平洋戦争末期に行われていた、冬眠と代謝変革による超人誕生の研究の記録も、ごく僅かだが残っていた。
超人兵器が実現したとなれば、世界中の大国がその技術を求めるはずだ。あるいは、大国の軍事力と対等に戦うための切り札として、テロリストたちの間でも争奪戦となるだろう。
いずれにせよ、日本政府は非常に困難な立場に置かれることとなる。アメリカは技術の供与を求めてくるはずだし、そうなればロシアも中国も黙ってはいないだろう。
国内の極右勢力は、超人兵士による日本の軍事大国化を画策するはずだ。その動きがアメリカに漏れれば(漏れないはずがなかった)日米の安全保障関係は脆くも崩れ去る。一旦、極右勢力と超人兵士作成の技術が結びつけば、アメリカによる日本への先制核攻撃の可能性さえ出てくる。
総理一人の考えだったのかもしれない。‘課長’には、そうは思えなかったが。いずれにせよ、竜崎もまた超人的な戦闘能力を保持していたという報告を‘課長’から受けた総理は、ネバーランドを速やかに殲滅し、人工冬眠の技術と超人兵士誕生の技術を葬り去るという決断を下した。石室、浅野教授とその娘共々。
それは国防、国際政治の観点からは、きわめてまっとうな判断だった。‘課長’にも、そのことはよくわかっていた。
しかし、‘課長’は別の判断を下した。今の時点で石室を失ってしまえば、立ち上がったばかりの、いや、まだ立ち上がったとさえいえない新たなチームは消滅してしまう。烏森が生き残った場合、単独でも強力な武器となりうることは確かだ。だが、危険すぎる武器だ。同じように危険で、しかし、性格は対照的な石室と組ませることで暴走を抑えると共に、最高のパフォーマンスを引き出すことができるはずだった。それは石室にとっても同じ。
この二人以外のメンバーは考えられなかった。どちらか一方を失ってしまえば、‘課長’の新たなチームは瓦解する。
たとえ、目前に迫った危機を回避できたとしても、やがて新たな危機が続けざまに訪れるはずだ。それらはネバーランド事件に匹敵する、あるいはそれ以上に謎めいた、破滅的なものになるはずだ。‘やつら’が背後にいるのだとすれば。それらの危機に太刀打ちできるのは、それらを食い止める可能性を秘めているのは、石室と烏森の組み合わせのみだと‘課長’は確信していた。
だから‘課長’は賭けたのだ。
ネバーランドの建物の五階があるべき層に、一つも窓がないということを烏森から報告された‘課長’は、なんらかの防御/攻撃の仕掛けがあるものと見当を付けた。
発射装置らしきものが稼動し始めたという烏森の声を電話で聞いた‘課長’は、コブラが引き返すか、進路を変えて誘導弾をかわすのには遅すぎるが、乗員の二人が脱出するのには間一髪で間に合う、ぎりぎりのタイミングを待ち、基地に連絡した。
海面に飛び降りた二人が、爆発したコブラの破片で命を落とさない保証はどこにもなかったが、‘課長’にはほかの選択肢がなかった。
一人は重傷を負い意識を失ったが救命胴衣のおかげで海底に沈むことはなく、かすり傷だったもう一人に助けられて、共に海岸までたどり着いたという連絡を‘課長’は受けていた。
一つの賭けには勝ったな、課長は思った。
だが、もう一つ、もっと大きなギャンブルが残っていた。
‘課長’の切り札は烏森。
困ったことに、‘課長’には自分の握った札が、エースなのかジョーカーなのか判断が付かなかった。
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少年時代から頼る者もなく、狂犬のように周囲と戦うことで生き残ってきた烏森にとっては、映画が数少ない安らぎの一つだった。
あの組織に拾われ、殺しの技を徹底的に仕込まれ、実際の格闘や銃撃戦を経験するようになっても、映画は、音楽と共に、彼の避難場所であり、唯一の慰めであり続けた。
あの女性と出会うまでは。
烏森はハリウッド製のアクション映画も好んだ。その中で描かれる格闘やガン・ファイトがどれほど現実離れした、あり得ないものであっても、烏森は平気だった。
現実に数多くの銃撃戦や格闘を経験してきたがゆえに、映画の中のアクションがリアルでなければないほど、烏森にとっては現実逃避の楽しみになったのである。
だから烏森は「不信感の一時的停止」という映画ファンの特権を駆使した。
ブルース・ウィリスやメル・ギブソンが、大口径の銃を(ときには、その銃の装弾数以上に)長時間乱射し続けても、火薬の燃えかすが目に入って戦闘能力を失ったり、閃光で一時的に失明したりしなくても気にはしなかった。
大規模な銃撃戦や爆発の現場に何度も居合わせることで、たとえその場ではダメージを感じなくても、蓄積された聴覚へのダメージは最終的にはとりかえしのつかない結果をもたらすはずなのだが、烏森はそんなことにもこだわらなかった。
「リーサル・ウエポン4」のリッグズ刑事が難聴になっていなかったり、「ダイ・ハード/ラスト・デイ」のマクレーン刑事が補聴器を付けていなくても映画を楽しむ上ではまったく支障がなかった(「ダイ・ハード/ラスト・デイ」が楽しめる映画だったのかといえば、それはまた別の話である)。
だが、現実となれば大いに支障がある。
烏森は車に乗り込む前に、シューティング・ゴーグルを顔に装着した。シューティング・グラスと違って、激しく動いてもずれたり、取れたりし難いし、横の隙間から火花や、縦断で吹き飛ばされたガラスの破片などが目に入ることも防いでくれる。
耳栓はいらないかなとも考えたのだが、アサルト・ライフルを取り出すためにトランクを開けると、大きなダーク・グリーンの筒が入っていたので思い直し、ポケットから出した小さなゴムの栓を両耳の穴に詰めた。
鉄製の筒は、AUGアサルト・ライフルと一緒に、いつの間にか‘課長’が入れておいてくれたようだ。
「見張って、報告をするだけだ。絶対に行動は起こすな」という、ひんやりとした調子の‘課長’の声が烏森の脳裏によみがえった。
それにしては、贅沢なオモチャを持たせてくれたもんだぜ。
22
菜那は父である浅野教授から引き離され、その傍らにはぴたりと竜崎が寄り添っていた。寄り添う、というには、体が密着しすぎているが。
竜崎の戦闘能力の高さ、おそらくそれは人工冬眠による代謝機能の著しい変化によってもたらされたものだろうが、を身をもって知らされていた石室だったが、今なら瞬時に飛びかかり、菜那を奪還することができる確信があった。そのまま、パノラマ窓のガラスに自分の体の方から激突して破り、地上へ飛び降りる。菜那に怪我をさせない自信もあった。しかし、スーツに防弾ヴェストの屈強な男が背後からシュタイナーの銃口を、やせ細った浅野に向けている。
同時に二人を救うことは困難だ。この部屋にも致死性のガスを吹き出させることができるという脅しはブラフである確率が高いと石室は思っていた。だが、もしそうでなければ…。
「さあ、行こうか、新天地へと!」
ドクターが陽気に声を上げた。
そのとき、爆発音と金属の避けるグワーンという響きがラウンジを満たした。ガラス窓がまたしてもビリビリと震え、建物が揺れた。菜那が顔をしかめて、反射的に両耳を抑えるのが、石室の目の端に映った。
病院のゲートは閉まっていたが、烏森はそんなことにお構いなくアクセルを踏み込んだ。衝撃が全身を襲い、手術の傷口がまだ完全にはふさがっていないことを思い知らされたが、烏森がにらんでいたとおり、目立たないスタイルの国産のファミリーカーに、‘課長’は特別な改造を施していたようだった。
車の前部は潰れてしまうこともなく、ゲートをはじき飛ばして、烏森は施設の中庭に易々と入り込んだ。
中庭には、小ぶりの交番のような建物があり、シュタイナーを構えた見張りが走り出てきた。
烏森は、ほとんど考えることをしなかった。
そうすることがこの世で最も自然であると、体が知っているかのように、両手はステアリングを操作し、車の見張りの方に向けた。パニックのために銃を構えることも忘れて立ち尽くす見張りの男の恐怖に歪んだ顔がフロントガラス越しに次第に大きくなった。
男の顔がフロントガラスに叩きつけられ、口と鼻から吹き出した鮮血がグロテスクな模様を描いた。次の瞬間、男の体はきりきりと回りながら、烏森の視界から消えていった。
別の方向から、シュタイナーを構え、一定の間隔で弾丸を発射しながら駆けてくる男が見えた。
シュタイナーを速射するには、引き金を奥まで引き込まねばならず、走りながらとなると狙いを定めることがなおさら困難になる。この男は、さっきの木偶の坊だった見張りと違って優秀だ、と烏森は見て取った。あえて速射はせずに、一度ずつ確実に引き金を引いて、移動しながらもきちんとターゲットを狙い定めている。
烏森は忸怩たる思いでもあったのだが、またしても‘課長’に命を救われた。
男の放った弾丸は烏森の乗った車のボディと運転席側のガラスを確実に捉えたのだが、ボディを貫いてエンジンを傷つけたり、ガソリンタンクに火を付けることはなく、ガラスを突き破って烏森の命を絶つこともなかった。弾丸は弾き飛ばされて見当違いの方向へと跳んでいっただけだった。
完全防弾仕様のファミリーカーか。少々お高くなってもいいんじゃないのかな。
世界中で危険な任務をこなしてきた烏森は、この車が売れそうな地域をいくつも知っていた。
ビジネスとして成立しそうだな。
‘課長’をパートナーにするのは気が進まないが。
防弾ガラスでなければ、左手でステアリンング操作したまま、右腕でパイソンを抜いてガラス越しに発砲し、相手を仕留めることができるのだが。
強化ガラスとなれば、内部で跳弾となって烏森自身の命を絶つ可能性さえあった。
やはりビジネスにはならんか。
烏森はブレーキを踏みながら車を半回転させた。完全に止まりきらないうちにドアを開け放って外に飛びだした。そのまま地面を転がりながら両腕を伸ばし、コンバットシューティングの要領でシュタイナーの男に続けざまに発砲した。
相当な手練れだったのかもしれないが、止まりかけた車の動きを捉えようとしている間に突然転がり出た体、その体の素早い動き、それらをすべて把握して的確に反応することは、その男にとってさえも不可能なことだった。
それでも男は素早く銃を構えて烏森の方向に向けようとしたが、腕が半分も上がらぬうちに両脚を撃ち抜かれて地面に頽れた。
烏森はパイソンの銃口を、地面に横たわったままの男に向けたまま素早く立ち上がった。
シューティング・グラスにしなかったのは正解だった。
激しい動きの後でも、ゴーグルは烏森の顔にしっかりと装着されたままだったし、車から飛び降りて地面を転がった際に飛び散った砂利から両眼を護ってくれた。
烏森は滑るように地面の男に近づいて、手元に落ちていた突撃銃を蹴り飛ばした。
男の右膝から下は、申し訳程度に体に繋がっているだけで、左脚はくるぶしのところでL字型に折れ曲がっており、なによりもその男は続けざまに受けた衝撃に耐えられず、すでに絶命したようだったので、突撃銃を手元から遠ざける必要はないということを烏森は見て取っていた。それでも、それはほとんど本能と言っていいほど体に染みついていた習慣だった。
これもまた習慣的に、烏森は男の頭部をパイソンで吹き飛ばして、おそらく必要のないとどめを刺した。百回中九十九回は不必要な行為だ。だが、烏森は、それを怠らないことによって生き延びてきたのだ。
烏森が今呼吸をしているのも、ついこの間、彼の体に二発の銃弾をたたき込んだ人間が、最後の仕上げを怠ったからではないか?
烏森は車のところに戻り、運転席からシュタイナーを片手で取り出してストラップを肩にかけた。トランクを開けて 金属の筒をやはり片手で取り出した。
さっきまで建物の入り口は、いかにも病院らしく広々としたガラス戸で中まで見渡せるようになっていたのだが、いつの間にか灰色のがっしりとしたシャッターが降りて、ネバーランド自体がいかなる侵入者も許さないという強い意志を示しているようだった。
弱点である海側からの攻撃に備えて短距離誘導弾まで備えていたのだから、地上からの攻撃への備えが、たった二人のガードマン(一人は間抜け、もう一人はまあまあ)だけだったとは考えにくい。
このシャッターも突撃銃の連射くらいではびくともしないのだろう。
こいつには耐えられるかな。
烏森は素早く周囲に目をやり、追加の守衛がやって来ないことを確認してからパイソンをホルスターにしまい、金属の筒、M72-LAW対戦車弾発射機、をトランクから取り出し、後部を引き出して噴射口カバーを外し肩に担いだ。
烏森は‘課長’のことを虫が好かないと感じていたが、クリスマスや誕生日に自分ではパーティにやってくることは決してせず、贅沢なプレゼントを贈ってきてくれるだけの金持ちのおじさんとしてなら悪くはないな、と思った。
‘課長’が用意してくれるプレゼントは、なんというか、気が利いている。
特に狙いを定める必要はなかったので、烏森はろくに照門を覗き込むこともせずに、安全装置を解除して、そのままトリガーを引いた。
推進薬が燃焼する音は、耳栓によってほとんどかき消されたし、烏森がこの兵器を扱うことは初めてではなかったので、ほとんど反動がないことにも、ことさら驚きはしなかった。対戦車弾は白い煙を噴出しながらまっすぐに飛翔し、建物のシャッターに食らいついた。鉄が裂け、石が砕ける音と、大量の火薬が爆発する音が、耳栓を通してでも烏森の鼓膜に達した。
シャッターの背後にはドクターによって集められ、ネバーランドを警護していた傭兵たちが集結していた。
タイミングを見てシャッターを開き、突撃銃を乱射しながら飛び出して、襲撃者たち(コブラの撃墜のあと、地上からの襲撃に備えていた彼らは、相手が一人だとは予想していなかった)を惨殺しようと手ぐすねを引いていた男たちのうち、先頭にいた三人は爆発で体ごと粉砕され、その後ろに控えていた者たちは石と金属の破片を体中にめり込ませて絶命した。
肉体的な破損を逃れた者たちも、爆音と閃光とで感覚器官を麻痺させられ、一時的に戦闘能力を失うこととなった。
やがて彼らの頭の中に響き続けていた、キーン、という鋭い金属音が徐々に収まり、視界からもやが消えていった。聴覚も視覚も失ったままの方が、彼らにとっては幸福だったのかもしれない。
まだ立っていた男たちは、これまで目にしてきた中で、最もおぞましく、もっとも不吉な姿を目にすることとなったのだから。
日が沈みきった闇を背にしてシュタイナーを構える長身の男。
真っ白な長髪を後ろで結わえているらしいその顔は、長年にわたり風雪に耐えてきた古木の幹のように、傷だらけで、硬くなっているのが見て取れた。
そこには恐怖も、怒りも、いかなる敵意も感じられなかった。
ただ、獲物の群れを見渡して、いかに効率的に血祭りに上げるべきかを計算しているだけの冷静な表情。
砲弾によって引き裂かれ、命を失ったグロテスクな物体として、あちらこちらに転がる死体の中に屹立するその男は、人間のようには見えなかった。
黒いフィールドコートを着ていたその男は、そこにいた男たちにには、その瞬間、漆黒の巨大な鳥に見えたのだ。
その鳥は、太古の時代からやってきた、そして未来永劫存在し続ける非情な運命の象徴のようだった。
それでも、そこにいた、まだ立っていた男たちとて、数えきれぬ戦いを生き抜き、あまたの人間たちを殺めてきた(そのうちの多くは、罪なき人々だった)、呪われた猛者たちである。
己の重ねてきた罪を精算するときがやって来たのだと、頭の片隅では覚悟も納得もしていたとしても、体は俊敏に反応し、突撃銃を構えようとした。
長身の老人の体が、ふわりと浮いたように見えた。
肉食の烏が飛翔した。
23
爆発音と部屋の振動にたじろいだドクターが、反射的にスーツの内ポケットに手を伸ばすのを目にして、石室は瞬時に二つのことを悟った。
菜那と浅野教授には致命的だというガスは存在し、この部屋に拡散させる仕掛けかもあるというのは、単なるはったりではないということと、ドクターはそれに手を伸ばそうとしているということだ。
今しかない。
そのスイッチをすぐに使うつもりがないということはわかっていたので(菜那はともかく、浅野の存在は貴重すぎたはずだ)、石室はドクターが、スーツの内側から手を出すまでの一秒にも満たない時間、あえて待った。彼にはそれが数分にも感じられた。
スマートフォンのように見えるものが取り出されかけ、ドクターは口を開こうとした。おとなしくしていないとガス噴射のスイッチを入れると脅すつもりだったはずだ。
石室は心の奥に存在する自分自身の危険なスイッチを入れた。全身が電流と気で満たされた。
ドクターの手からスマートフォンを奪い取り、粉砕し、菜那と浅野の安全をとりあえず確保してから、ドクターを倒し、竜崎とシュタイナーの男と対峙するビジョンを瞬時に頭の中に描いた。
だが、石室にとって予想外のことが起こった。
石室の体が、頭脳からの指令に従おうとしたまさにその瞬間、ドクターに組み付いていく菜那の姿が映ったのだ。
菜那は石室のように先を読み、ガス噴出のスイッチを確認するまで待とうとはしなかった。爆発音と同時に、彼女の中の怒りと父親を護ろうとする気持ちも爆発したのだ。
目論見を狂わされたにもかかわらず、石室は菜那と勇気と機敏さに舌を巻かずにはいられなかった。
常人であれば、菜那の行動に気づく前に、仮に気づいていたとしても、一旦体に出した指令を止めることはできなかったはずだ。
だが、石室は常人ではなかった。
止まれ、という新たな指令に肉体は機敏に反応した。
石室はコンマ一秒にも満たない間に判断を下し、注意を竜崎の方に転じた。
菜那の行動は結果的に正しかった。
竜崎もまた常人ではない何かに生まれ変わっていたのだから。
竜崎は菜那に襲いかかろうと、全身の筋肉に殺気を漲らせていた。
石室がドクターに襲いかかろうとしていたとしても、その動きは中途で食い止められていただろう。
石室は竜崎の方に自らの身体を投げ出した。突進をまともに食らった竜崎の顔は驚愕と苦痛とで歪んだ。
竜崎がよろよろと数歩後退すると、石室はようやくシュタイナーを構えて自分の方に向けようとしていた警護の男にも体当たりを食らわせた。
その男は竜崎や石室とは違い、鍛え上げていたとしても普通の人間だった。衝撃で内臓のほとんどが破裂した男は瞬時に絶命し、口と鼻から鮮血を吹き出しながら壁に叩きつけられた。
衝突のショックで、命を持たぬその指はシュタイナーの引き金を引き、一発だけ発射された銃弾(連射に必要な奥まで引く力は、骸にはなかったのだ)が窓ガラスに穴を開けた。
スマホを掴んだ手に食らいついてきた菜那を、ドクターは乱暴に振り払ったが、それでも菜那はスマホをしっかりと手に掴んだまま、床に倒れ込んだ。
菜那は石室の方を見た。
石室と菜那の目が合った。
菜那は石室の方へと、床にスマートフォンを滑らせた。
竜崎が体勢を立て直し、襲いかかってくるのを視覚の端に捉えながら、石室はスニーカーの踵でスマートフォンを粉砕した。
迫り来る竜崎の目に浮かんだ憎しみと悔しそうな色からすると、やはりドクターのスマホはガス噴出のスイッチを兼ねていて、竜崎もそのことを知っていたようだった。
石室は両腕を竜崎の方に突き出して、突進を止めようとした。
竜崎の突進を受け止めても石室の体は、命を失い、壁に叩きつけられたままになっている哀れな男のようにほとんどの内臓が衝撃で粉砕されるようなことはなかった。
それでも、その場に立って、相手の勢いを止めるだけで精一杯だった。
太い鎖の先の付けられた巨大な球を受け止めたように、石室の腕と肩の筋肉は悲鳴を上げた。
腰の重心を落として両脚をしっかりと床に固定し、石室は竜崎の突進を受け止めた。
一度は石室と戦ってそのパワーを知らされていたはずの竜崎だったが、渾身の体当たりが受け止められてしまったことはやはり意外だったらしく、驚きと悔しさとで禍々しく歪んだ顔で石室を睨めつけた。
石室は両腕を天井の方に伸ばし、一気に振り下ろして決着を付けようとした。
二枚のギロチンの刃のような手刀の落下は、竜崎の両の掌で止められた。
石室と竜崎は互いの手をがっちりと掴んで相手の動きを封じながら、そのままの体勢で睨み合った。
菜那は二人を魅せられたように見つめていた。
一見すると、全く動こうとしない、動くことのできない二人は、永遠の時に封じられた一体の彫刻のように見えた。
だが、菜那の五感は、二人の体の中で躍動し、相手を滅ぼそうとしている力のうねりと精神力の燃焼を感じ取っていた。
握っていた父親の手が引き離されるのを感じて、菜那は我に返った。
「君も来なさい」
浅野をラウンジから展望ラウンジから連れ出そうとしていたドクターが、さらりとした調子で命じた。
「行くもんか。あんたなんかと。パパを」
返してよ、という言葉は、ドクターの部下に口を押さえられたために、菜那の口から発せられることはなかった。
ほとんど拮抗していた石室と竜崎の力だったが、石室の注意が逸れ、心に焦りが生じたために、二人のバランスが微妙に変わった。
竜崎は、それを感じて、心の内でほくそ笑みながら、両の腕にさらに気持ちを集中した。冬眠から覚め、ドクターと浅野からいくつかの処置(苦痛に満ちたものだったが、その価値はあった)を受けて以来、竜崎は食べるものがそのまま全てエネルギーとなり、常に放出を続けていないと全身と頭脳とが爆発してしまいそうな感覚に酔いしれていた。
竜崎は体の裡で、さらに新たなエネルギー源が解放されるのを感じた。
竜崎自身は知らなかったのだが、それは長期間ゆっくりと燃え続けるように蓄えられた石油タンクに火が付いて爆発するように、竜崎の生命の燃焼を残り数時間にしてしまう解放だった。
たとえ、そうだと理解していたとしても、引き返す方法を知っていたとしても、竜崎はパワーの解放を止めることはしなかっただろう。
竜崎という人格ではなく、パワーそのものが実体となっていた。一旦解放されたしまったエネルギーの奔流は、宿主である竜崎の精神をすでに食い尽くし、その限界を超えさせることで、強化された肉体さえも破壊しようとしていた。
そのパワーが求めていたのは、もう一つのパワーの源である石室を破壊し尽くすことだった。
両掌を通じて、石室の体に邪気が流し込まれてくるようだった。
菜那と石室の後を追って救うどころか、自分の命さえ、あとどのくらい持ちこたえるのか。
石室は恐怖は感じなかった。
これまでの数々の戦いの中で、恐怖に対する彼の感覚は麻痺していたのだ。
そのときが来れば、石室は自らの死さえも泰然として受け入れられるようになっていた。
だが、今はだめだ。
二人を救わねば、ドクターを逃してはならない。新たなネバーランドの稼動と、こいつみたいな化け物の量産だけは、なんとしてでも食い止めねば。
「おい、聞け。ヒュプノスは、別の場所へ移動すると言っていた。お前は置き去りだ。ここをそのままにしておくわけがない。間違いなく建物ごと爆破し、何も残らないように焼き尽くすはずだ。お前は利用されただけだ。ここのまでは、お前も死ぬんだ」
石室は悲鳴を上げそうになっている全身の筋肉から力が少しでも抜けてしまわないようにしながら、ようやく言葉を絞り出した。
十五分前の竜崎なら、猜疑心が強く、独善的で、他人を利用して捨てることには何のためらいも感じないのに、自分が少しでも利用されることには我慢のできない竜崎なら、狼狽して戦いを止めていたか、そこまではいかなくても隙が生まれて、石室に勝機が訪れていたはずだった。
だが、このときの竜崎はもはや竜崎ではなかった。ただ、相手の命を絶つことだけを希求する、純粋な殺意の総体だった。
石室は真っ赤に充血した竜崎の目を見て、それを悟った。
24
シャッターが爆音と炎に包まれたショックで呆然となったドクター・ヒュプノスの部下たちだったが、すぐに体勢を立て直そうとした。
だが、烏森の方に視線と銃口を向けようとするその動きが始まらないうちに、二人はシュタイナーの弾丸で頭部を吹き飛ばされて絶命していた。彼らはドクターの指示により、スーツか白衣を身につけることを要求されていたのだが、この日はそれに加えて全員が防弾ヴェストを着用していた。
烏森が頭部を狙ったのは、それが理由だったのだが、さっきまで自分の傍らで残酷なジョークを飛ばしていた人間の脳漿が自分の顔や体にべったりと降りかかるという経験は、男たちの戦意を奪うのにも有効だった。
待っていたのは十三人だった。
爆発でばらばらになったのが三人。
吹き飛ばされたシャッターと壁の間に挟まれて絶命したのが四人人。
体勢を立て直す前に、烏森が放った弾丸で肩から上を無くしたのが二人。
残りの四人のうちの三人は恐慌をきたし、闇雲に発砲しながらその場から逃げだそうとした。
盲目的に乱射された弾丸は、一人のヴェストを直撃し、衝撃でよろめいた男の股間に烏森はシュタイナーの弾丸を叩き込んだ。
男は絶叫しながら後ろ向きにばったりと倒れた。
仲間を撃った男は、結局烏森に首筋を後ろから撃ち抜かれて絶命した。
残った一人はあっぱれなことに、周囲の混乱にそれ以上ペースを乱されることもなく、冷静さを保って闖入者の姿を追おうとしたのだが、手の中のシュタイナーをゴーグルを付けた長身の男に向けようとした瞬間、その男の姿がふっと消えた。
その姿を探す時間は与えられなかった。顎から入った銃弾が脳を粉砕して後頭部から抜けた。
瞬時に床に伏せて斜め上に銃口を向けた烏森の放った弾によって、男の意識は生命の彼方へと飛び去っていった。
烏森はすぐに立ち上がった。
今回はエレベーターはやめておこう、とも思ったが、少しでも時間を節約するために扉の前まで駆け寄った。しかし、上昇下降を指定するボタンは、数度押しても光らなかった。扉の上に並んだ停止階を示すランプも全て消灯している。
「年寄りにはきついぜ」
烏森は廊下の奥に見える非常階段の方へと走った。
ドクター・ヒュプノスは、早くラウンジを出て、浅野と菜那をネバーランドから連れ出したいと焦っていた。
第二ネバーランドへと。
攻撃ヘリは撃ち落としたが、どうやら第二陣の攻撃が地上からあったようだ。
好都合だ。
必要な処置をいくつか終えたら、浅野父娘と、まだ少しは役に立ってくれそうな竜崎、そして、貴重な研究材料である石室を連れて脱出し、そのあとこの建物はあらかじめ各所に埋め込んである爆薬で跡形もなく吹き飛ばす。
爆発が施設への攻撃の結果だと考えられることをドクターは期待していた。
ドクターも、浅野も菜那も竜崎も死に、研究施設もデータも、惰眠をむさぼり続けている年を取ることのない犯罪者たちも燃え尽きてしまったのだと判断されることを。
もちろん、いつまでも偽装に気づかれないとは考えづらい。
ただ、ドクターの意図が露見するまでに、次の施設を稼動させ、竜崎のような無敵の怪物たち(頭脳の方も少しは改良しよう。竜崎程度しか頭が回らず、反抗的なのは困る)を作り出すだけの時間を稼いでくれればいいのだ。
その竜崎は、石室とがっぷり四つに組みながら、自らの勝利を確信し薄ら笑いを浮かべていた。
石室がなぜ、竜崎と互角に太刀打ちできるほどのパワーを持っているのか、ドクターはまだ知らなかったが(あとで検査できることをドクターは楽しみにしていた。生体解剖ならなお結構)、ドクターは自分の創造物に絶対の自信を持っていた。
「竜崎君。できれば、殺さずに頼む」
竜崎の耳には、まったく耳に入っていないようだった。
その顔に浮かんでいるのは、獲物を嬲り殺しにしようとする獣の純粋な殺意と悦びのみ。 いや、そうだろうか。
何か別のものがそこにないか。
竜崎の顔は苦痛と驚きとで歪みはじめているのではないか。
間違いない。
今や、追い詰められた獲物は竜崎の方だった。
菜那が小さなうめき声を漏らしたので、ドクターは無意識のうちに、菜那の腕を掴んだ手に力を入れていたことに気づいた。
ドクターが反射的に視線を向けると、菜那の両眉は痛みで曲がっていたが、その瞳は希望で輝きを取り戻していた。
その輝きはドクターにとってはとてつもなく不快なものだった。
今度は意図的に悪意を込めて、ドクターは菜那の腕を掴んだ掌に力を込めた。
菜那の口から出たのはうめき声ではなく、悲鳴だった。
菜那の方へと顔を向けることはしなかったものの、その苦痛の叫びは石室の怒りと決意らにさらに火を注いだ。
竜崎が苦痛の悲鳴を上げる番だった。
「さ、行くぞ」
ドクターは浅野に突撃銃を突きつけている配下に声をかけた。
形勢が逆転する前に、竜崎が石室の動きを封じている間に、ここを出なければ、とドクターは考えたのだ。
石室の超人的能力の秘密は、この施設と共に燃え尽きることになるだろうが、やむを得ない。
ラウンジを出て行こうとする四人に石室の注意が向いた、そのチャンスを竜崎は逃さなかった。不意打ちの膝蹴りで石室の股間を砕けという指令が、脳から脚に向かった。
だが、認知能力の新たな高みに達していた石室は、竜崎の意識と体の‘揺らぎ’を感知した。
石室は掴んでいた竜崎の両掌を離し、拳を作ると、腕を伸ばし竜崎の両脇腹に叩き込んだ。
内臓が全て破裂し、背骨まで粉砕されていたはずだった。竜崎が通常の人間であれば。 ドクターに腕を引かれながら、石室の方を縋るように見ていた菜那には、しかし、彼の両腕の動きは見えなかった。動体視力が捉えられるスピードを超えていたのだ。
石室と組み合っていた竜崎が、次の瞬間にはすさまじい咆哮をあげ、石室から体を離したのが見えただけだった。
それでも、竜崎は倒れなかった。
人としての自己保身の計算も、獣としての生存本能も、人工冬眠措置によって増幅された代謝の暴走と、それによって目覚めさせられた、最初から竜崎の中に内在し、彼の人生を操ってきた根源的な悪意によって吹き飛ばされていた。
ドクターたちの後を追うべく、体の向きを変えようとした石室に竜崎は再び襲いかかった。
竜崎の動きがコンマ一秒でも遅れていたならば、石室はドクターから、菜那と、その父親を救い出せていたかもしれない。
竜崎に背後から襲撃され、押さえつけられた石室の目の前で、ドクターたち四人はラウンジから外に出て行った。
両開きのドアがバタンと閉まった。
シュタイナーのくぐもったような発射音の後に大口径拳銃の発射音が一発だけ、閉じた扉を通してラウンジ中に響いた。
扉が開いた。
両手でしっかりと握ったコルト・パイソンを突き出して、烏森がラウンジの中に飛び込んできた。
烏森の目に入ってきたのは、自分の方を向いた石室と、彼の背後から腰にがっしりとしがみついている竜崎の姿だった。
「おーい、手伝ってやろうか」
烏森は、わざと状況に似合わぬのんびりとした声で問いかけた。石室を苛立たせて楽しみたかったのだとすれば、彼の目論見は成功したようだった。
「ドクターたちはどうした」
と烏森の問いを無視して、石室が逆に問いを発した。烏森にも‘ドクター’というのが誰のことかは見当は付いたので、自分の質問と親切を無視した石室の非礼にもかかわらず、丁寧に答えてやることにした。
「逃がした」
「くそ」
「おいおい、この階に着いたとたんにシュタイナーの速射を浴びせられたんだぜ。撃ってきた奴は倒したが、ちょうどドクターたちが乗ったエレベーターの扉が閉まるところでな。俺もエレベーターを使いたかったんだが、あいつはなにか非常用のスイッチを知っていたんだろうな。用心深い・・・」
「いいから、なんとかしてくれ」石室の言葉はうめき声に近かった。
「だから手伝ってやると言ったろうが。いいニュースと悪いニュースがあるんだが。どちらを先に聞きたい?」
人工冬眠装置を使って犯罪者たちを実験台に超人の量産をもくろんでいる悪党が、国宝級の科学者と、罪のないその娘を連れて逃亡しようとしており、行きがけの駄賃に自分たちがいる建物を木っ端微塵にしようとしている。このような状況下で石室の悪ふざけにつきあってやらねばならないのは、すこぶる忌々しいことだったが、暖かで実り多いものとは言いがたいこれまでの短いつきあいの中から、ちゃんと相手をしてやらないと、さらにいらいらさせられることになるということを、石室は理解していた。
「じゃあ、いいニュースから」
「ここからなら、簡単にそいつを仕留められる」
‘そいつ’が腰を締め上げてきたので、かすれ声になりながら石室が尋ねた。
「で、悪いニュースは?」
「ここからだと、まずあんたを撃って、貫通した弾で、そいつを殺すことになる」
貫通はありがたくなかったので、石室は気力を振り絞り、上半身を高速で捻り、竜崎を振り払った。
空中を飛ぶ竜崎の右肩をマグナム弾が吹き飛ばした。
ギャッ、という声を上げながら、竜崎は背中から床にたたきつけられた。
石室は烏森の方へは目もくれずに、ラウンジから飛び出していった、のだろう。烏森が気づいたときには、もうそこにはいなかったのだ。
目にもとまらぬ早さってやつか。それにしても、どうもありがとう、の一言ぐらいあってもいいのにな。
烏森は、これまでの習慣に従って、無意識のうちに床に伸びたままの竜崎に近づいていった。
とどめを刺してから。石室の後を追うつもりだった。
大口径の弾丸で肩を吹き飛ばされた竜崎の右腕は数本残った、劣化したゴムのような赤黒い腱で、申し訳程度に体と繋がっていた。口を半開きにして、涎を垂らしている竜崎の両眼は閉じられていた。
内臓に致命傷を負わなくても、弾丸が体内に入った衝撃だけで絶命することは決して珍しいことではない。ましてや、貫通よりも粉砕を意図したフラットノーズの弾丸を撃ち込まれた場合は。
竜崎はもう死んでいるのだろうと烏森は考えた。命の灯火が残っているとしても、立ち上がることなどあり得ない。
これが、烏森が長きにわたる戦いの中で学んだ経験則だった。
それでも、どんな場合でも、それが可能な場合には必ずとどめを刺しておくこと。
これもまた、烏森が長きにわたる戦いの日々の中で学んだ経験則の一つだった。
今回ばかりは、烏森の命を救ってきた経験則が、彼を裏切った。
竜崎はこれまで、彼が戦ってきた相手とは全く違っていたからだ。
とどめを刺そうなどとはせずに、烏森は即座に石室の後を追うべきだった。
頭部に銃口を向けながら近づいてきた烏森の右足首を、竜崎の健在だった方の手ががっしりと掴んだ。
不意打ちだった。
烏森は足首に火箸を差し込まれたような痛みを感じた。
竜崎は腕を振って、烏森はそのままバランスを崩し、背中からどうと床に倒れた。
烏森はパニックに捉えられたりはしなかった。
足首にかかっていた力をもはや感じないことを確認してから、体を捻ってそのまま立ち上がった。
両手で銃を構えようと腕を動かそうとしたが、右手に砕けそうな鋭い衝撃を受けた。
竜崎の回し蹴りをくらったのだ。
敵からのキックではなく、このような状況でなければ、ほれぼれと見とれたくなるような見事な一撃だった。
パイソンははね飛ばされ、壁に当たってから床に落ちた。
烏森は自分の手から武器を奪った相手を、正面からまじまじと見据えた。
竜崎は立ち上がっていた。
つぶったままだった両眼を、かっと見開いた。
それはもはや、人間の目ではなかった。
白目と黒目の区別が消えていた。
細い切れ長の目は真っ赤だった。
「なあ、休戦ということにしないか。どういうわけかわからんが、あんたにはまだ力が残っているようだ。とっととここから出て行って医者に診てもらった方がいいんじゃないかな。肩がさ、相当やばいことになってるぜ。止めたりはしないからさ」
どんなときでも相手の生存本能に訴えること。本日使用の経験則その三。どうやら、その三も役には立たないようだった。
竜崎は、壊れた人形の腕のように、肩から辛うじてぶら下がっていた右腕を、左手で掴み、きゅっと捻ってもぎ取った。
かつては肩だった、クレーターのような穴から、どす黒い血が噴き出した。
はじき飛ばされ、床に落ちたときの金属音で、烏森は愛銃の位置を把握していたので、その方向に視線を向けないように意識しながら、竜崎の注意を逸らそうと話しかけることを続けた。
「落ち着けよ。まだ、それは捨てない方がいい。腕のいい医者ならきっとまた繋いでくれるよ。なあ、俺は政府のために仕事をしているんだ(当たらずといえども遠からずだよな、と烏森は思った)。すぐにフル装備の一個師団がやってくる(これははったりだった。コブラを飛ばすことだって、おっかなびっくりだったはずなのに、絶対にメディアに漏れるような戦力を展開する度胸が、たとえ総理にでもあるとは思えなかった)。早くここを出た方が・・・」
話し続けながら、烏森は体を翻してパイソンに飛びつき、竜崎の、今度は頭を吹き飛ばして、確実に倒そうとした。
だが、横っ面を鉄の球で張られたような衝撃を感じ、ジャンプすることなど不可能になった。
竜崎が自らの腕を、烏森の顔に叩きつけたのだ。
首の骨が折れなかったこと、再び床に倒れず、どうにか立っていられたことに、烏森は自分でも不思議なほど冷めた気持ちで感心した。
竜崎の右腕は、烏森の目の前の床に、まだ命のある、醜く危険な、特大の芋虫のようにごろりと転がっていた。
病院に行くつもりはないようだな、と烏森は思った。
24
石室はエレベーターを使おうとしなかった。電源が戻っているのかどうか確信が持てなかった上に、今の彼にとっては、自分の肉体以上に高速な移動手段はないということが、わかっていたからだ。
もしも、烏森がラウンジで竜崎と死闘を演じていなかったとしても、石室に着いていくことはできなかっただろう。
石室は、強化スーツこそ身につけていなかったものの、「仮面パルサー」になっていたからだ。
ドクターたちが向かったのは地階だろうと、石室は見当を付けていた。
眠りについている犯罪者たちがいるとすれば、大がかりな設備を用意しやすく、また万が一、外部からの訪問者を受け入れねばならなくなった場合、単なる豪華な入院施設であるとの偽装を通すために、肝心なところは少しでも目立たない地下に置くはずだと考えたのだ。 ドクターが最後に持ち出さねばならないものがあるとすれば、やっておかねばならないことがあるとすれば、それもまた地下にあるはずだった。
非常階段までの十メートル以上ある通路をコンマ以下のスピードで走り抜ける石室の目は、シュタイナーを手にしたまま斃れている数人の男たちの姿を捉えた。彼らの首筋や脇腹には刺し傷があり、それが致命傷になったようだった。烏森は自分がラウンジに近づいていることを悟られないように、ガードたちに音も無く忍び寄って、銃弾ではなく、刃で命を奪ったのだ。
石室は頼もしさと嫌悪を一度に感じた。
石室は階段に着くと、一段ずつ降りることはせず、互い違いになって地下まで続いている階段の間の吹き抜けを一気に飛び降りた。 加速度がつき、強烈なGを伴って石室の両脚は地下一階の床にたたきつけられたが、絶妙のタイミングで膝を少し折り曲げただけで、衝撃は石室の肉体にとって楽々と対処できるだけのものに弱まった。
石室の目の前に、いかにも分厚そうなステンレスの両開きの扉があった。
閉じている。
扉の横の壁には、小さな接眼レンズの付いたプレートがあった。
虹彩認証装置だ。
レンズを覗き込んだ人物の虹彩を認識し、登録された者以外には扉を絶対に開けないシステムになっている。
さて、どうするか。
強化スーツが無いことが悔やまれた。
スーツさえ着ていれば、全力で体当たりしても、体にそれほどダメージを受けず、戦闘能力を維持したままで、扉を破ることができたかもしれないのだが。
いや、体がどうなっても、試してみるしかない。
石室は覚悟を決めた。
なんとしても、菜那と浅野教授を救うのだ。そして、ドクターを倒す。
逃がすわけにはいかない。
竜崎のような怪物がこれ以上、世に放たれてはならないのだ。
そのためならば・・・。
突撃のために全身に‘気’充満させようとしていた石室の目の前で、鋼鉄の扉が低いうなり声を上げて左右に開いた。
なぜだ?
迷っている時間は無い。
石室は扉の中に足を踏み入れた。
25
そこはまずいよな、と烏森は思った。
銃で撃たれるのは、あのときが初めてというわけではなかったが、左胸に撃ち込まれた一発は致命傷にこそならかったものの、あばら骨を折り、筋肉に相当のダメージを与えていた。
手術を受けて命を取り留め、人並み外れた頑健さゆえに回復も早かったものの、人工冬眠による代謝の活性化で‘スーパーマウス’(‘マイティ・マウス’ってやつかな)になった竜崎の蹴りを、傷が塞がりきらず、骨が完全に繋がっていない左胸にまともに食らった烏森は、血反吐を吐きながら体を回転させ、床に叩きつけられた。
そこはまずいよな。
気絶という名の甘美な休息が手招きをしていた。痛みと衝撃からの自由が。
だが、ここで気絶からの優しい招待状を受け取ってしまうと、それはそのまま永遠の休息へのパスポートになってしまうということが、烏森にはよくわかっていた。
ようやく焦点を合わせた烏森の目に、顔に向かってまともに振り下ろされてくる竜崎の靴の裏が映った。
床の上で烏森は体を回転させ、間一髪で直撃を躱した。
竜崎に蹴られ、深傷を負っていた胸の筋肉が、体の動きと共にさらに切り開かれ、烏森は呻き声を上げた。
立ち上がろうとした烏森の首筋を、竜崎のつま先が襲った。
再び、床に転がることで、直撃はかわしたものの、つま先がかすっただけでも、衝撃が烏森の脳天にまで響いた。
烏森は力なく床に伸び、焦点の定まらない目で竜崎の顔をぼんやりと見上げた。
竜崎の顔に、残忍で醜い笑みが浮かんだ。今度こそ、息の根を止めようと、竜崎は右脚を高く上げた。のど笛を踏みつぶすつもりなのだろう。
これを待っていたのだ。
傲慢さと残酷さが竜崎にとっての命取りになった。
素早く確実に烏森の命を絶とうとすれば、彼は成功していただろう。
だが、殺しを楽しもうとして、竜崎はゆっくりと、烏森に見せつけるようにして脚を高く上げた。
そのことが、烏森に生死を分かつ時間と逆襲のチャンスを与えることとなった。
烏森の両眼が、突然しっかりと焦点を結んだ。ジャケットのポケットから飛び出した右手には、すでに廊下で傭兵三人の血を吸っていた細い刃がしっかりと握られていた。
烏森はナイフの先端を、竜崎の右腿に横から深々と突き立てた。
竜崎はくぐもった悲鳴を上げた。
烏森は手首に力を込めて、竜崎の腿に突き立てた刃を横に捻った。そのまま、左腕で相手の左脚を払った。
今度は、竜崎がどうと床に倒れる番だった。烏森は素早く立ち上がるつもりだったが、胸に受けた衝撃は思いの外大きなものだったので、ゆっくりとふらつきながらも、なんとか立ち上がろうとした。一方、腿にナイフを突き立てたままの竜崎は、捻りによって傷が広がり、空気が入ったことで壮絶な痛みを味わっていたはずなのだが、烏森よりもいち早く立ち上がって体勢を立て直していた。
「いいかげんに、くたばりやがれ」
そう言い放つと、竜崎はようやく半身を起こした烏森の脇腹に強烈な蹴りを食らわせた。烏森のあばらが二本折れた。
烏森はラウンジの床をすべって数メートル吹き飛ばされた。
今度も、竜崎を裏切ったのは、竜崎自身の怒りだった。
もう少し冷静であったならば、ラウンジに入ってきた烏森が構えていたパイソン357をどちらの方向にはじき飛ばしたのか、今、どこにあるのかを確認していたかもしれない。そして、烏森が立ち上がろうとしたとき、僅かに体の位置を動かして、あえて竜崎に蹴られるように、それもパイソンがある位置に自然に移動できるように計算していたことにも気づいていたかもしれない。
次に竜崎が感じたのは、腹の中に鋼鉄の弾頭が入り込む衝撃だった。フラットヘッドの弾頭は貫通はせず、竜崎の内臓を粉砕した。一度ではなかった。弾丸は続けざまに撃ち込まれた。
超人となっていた竜崎には、最初の衝撃による瞬間的な死という慈悲は与えられなかった。積み重ねられるたびに倍加していく痛みと衝撃を、何度も感じ続けながら、竜崎はそれでもまだ死ぬことができずにいた。
ここまで体内を損傷してしまっていては、生き延びられる可能性はゼロだ。気の狂いそうな痛みと怒りに苛まれる一方で、竜崎の頭の一部は冷静に考えていた。その認識がさらに怒りと痛みに火を注いだ。
竜崎の両眼は、もはや反撃は不可能だと知りながらも、敵の姿を目で追った。
とどめの弾丸で頭部を吹き飛ばされ、長き長き眠りの後に、今度こそ終わることのない眠りへと送り込まれながら、竜崎が最後に目にしたものは、彼の怒りと苦痛を不思議なほど和らげた。
ラウンジの隅で体を横にして、大型の拳銃を構えた両腕を伸ばして自分の方に向けている烏森の目に浮かんでいたのは、間違いなく慈悲の色だったからである。
26
それはただの広々とした空間だった。
確かに天井も奥の壁も、両側の壁もステンレス製で、天井に埋め込まれたブルーの照明に照らされて鈍い光を反射していた。その点では石室がこれまでに観てきたSF映画を想起させる、そして彼が主演していた「仮面パルサー」の安手のセットを想起させるものではあった。実際のスタジオはずっと狭かったが。
だが、それだけ。
地下空間を一室だけで占めているのであろう、そこにはほかに何もないように見えた。
人はいた。死者も。
奥の方に半袖の白衣を着た白髪の人物と、同じ白衣の禿頭の男性が横たわっていた。
死んでいる、と石室は見て取った。
その傍らには、銃口からまだ煙の上がっているシュタイナーを、凍り付いたように立ち尽くす菜那の方に向けているドクターの部下がいた。
彼の足下には浅野教授が跪いて、全ての感情が搾り取られてしまったように、呆然と二つの死体を見つめていた。
「足下だよ」
石室の疑問に答えるかのように言い放つヒュプノスの声が、広々とした空間に響いた。
石室は、その声につられて下を向くことはなかったし、その必要も無かった。得意げな調子のドクターが何を言おうとしているのか、すぐに理解できたからである。
それでも、高価なオモチャを自慢する子供のようにドクターは言葉を続けた。
あるいは、取引が禁止されている野生動物をペットにしている男が、皆に見せびらかしたいのに我慢していたのを、心ゆくまでひけらかすことのできる相手を見つけたかのように。
「床下で眠っているんだよ。九一人いる。一〇〇人分の設備があるんだが、ほら、竜崎と鯉沼は覚醒したし、不具合で命を落とした者もいてね。ほかの皆は元気に眠っているよ。妙な表現かな。それぞれの培養液の入ったベッドの中でね。そうだ、浅野教授と、こちらの二人の優秀な同僚たちのおかげで、ここでは液体呼吸が実用化されたんだ。おかげで、人工冬眠の費用がずいぶん削減されたし、超人化の実験も急速に進展したんだ。感謝しているよ。殺したくはなかったんだが、この期に及んで私に逆らったんでね。それに」
ドクターは、フロアに頽れている二体の亡骸に、ぞんざいな視線を投げた。
「まあ、実際のところ、浅野君さえいてくれれば、実験はさらに続けられる。新たなネバーランドで、さらに超人を作り続けることもできる。超人と言えば、竜崎がまだ来ないな。あの老人がまだ持ちこたえているとは驚きだね。まあ、時間の問題だろうが」
石室は、ドクターが口にした言葉に、自分が腹を立てていることに気づいた。烏森を侮辱したからだ、ということを認識してさらに驚いた。
「諦めろ。さっきのヘリや烏森だけが、ここを攻撃する手段であるはずがない。すぐに、本格的な攻撃がるはずだ。ここにいる犯罪者たちを、全員移送する時間など無いだろう。貴様の部下の数も、烏森が相当減らしてくれたようだしな」
「すぐに、じゃなくて、やがて、と言った方がいいんじゃないかな」
ヒュプノスの口調から、得意げな、うきうきとした調子は消えていなかった。
「時間はまだあると思うよ。それに」
ヒュプノスは笑みを浮かべた。昆虫の羽や脚をむしり取って遊ぶ子供のような、残虐で、それでいてどこか無邪気な笑みだった。
「彼らを連れて行くつもりはないんだ」
石室は、自分がこれまで相手を見くびっていたことを思い知らされた。
「そうとも。このネバーランドは、各所に用意された爆薬によって、その本格的な攻撃とやらの前に、跡形無く吹き飛ぶことになっている。君の友達が片付けた職員たち、そして我々の足下で眠っている諸君も、完全に燃え尽きることはないにしても、身元も、正確な死者の数も、判定不能となるはずだ。私の存在は知られていないはずだが、浅野君も、お嬢さんも死んだことになるのではないかな」
「しかし・・・」
と言いかけて、石室は口を閉ざした。自分が何を問うつもりか、ドクターにはすでにわかっていて、それに答えることが相手の勝利感をさらに高めることはずだと悟ったからだった。
石室が問いかけを止めても、ドクターの自己陶酔を止めることはできなかった。
「心配してもらえるのは、ありがたいんだがね。新しいネバーランドで眠りたいという候補者は多すぎるほどいるんだよ。新しいネバーランドは、ここよりも遙かに大きな施設でね。五〇〇人収容できる。それでも、順番待ちのリストに空きが出ることを待っている者たちがたくさんいるんだ」
「いかん」
苦悩に満ちた呻き声だった。
「それは、いかん」
浅野が燃えるような目で、ヒュプノスを見上げていた。
「もう終わりにしなければ。もう、止めてくれ」
父親の苦悶を見つめる菜那の両眼から涙があふれ出した。
ヒュプノスは、本当に心外そうだった。
「何を言っているんだい、浅野君。君は新たな人類の父になれるんだよ。いつか、人類は全て、君と私の生み出した新たな優れた人間たちと、そうではない者たちとに二分されるかもしれない。いや。ぜひ、そうしよう。今は、優れた者と劣った者たちとの間の差異が少なすぎるんだよ。だから、争いが絶えないんだ。人類が完全に二分され、その間の格差が決定的に広がれば、完璧な社会が実現する」
「それは」
石室は、浅野の声に悲しみと苦悩だけでなく、抑えきれない怒りが充満していくのを感じていた。
「支配者と奴隷に二分される社会だ。支配者はもはや人間ではない。みな、竜崎のような怪物に変わってしまっている。しかも」
浅野の顔は嫌悪感で満たされ、言葉にはどうしようもない震えが混じった。
「支配者たちもまた、さらに支配される。本物の怪物に」
浅野は震えながら、右手をまっすぐに伸ばし、ドクターを指さした。
「お前のような」
ヒュプノスの笑みが大きく広がった。
まるで、口の大きさが二倍になったかのように。
いや、違う。
本当に二倍になっていた。
ヒュプノスの両眼から白眼が消えて、底なしの暗黒のごとき漆黒で満たされた。
シャツから出ている首筋が瞬く間に黄色い鱗で覆われ、鱗はそのまま上昇し、ドクターの顔全体を覆った。
白髪は、銀色の光沢を放つ金属に変わり、頭部を護る兜に変化した。
石室は不意を突かれはしたものの、それほど驚いたわけではなかった。
やはり、そうだったのだ。
ドクター・ヒュプノスは、やつらの一員だった。
石室を掠い、怪物に変え、竜崎のような、兵士にしようとしたあの軍団の。
石室は、ずっとそのことを疑っていた。
だから、隙を見て攻撃することを躊躇していたのだった。
正しい判断だったと、そのときになって石室にはわかった。
竜崎をしのぐパワーと瞬発力の持ち主である石室にとって、十メートルを超える距離をコンマ以下で移動して、シュタイナーを持った見張りとヒュプノスを倒し、菜那と浅野を救出することは不可能ではない、というか、容易いことであるはずだった。
ヒュプノスが人間であるのなら。
菜那は目を丸くして、ドクター・ヒュプノスの変身を見つめていた。
それだけではなかった。
シュタイナーを持った男の顔も驚愕で歪んでいた。それでも、銃口はしっかりと菜那に向けられたままだったのだが。
もはや、ドクターの顔は、顔と呼ぶよりは、頭部と呼ぶ方がふさわしい何かに変わっていた。
鈍く光る金属に縁取られたぬめぬめと光る黄色い鱗の中心部が、ぱっくりと口を開けた。シューシューと隙間風が通るような耳障りな音と共に、耳朶を突き破って脳天の中心に突き刺さるような声が、そこから発せられた。
「君は驚いていないようだな。やはり、わかっていたんだな。そうだ、私は君と同じだ」
ヒュプノスの発する禍々しい声と、そのメッセージに心を乱されてはいたものの、研ぎ澄まされ、さらに感度を増していた石室の聴覚は、菜那が、はっと息を呑む音を捉えた。
ヒュプノスにも、聞こえたようだった。
「そうだよ、お嬢さん。この男も私と同類だ。私や、この男と比べれば、君のお父さんの作り出した人間たちは、本当にマウスみたいなものにすぎないんだよ」
「違う」
完全に抑制された、静かな調子で発せられた言葉だったにもかかわらず、その場にいた者たち全員の耳に、それは苦悩に満ちた絶叫として届いた。
石室は、ドアーズに誘拐され、何らかの処置を施され、彼らの兵士となるはずだったのを助け出されたのだ。それ以来、戦ってきた。ドアーズと。「仮面パルサー」という番組もまた、戦いの一環ではなかったのか。だからこそ、彼はドアーズによって、小児性愛者の汚名を着せられたのだ。
「違いなどないな」
なぜだ、先ほどまではあれほど耳障りで、不快だったヒュプノスの声が、それほど嫌なものではなくなりつつある。
「君は、違うと思っていたのか。君は単なる兵士ではない。道具でもない。私たちの一員になれるのだよ。なぜ戦う。たかが人間などのために。君をヒーローだともて囃しておきながら、一瞬にして掌を返し、変質者だと面白がって叩き、迫害を続けた社会を護ろうというのか。さあ、こちらに来るんだ。君は支配する側なんだ。人間たちは弱い、醜い、そして限りなく残酷だ。放っておけば、自滅するんだ。わかっているだろう。支配は悪いことではない。人間たちを救済する唯一の手段は、我々が支配してやることなんだよ」
そうなのかもしれない。
頑健なダムのようだった石室の精神の片隅に、ほんの小さな穴がヒュプノスの言葉によって穿たれた。
そのちっぽけな穴から、一筋の水が漏れ出していた。水の流れは穴を広げ、それによって流れ出す水の量は多くなり、勢いを増し、穴は広がっていた。
ドクターの言うとおりなのかもしれない。
自分は、心と体を充たし、溢れだし、爆発しそうになるパワーを抑えつけて生きてきた。その力が解放を許されるのは、彼の存在を過去のものとは、全く別のものに変えた組織と戦うときだけと、石室は自分を律し続けてきた。
そんな必要など無かったのだとしたら。
ドクターの招待を受け入れればいいのだ。
石室を内側から支え続けてきた意思と気力は、今や巨大な奔流となって、石室という存在の外側へと失われ続けていた。
その代わりに、石室の内側は、どす黒く甘美な原油で充たされようとしていた。
石室の一部は、それに抗いつづけていたが、別の一部は、その全てを受け入れることを切望していた。
それは解放だったから。
そう、今こそ・・・。
菜那が石室を平手打ちしたのは、そのときだった。
菜那は容赦などせずに、全力でひっぱたいたつもりだったのだろうが、それでも石室の顔を少しでも傷つけることはできなかったし、ほんの少しの苦痛も与えることはできないはずだった。
それでいて、菜那の掌が頬に触れたとたん、石室は全身に高圧の電流が走ったように感じた。石室は実際に全身に電流を流されたことが何度かあり、まるでその時のような。
「いい加減にしてよ。しっかりして。あんなやつに騙されちゃだめだよ。石室さんは、そんな人じゃないよ。あいつらとは全然違うよ」
菜那は震える声で、石室に訴えた。
石室は呆然として、菜那の顔を見つめた。 青ざめた頬には涙の筋がいくつもまだ残っていた。
ほんの二日ほどの間にすっかりやつれてしまっていた。
だが、涙の乾ききっていない両眼には強い意志が込められていた。そして、ほかにも何かが。
「石室さんはね」
菜那の声から震えが消えた。
「仮面パルサーになんだからね」
その声に込められていたのは、希望、だった。
石室の内側に充満していた毒が一気に消えた。全身にきつく巻かれていたロープがバラバラになったように、石室は感じた。
石室は正体を表したドクターの漆黒の丸い両眼を正面から見据えた。
「せっかくだが、その招待はお断りさせてもらう」
「馬鹿なやつだ」
ヒュプノスの喉の奥から、耳障りな息吹と共に言葉が発せられた。
ドクターの変身を目撃した瞬間から、シュタイナーを構えたまま凍り付いたようになっていた配下の精神状態が限界に達した。意味不明の叫び声を上げながら、彼はその時点で自分のボスが、もっとも喜んでくれるであろう行動を取ろうとした。それが自分の命を救う唯一の方法だと信じて。配下はシュタイナーを構え直して銃口を菜那の頭にぴたりと向けて、引き金を引こうとした。
その行動は真逆の結果をもたらした。
三つのことが同時に起こった。
菜那が感じたのは風だった。
気がつくと、石室に抱えられて、シュタイナーの火線から外れた位置に移動していた。
配下の男は何も感じなかった。
いかなる痛みを感じる暇もなく、彼の頭部は胴体から離れていた。石室が菜那と共に動いたのと同じくらい素早くヒュプノスは彼の背後に移動し、やはり黄色い鱗に覆われていた左手だけで、頭をもぎ取ってしまったのだ。
浅野教授は右胸が抉られ、焼かれるのを感じた。
力なく床に頽れていた浅野は、菜那の顔に銃口が向けられた瞬間に最後の力を振り絞り、一気に立ち上がって走り、銃口と菜那の間に立ちふさがったのだ。
浅野が目指していた位置に立ったとき、すでに菜那は火線から外れていたので、結果的には必要のない行為となったのだが。
男の頭蓋骨に収まっていた脳は、頭部が胴体から引き離される直前に指先へと指令を送っていた。神経を伝わった電流は脳が機能を停止した後も移動を続け、男の右手はトリガーを引いた。こうしてシュタイナーから発射された一発の弾丸が浅野の胸を直撃した。
浅野はまた、どうと床に倒れた。
菜那は悲鳴を上げて父のもとに駆け寄ろうとしたが、石室が放そうとしなかった。
「馬鹿が」
ヒュプノスの口から発せられた呻き声は誰に向けられたものだったのかは、石室にはわからなかった。
少なくとも敵が一人減った。菜那はヒュプノスから十分離れた位置にいる。
今なら、一対一でヒュプノスを倒せるかもしれない。倒さねばならない。そして、浅野を、まだ生きているのであれば、連れ出して・・・。
石室は足下の床が細かく振動するのを感じた。
それだけではない。
右脚の位置にあった床板がスライドしていった。石室は体の位置を素早くずらした。
フロアのあちらこちらで床板が左右に開きつつあった。
胸から血を流し倒れている浅野の体の下でも、フロアがぱっくりと口を開けようとしていた。
青ざめた父親の元へ向かおうとする菜那を止めようとした石室を、菜那はすさまじい怒りを込めて睨み付けたが、次の瞬間にその怒りは悲しみと懇願に取って代わられた。石室は菜那の腕を掴んでいた手を離した。菜那はあちこちで口を開けつつある床の隙間を器用に縫って、父の元へと駆け寄っていった。
石室が菜那を行かせたのは、ドクター・ヒュプノスがなにをしようとしているのかを理解したからだった。
ヒュプノスが石室を倒すために、決定的かつ最終的な手を打ったとすれば、菜那は石室と共に立っているよりも、まだ息のある、ヒュプノスができれば生かしておきたいと思っているはずの、父親のところにいる方がまだ少しは安全なはずだと考えたのだ。
床に開いた四角い穴から、次々とせり上がってきたのは、ガラスでできた縦型の棺のように見えた。九十一と言っていたな、と石室は思った。
それぞれの棺は白く濁った液体で満たされていて、その液体の向こうに、どれも男性ばかり、グレイのボディスーツに身を包んだ人間たちが収まっていた。
いや、棺ではないな、と石室は思った。
奴らは死んではいない。
眠っているだけだ。
だから、だだっ広いフロアに、乱雑に並べられた墓標のように屹立しているのは、実際は縦型になったベッドなのだ。
バネで弾かれたように、透明のガラスの扉が一斉に右側に開いた。
百近い以上のガラスのベッドの中から白濁した液体が一気に溢れだした。フロアは腐りかけた果物のような匂いで充たされた。
体にぴたりと張り付いた灰色の膜に包まれた者たちが目覚めた。
しかし、その目覚めは正当な時間をかけ、慎重な行程を経た覚醒ではなかった。
深き眠りを中断させられた犯罪者たちは、知性や感情の部分は蘇らぬままに、根源的な殺意と悪意、そして身体能力だけを著しく増幅させた状態で一斉にガラスの棺から飛び出してきた。
「おはよう、諸君。朝食を召し上がれ。ほら、君たちの前にいる、あの男がそうだ」
灰色の男たちが、石室の方に一斉に顔を向けた。
静寂がその場を支配した。
うつろな眼差しのまま、男の一人が石室に手を延ばしてきた。石室は反射的に体を捻った。易々と逃れることができるはずだった。
そうはならなかった。
がっちりと掴まれた右腕に痛みが走った。 石室は左の拳を男の顔にめり込ませた。鈍い音を立てて頬骨が砕け、男の顔はひしゃげた。それでも、男は絶命しなかった。
そうか、こいつらも竜崎のように体機能が著しく向上しているのか。それだけではない。竜崎には少しは知性が残っていたが、こいつらには…。
背中を蹴られて前のめりになりながらも、石室は右腕をふりほどき、振り向きざまに左で作った手刀で背後の男の首の骨をたたき折った。
なるべく命を奪わない、という原則を、蘇った亡者/マウスたちに適応する余裕はなさそうだった。
また別のマウスが石室の肩に噛みついた。苦痛の呻き声が出そうになるのを押し殺しながら、石室はそちらに向き直ろうとしたが、首を折られた灰色が地面に倒れながらも、絶命はせずに、石室の両脚に組み付いてきた。石室は立っているだけで精一杯だった。地面に落ちたキャンディを見つけた蟻たちのように、灰色の膜で全身を包み、ヌメヌメとした液体をしたたらせた男たちが石室に群がってきていた。強化されているとはいえ、個々の戦闘能力は石室よりも劣るはずの男たちだったが、彼らは群れになっていた。そして今は、石室を殺すということで意思の統一が取れているようだった。
石室は背筋に力を込め、腰を中心にして体を捻った。背後から組み付いていたマウスの体が宙を舞い、床から林立していたガラスの一つに激突した。長年の人工冬眠に耐えうる特殊強化ガラスのはずだったがひとたまりも無く砕け散った。
その様子を見て息をつく暇もなく、石室の体は四方八方から組み付かれ、多くのマウスたちの手によって、両手足を捻られ、引っ張られた。普通の人間だったら一瞬にしてばらばらになっていたはずだったが、石室は持ちこたえた。だが、自分でも把握できないほどのパワーを秘めた石室の体さえも、人工冬眠の作用によってやはり強化された、灰色のマウスたちの集団にはかないそうもなかった。
すぐに関節が外れる。そして腕も脚ももぎ取られる。薄れ行く意識の中で、そう覚悟せざるを得なかった。石室は無意識のうちに両眼を閉じた。
ほとんど一つの音のように続けざまに、四つの轟音が響いた。
残響がこだまするなかで、石室の両腕から苦痛が消えた。そして両脚からも。
石室の体は自由になっていた。目を開くと、石室の手足を引きちぎろうとしていたマウスたちは自分たちの四肢や頭部を吹き飛ばされ、灰色の全身の面積の多くを鮮血で染めて、壊れたオモチャのように、磨き抜かれた床の上に転がっていた。ほかのマウスたちは石室と仲間(だと認識していたかどうかは不明だが)の死体を取り囲んだまま、殺意も攻撃の意思もすべて喪失したかのように立ち尽くしていた。
轟音のした方向に目を向けるのと、菜那のはしゃいだ声が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
「おじいちゃん!」
灰色のネズミたちが一斉に動きを止めた凍りついた時間の中、冬眠ホールの開いたままだった入り口に、烏森が仁王立ちになっていた。両腕をしっかりと延ばし、不格好な鉄球のような両拳でしっかりとコルト・パイソンを握っていた。銃口の先から立ち上る硝煙の匂いを、石室は確かに嗅いだと思った。
だが烏森の顔に浮かんでいたのは、決意でも、殺意でも、勝ち誇ったような表情でも、恐怖でもなかった。
照れと戸惑いを押し隠すための渋面だった。
「なあ、おい」
烏森が口を開いた。
「おじいちゃんは、やめてもらえるかな。頼むよ」
烏森は銃口をヒュプノスに向け、続けざまに残った二発の銃弾を撃ち込んだ。
二発の弾丸は、ドクター・ヒュプノスの全身をびっしりと包んだ黄色い鱗に易々とはじき飛ばされた。
「こいつは…」
烏森の言葉に込められていたのは正真正銘の驚愕だった。
相当いろいろな経験を積んだようだが、さすがにこんなモンスターを見たのは初めてなんだな、と石室は思った。
「よう」
烏森は石室の方に声をかけた。
「こいつの相手は、お前さんに頼んだ方が良さそうだな」
その代わり菜那と教授は、と答える必要は無かった。
烏森は素早く二人の方へ移動しながら、いつのまにか排莢と装填を終えていた終えていたパイソンから、効率的に、容赦なく、再び動き出した灰色のマウスたちに叩き込んでいた。
ヒュプノスの顔面の裂け目から、再び言葉らしいものが再び発せられた。
「そうだ、お前の相手は私だ」
その言葉が終わらぬうちに、石室はヒュプノスに突進した。
ヒュプノスと石室。烏森と灰色のマウスたち。二つの戦いが繰り広げられることとなった。
石室も烏森も、もう一つの戦いの方に少しでも注意を向ける余裕はなかった。自分の相手にしている敵から、ほんの少しでも気を逸らせば、それは自分の死につながり、とりもなおさず共に戦っている者と浅野と菜那の死に直結することをはっきりと認識していた。 目覚めた罪人たちの恐怖心は眠りについたままだったようで、仲間たちが(仲間、と認識していたかどうかはすこぶる怪しかったのだが)、次々と大口径の弾丸を撃ち込まれ、内臓をはみ出させながら、今度こそ永遠の眠りへと追いやられていっても、灰色のマウスたちは正面から烏森に向かっていった。
烏森は彼らに次々と弾丸を食らわせていたが、深傷を負って受けた大規模な手術の傷跡を竜崎に痛めつけられたつけが回ってきていた。軽々と扱えていたコルト・パイソンの重みがずっしりと腕に感じられるようになって、動体視力が突然衰えたように感じられた。
目前に迫っていたマウスの一人が闇雲に繰り出した拳が、弾丸摘出手術の縫合痕にまともに当たった。竜崎との戦いですでに開いていた傷口がさらなるダメージを受けて、烏森の意識が遠のいた。
マウスたちは同じように人工冬眠を続け、同じように超人化のための処置を受け続ける中で、互いに精神感応をする能力を身につけていたのかもしれない。
ラッキー・パンチで烏森に思いがけない打撃を与え、素早かった動きを一時的に停止させたマウスの勝ち誇った気持ちの高ぶりが、ほかのマウスたちに一瞬にして伝播した。マウスたちは冬眠明けで飢えきった獣たちのように、一斉に烏森に襲いかかろうとした。烏森は渾身の力を込めて、なんとかもう一度腕を持ち上げて伸ばした。
一人か、二人、できれば三人道連れにして、こいつらが混乱している間に、なんとか浅野父娘が、この場を逃げ出してくれれば。
菜那だけでも…。
烏森は引き金にかけた指を絞った。
目の前にいたマウスの頭部が消し飛んだ。続けてもう一人の肩と腕が弾け飛び、白い骨と赤い筋とがむき出しになった。二人ともその場でばったりと倒れた。
せめてもう一人…。
烏森は引き金を絞ったが、カチリという乾いた音がしただけだった。
くそ、残りの弾数を数え忘れるとは、おれもいよいよダメなのか。
それでも、反射的に烏森はもう一度撃鉄を起こした。不発弾の可能性があるのだ。何千分の一かで。烏森がリボルバーを使い続ける理由の一つがこれだった。リボルバーならば、撃鉄を起こしもう一度引き金を絞れば、不発弾に点火され、うまく発射されることもあるのである。何百分の一かの確率で。
今回は、その何百分かの一には入らなかった。パイソンからは乾いた金属音のみ。
それでもマウスの一人の胴が切り裂かれた。
一人だけではない。グレイのボディスーツを赤く染めて、冬眠から覚めたばかりの男たちは、眠りにつく前に犯していたそれぞれの罪を、最も壮絶なやり方で償うかのように、全身を切り裂かれて次々と、赤黒い肉塊と化していった。
パイソンは沈黙していたが、シュタイナー/AUG突撃銃が咆哮していた。
烏森は床に身を伏せて、パイソンを握ったまま両手で頭を抱えた。こうすれば、突撃銃の銃弾からの防御効果がある。新聞紙を一枚かざしたくらいは。
目の前に立ちふさがっていた人間マウスたちの壁は消え去っていた。
烏森はパイソンを手に取りながら、ゆっくりと立ち上がった。
消えた壁の向こうに見えたのは、もうもうと立ち上る硝煙。硝煙が消えていくと、烏森の目に、シュタイナーを構えたままで立ち尽くす菜那の姿が見えた。
菜那は父親と一緒に震えていただけではなかったのだ。ヒュプノスに殺された部下のところに忍び寄って突撃銃を手に取り、そして…。
俺はこの小娘に命を救われた。
信じがたかったが、それは事実だった。
決意と怒りに満ちた菜那の小さな顔は壮絶な殺気を湛えて美しかった。
烏森は真っ赤な絨毯のようにフロアを覆う血肉を踏みしめながら、ゆっくりと菜那のところへ歩み寄った。
「世話の焼けるじいちゃんだ…」
烏森はパイソンを握った右手を下に向け、左手を伸ばして使い込んだ野球のグローブのような左掌で菜那の小さな顔の輪郭をそっと包んだ。
石でできた仮面が一瞬にして溶け去るように、菜那の顔がくしゃっと歪んだ。
顔を真っ赤にして、涙と鼻水とで顔をぬらして、菜那は烏森の胸の中に飛び込んできた。
烏森は傷ついた小鳥を迎え入れるように両腕を広げた。
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烏森の危機を石室は認識していた。菜那が傷ついた父親のところから、そろそろと移動してシュタイナー突撃銃の方へと近づいていたことも。
認識していただけではなく、死闘を繰り広げている相手であるヒュプノスを菜那から少しでも離れた場所へ誘導しようと苦闘もしていた。
だが、それが精一杯だった。
白いところのない真っ黒な両眼から鈍い光を放ちながら、明らかにほんの数分前よりも遙かに太く、長くなった両手、両脚から矢継ぎ早に繰り出されてくるヒュプノスからの攻撃を防ぎ、そして自分の側からも攻撃を加えようとすることに石室は持つ力のほとんどを動員しなければならなかったのだ。
烏森と菜那に加勢をする余裕は皆無だった。
烏森と菜那の方にも、石室とヒュプノスの死闘に目を向ける余裕など無かったのだが、仮にあったとしても、実質的な意味で二人の戦いを‘目にする’ことはできなかったはずだった。
戦いのスピードが速すぎたのだ。
烏森の鍛え上げた、そして実年齢にはそぐわない動体視力を持ってしても、石室とヒュプノスの動きを視界に保ち続けることは不可能だったはずだ。
ヒュプノスは隙あらば菜那と浅野のところへ近づこうとした。いや、近づこうとするそぶりをわざと見せていた。それを阻止しようとする石室の動きと心の焦りが、自らへの攻撃を弱め、相手への打撃のチャンスを増やすということを正しく理解していた。
それでも石室はヒュプノスが矢継ぎ早に突き出してくる両手(それは人の手ではなく、ナイフの刃のようなかぎ爪が先に付いた三本の太く長い指が手首から生えているなにかだった)を自らの両手で巧みに捌きながら時にはパンチを繰り出し、相手のボディに少しずつダメージを与えていった。ヒュプノスの体をびっしりと覆う黄色い鱗は堅固な鎧のようだったが、同じ箇所に繰り返し石室の拳を受けているうちに、ほころびが生じ始めていた。 石室の体にはヒュプノスの爪によって無数の切り傷が刻まれたが、どれも表面的なものだった。拳を作った指の甲は血を流し、ひしゃげかけていたが、石室はまったく気にしていなかった。
敵から受けるダメージのほとんど全てを受け止め遮断していた鎧に穴が開きかけ、そこから容赦なく苦痛が忍び入ってくることに、ヒュプノスは驚き、焦っていた。ヒュプノスはこれまでの自分にはほぼ無縁だったなじみのない感情が‘恐怖’であると認めることを断固拒否していた。それ以上に強い感情が全身を充たしていたので、それは比較的容易だった。ヒュプノスは激怒していたのだ。
怒りは心地よかった。
怒りはヒュプノスに新たな武器を与えることとなった。
冷静さだ。
自分を怒らせた相手を少しでも傷つけ、最終的には斃したいという渇望がヒュプノスを冷静にした。
「なあ、そんな目つきで睨むのは止せよ」
ヒュプノスは両腕の先から消えている刃のような爪よりも効果的な武器を見いだした。
「お前は自分が特別な存在だとでも思っているのか」
ヒュプノスの言葉に込められた面白がってでもいるような調子に、石室の攻撃の手が鈍った。
「どういうことだ」
相手にすべきではないとわかっていながら、石室は問うた。攻撃の切っ先が鈍ったのはほんの一瞬のことで、石室は矢継ぎ早にパンチを繰り出していたが、体をすいすいと捻り、刃のような爪で石室の拳をよけ続けているヒュプノスの動きには余裕があった。
「わかっているはずだ。お前と俺は兄弟なんだよ。ある意味ではな」
「違う」
「確かに私は怪物だ。ご覧の通りのな。だが、その怪物と互角に渡り合っているお前は何なのだ。人工冬眠の副産物として生まれたマウスなどではない。お前はな。知りたくはないか。お前が本当は何なのかを。これから何になれるのかを」
「私は私だ。今のままの私だ。今のままの私として、お前を斃す。お前たちの組織を潰す」
「そうだ。確かに私とお前の姿は違う」
ヒュプノスのほぼ円形となった両眼が妖しく光った。唇の消えた、ナイフで横一文字に切られた線のような口がうねうねと蠢いて言葉を発した。
「これからもそうなのかな」
石室の意識が凍り付いたのは、一秒の百分の一にも満たない間だけだった。石室が直面することを避けてきた疑い。把握することを拒否していた最悪の恐怖は、それだけの時間を石室にとって空白にした。
そしてヒュプノスにとって、それは十分な時間だった。
自らの肉体に正面から向かってくる、ヒュプノスの右手を認識して石室は身を捩った。致命的な一撃を避けるのには間に合った。ちだが攻撃そのものを回避するには遅すぎた。石室の左胸、心臓の少しだけ上のあたりに、ヒュプノスの手首から生えた三本のナイフのような爪のうち、最も長い真ん中の一本の先端が突き刺さった。
石室の体に電流が走った。文字通り。
「苦しいだろう。私にはこんなこともできるんだよ」
ヒュプノスの勝ち誇った声が、石室の頭の中でどこか遠いところから聞こえてきた。
深々と突き刺さった爪/刃の先端から、電流が石室の全身に流れた。並の人間であれば瞬間的に、心臓は鼓動を止めていたはずだった。
俺は超人だから、こんなことで簡単に死にはしない。
石室は続けてわき出る裡なる声を、どうして求めることができなかった。
超人? 超人とは何なのだ? ヒュプノスのような、そして俺がこれまでに戦い、斃してきた怪物なのではないのか、この俺自身も?
体中を流れ、内臓にショックを与え続け、強靱な生命力に対し、急激に取り返しのつかないダメージを与え続けている電流(それが単なる電流であったとしてだが)に対抗しようという意欲が、少しずつ石室の魂から消えていった。
「お前は私と同じだ。だから、こっち側へ来い。我々と戦うのではなく、我々と共に戦うのだ。三つの次元しか知らず、単独の時間の流れしか認識できず、お互いをつぶし合い、自分たちの知るたった一つの世界さえも汚し、破壊し、自滅しようとしている人間たちなどを護ることに何の意味があるのだ。滅びたがっている人間たちを、私たちは支配することによって救済しようとしているのだよ。どうしても奴らが滅びたいというのなら、苦しみを長引かせず、奴ら以外の存在にとって地球の環境が取り返しのつかないものになる前に、さっさとけりを付けてやってもいい。それが人間たち自身にとっての慈悲というものではないかな」
ヒュプノスの言葉は石室の耳から入ってきただけではなかった。肩の付け根に突き刺さった巨大な爪の先から流し込まれる電流に乗って、石室の体、四肢、そして頭の隅々にまで浸透していった。
石室はヒュプノスの仲間になるつもりはなかった。ドアーズの一員になるつもりもなかった。
たとえ、結局は彼の存在がヒュプノスや、彼が戦ってきた怪物たちと同じものだったとしても。
まだ、そのつもりはなかった。
だが、いつまで、抵抗できるだろう。
抱き続けてきた、恐れ続けてきた、そして無視し続けてきた可能性を、ヒュプノスはめざとく見つけ出し、そして石室の魂に刻みつけたのだ。
この疑いが、恐怖が、魂の中で芽吹き、成長し、育ち、そして石室の精神を食い尽くしてしまうのを食い止めることができるだろうか。できないのであれば、今ここで、電流に身をゆだね、傷口から流れ出している血液と共に生命エネルギーもすべて失われるままにして、扉の向こう側へ、甘美なとの世界への扉を開けた方がいいのではないのか。
俺はもう疲れた。戦うことにも。恐れることにも…・
そのとき、薄れゆく意識の中で、石室は乱射される銃弾の音を聞いた。そして少しだけ間を置いて、
「世話の焼けるじいちゃんだ」という声。
広々としたホールの反対側で続けられていた烏森の戦いの音を、石室は意識して聴かないようにして自らの戦いに集中していた。
石室の人間離れした能力の中には、野生の肉食動物並みの聴力があっただけでなく、彼は、そのままにしておけば際限なく頭の中に入り込み、意識を混濁させるであろう様々な音を無意識のうちに峻別することができた。
だが、目の前にいるヒュプノスの方にだけ向けていた注意の、ヒュプノスの声と言葉に魅入られて囚われていた意識の、強固な壁を突き破って、菜那の微かな声が石室の頭の中で鳴り響いた。
声は石室を解き放った。
石室は左の手で肩に突き刺さっている鋼のような灰色の爪を掴んだ。意識を集中させることで極端に硬化した指と掌の肉からは少ししか出血しなかった。
ヒュプノスの顔が歪んだ。狼狽しているのか。
石室はそのまま右手で手刀を作り、今度はその手刀に‘気’を注ぎ込んだ。仮面パルサーの戦闘モードのグローブがあれば、その必要はなかったのだが。一か八かやってみるしかなかった。
石室は手刀を振り下ろした。爪/刃が砕け散り、ヒュプノスは怒りと狼狽の叫びを上げた。
巨大な古木と、そこにとまる小鳥のように身を寄せ合っていた烏森はヒュプノスの叫び声で我に返った。
菜那はホールの片隅の床でじっと動かない父親の方に、ひととき眠りから覚め、そして永久の眠りについた骸を器用に避けながら駆け寄っていった。
烏森は石室に加勢するために走ろうとしたが、一歩目を踏み出したとたんに全身を激しい痛みが走った。竜崎との格闘で手術の縫合後が開いただけではなく、マウスたちとの乱闘でも、相当なダメージを負っていたのだ。
休むのはもう少し先だ。
烏森は床に落としていたパイソンを苦労して拾い上げ、、震える手で装填をし直し、石室とヒュプノスの方にゆっくりと歩き出した。
ゆっくりとしか歩けなかった。
ヒュプノスの顔は、人間のそれに戻りかけていた。つるりとした光沢が、青ざめた肌に変わり、顔の表面のほぼ端から端まで延びていてた一本の線は短くなり、薄い唇が現れた。唇の間から覗いているのは前後二重にびっしりと生えた鋭い牙ではなく、異様なまでに白いものの人間の歯だった。
もはや異様な光を放つこともない両眼は苦痛を湛えて、己の右手の先を見つめていた。 ヒュプノスの視線の先にあったのは、大型の肉切り包丁のような爪がたたき割られた残骸ではなかった。それは手の部分が消失した人間の腕で、手首の先から白い骨が見えていて、乱暴にたたき切られた腱が数本垂れ下がっていた。
モンスターに変身した際に破れた衣服の残骸は格闘の間にすべてフロアに落ちてしまっていたため、まっ裸の状態をさらしたヒュプノスの姿は惨めで、どこか滑稽にさえ見えた。 ヒュプノスは、そのままがっくりと床に膝を着いた。
石室は肩に突き刺さったヒュプノスのミイラのような手首を抜き、肩越しに後ろに投げ捨てると、苦痛と悔しさに歪んだ顔で自分を見ているヒュプノスを見下ろした。
「勝ったつもりでいるのか。だが、わかっているはずだ。われわれの仲間はまだまだいる。これからも来る。そして、人間たちを絶滅させるか、自ら絶滅を切望するほどの存在にしてみせる」
ヒュプノスが辛そうに、苦労しながら、しかし精一杯の虚勢を張って一言ずつ発するたびに、口から真っ赤な血の泡が溢れ、弾けた。 「だがな、安心するがいい」
このときのヒュプノスに顔に浮かんだ、残酷な愉悦は虚勢でも、演技でもなかった。
「そのときまでに、お前はわれわれの仲間になっているのだからな」
まるで、再びモンスターに変身したかのように、ヒュプノスの口が巨大に開き、そこから猛禽類の叫び声のような音が発せられ、ホールを充たした。
石室は金縛りに遭ったように直立したままだ。
ヒュプノスの頭部が、水を張った風船が割れるように弾け飛んだ。中から飛び散ったののは、透明な水ではなく、どす黒い血と、白っぽい脳漿だったが。
石室は振り返ること無く、そのままの姿勢で口を開いた。
「すまんな。俺がやるべきことだったんだが」
「かまわんさ」烏森がパイソンの銃口を下に向けながら答えた。
「さあ、とっととこんなところは出て行こうぜ」
28
烏森と石室はフロアに点在している死体、やもはや死体とも呼べない肉片を避けながら、座り込んで力なく壁により掛かっている田宮と、父の体にすがりついている菜那のところへ歩み寄った。
死闘の直後だったにもかかわらず、石室の足取りは素早く、しっかりとしたものだったが、烏森は遅れずに着いていくことに困難を覚えていた。
烏森は死に際の人間たちを数多く、多すぎるほどに見てきていた(
(そのうちのかなり数が、彼自身の手によって命を奪われた者たちだったのだが)。それゆえ、田宮の命の火がまもなく燃え尽きようとしていることが、烏森には、はっきりとわかった。
烏森は自分が善良な人間だなどと、一度も考えたことはなかった。自らの罪深さは十分に認識していた。
それでも、今では敵として戦うことになった組織のために、かつては人を殺めていたときでさえ、標的となる相手に関しては自分なりに一定のルールを定めていた。
特に標的が女性である場合は 直接的にであれ間接的にであれ人を殺したことのある、あるいは人を殺そうとしている相手、にしか銃口は向けないというールだ。
烏森が刺客としてすこぶる優秀で有益だったため、組織は烏森のそんなわがままを許し、彼に殺人を命じる場合には、標的の経歴を、その相手がどれほど多くの人間たちにとって危険なのかを事前情報として教えた。烏森はその情報を信じた。すべて信じるふりをしていた。
ルールに当てはまらない相手に対しては、必要に応じて脅したり傷つけたり、場合によっては拷問することさえ、烏森は躊躇したことがなかった。命を取り上げることはしてこなかった。そして、ドアーズの最終的な目標についても考えることはなかった。あえて考えないようにしていたのかもしれない。
だが、ネバーランドを巡る戦いでドアーズの邪悪さに直面せざるを得なくなっていた。
そして、烏森の、自分がそんなものをまだ持っているなどとは思ってもいなかった悲しみと哀れみ、自らを恥じる感情を刺激したのは、今にも事切れようとしている父親の体に取りすがる幼子のような姿だった。
石室が口を開く前に、菜那は彼をきっと睨み付けた。
「連れて行くよ。早くここから私たちを連れ出して」
絶対かなえてもらえないとわかっている願い事を親にねだる少女のような、絶望と切望と悲しみと怒りが込められた声だった。
「絶対、連れて行くんだから」
田宮の口から漏れたのはすきま風のような囁き声だった。
「私はここに残るよ。菜那。残らなければならないんだ」
田宮の声には不思議な安らぎと満足感とがあった。
「私が眠るべき場所はここだ」
「パパ」菜那の声もまた弱々しかった。
田宮は石室と烏森の方に顔を向けた。
「この場所は焼き払ってくれ」
「約束する」石室が答えた。
どうだかな、と烏森は思った。
ネバーランドへの最初の攻撃が試みられたときとは事情が変わった。ヒュプノスたちが倒れた今、ネバーランドで進められていた人工冬眠と人体強化の研究結果を、日本政府はじっくりと、そして密かに吟味することができる。超人兵士の誕生につながる研究はアメリカ政府との取引材料として、強力な切り札になるはずだ。
浅野にもそれはわかっていたはずだが、石室の言葉に込められた誠実さに、死にゆく科学者は満足したようだった。
「もう一つ、菜那のことを頼みたい」
烏森は気がつくと言葉を発していた。
「心配しなくていい」
自分の言葉に込められた誠実さに、烏森自身が驚かされた。
父親の体にすがりながら言葉もなく啜り泣く菜那に、浅野は優しく語りかけた。
「これでいいんだ。私はもっと早く自ら命を絶つべきだったんだ。だが、お前にもう一度会うまではと先延ばしにしていた。それに」
浅野は目を閉じ、言葉が途切れた。石室も烏森も、もう後は続かないだろうと思った。しかし、浅野は目を閉じたままで言葉を振り絞った。
「それに、いざとなったときに、自殺をする度胸があったかどうかもわからない。お前にもう一度会えたし、どうやらこのまま死んでいくことができそうだ。だから、これでいいんだよ」
浅野はもう一度薄目を開けて、涙でぐしょぐしょに濡れた菜那の顔を見つめた。
「やっぱり、ママによく似ているな」
浅野の目から光が消えた。
菜那は父の顔に手を延ばし、まぶたを閉じさせた。
菜那は石室と烏森の方に顔を向けた。
「じゃあ、早くここから連れ出して」
菜那の顔はまだ涙で濡れていたが、もはや子供のような表情ではなく、強い意志を湛えていた。
「いいのかい。お父さんを連れて行くことはできるよ」石室は一応確かめた
「いいの。パパはここに残ることを望んだから。ここに残って、ここと一緒に焼かれたいの。その望みを叶えてあげることしか、今は…」
烏森は無言のままだった。すっと目を閉じ、切り倒された古木のように、ばたりとその場に頽れた。
石室は左手で軽々と、意識を失った烏森の巨体を持ち上げて脇に抱えた。
「おじいちゃん、大丈夫?」
菜那の声には心から気遣う調子があった。
「何発も撃たれて死に損なって、大きな手術を受けて、超人化したやくざと戦って大きなダメージを受けたんだぞ。それに年寄りだ」と言って、石室は菜那に向かってニヤリと笑って見せた。
「大丈夫、この男が簡単にくたばるわけがないよ」
29
その後の記憶が菜那の頭からすっぽりと抜けている。地階の人工冬眠施設で石室の腕に抱えられ(石室が烏森を抱えていたのとは反対側の腕)、ネバーランドの外に出るまでの記憶がだ。気がつけば、自分と烏森が連れて来られるときに乗せられていたバンの後部座席に座っており、隣では烏森が目を閉じたままぐったりとしていた。石室は前の運転席で、ハンドルの下の配線を慣れた手つきでたちまち直結させると、バンを発車させた。
地下から上がり、廊下を通って建物の外へ出るまでの間、瓦礫の山や夥しい数の死体が、極端な早送りの映像のように目の前を通り過ぎていったような気もするが、それも定かではなかった。よかったわ。 今日はもう、十分すぎるほどの死体を見たんだもの、と菜那は自分に語りかけた。
おびただしい数の死体のうち一部、というか、かなりの数が菜那自身の手によるものだということは考えないようにしたが、父もまた亡骸となっているということは意識せざるを得なかった。
地下から車まで移動する、ほんの十秒足らずの間、強い風を全身に受け続けていたことだけは鮮明に覚えていた。
菜那には、そのことが嬉しかった。
体にまとわりついた死臭を、風が洗い流してくれるように感じたからだ。
菜那は烏森の顔をまじまじと見つめた。
死んじゃった?
菜那の心の声が聞こえたかのように、目はつむったままの烏森が口を動かした。
「‘課長’はネバーランドを焼き払うことを承知するかな」
「させるまでさ」ハンドルを握っている石室が視線を前方に向けたまま答えた。
「どんな手を使ってでも承知させる。一刻も早く。誰かがあの施設のデータを手に入れる前に」
「ドアーズは、すでにデータを入手しているはずだぜ。やつらが人類支配だか殲滅だかを、これからも企むのであれば、まあ絶対に企むだろうが、攻撃される側も超人をたくさん用意しておいた方がいいんじゃないか」
烏森は言葉を一瞬途絶えさせ、そして続けた。
「お前さんみたいな」
「奴らが新たなマウスを作り出したとしても、そいつらとだけ戦えばいい。どこかの国の政府があの技術を手に入れれば、そことも戦うはめになるかもしれない」
「いっそ、複数の国の政府がスーパーマウスを人間に応用する技術を手に入れればいいのかもしれんな。超人が、それこそねずみ算式に増えていけば、ドアーズなんかに滅ぼされずに済むぜ。新しい戦争がいくつも起こって、人類は自分たちで勝手に滅びるだろうからな」
「そうかもしれんな。だが、あんたがどんなつもりだろうと、どれほど邪魔をしようと、‘課長’には早急にネバーランドを焼き払う指令を出してもらうつもりだ」
「だれが邪魔すると言ったよ。必要なら手伝わせてもらうぜ。相棒なんだからな」
石室は何も答えなかったが、背後から見つめている菜那には、彼の体からふっと緊張が抜けたように見えた。
遙か後方からの爆音が菜那の耳をつんざいた。後に残してきたネバーランドの建物が炎に包まれているのが、バックミラーに映し出されていた。
しゅーっ、しゅーっ、と煙の矢が続けざまに建物に突き刺さり、爆発が繰り返された。
「あー、説得の必要は無くなったみたいだな。またヘリを飛ばしたんだ」のんびりとした口調で烏森が呟いた。
「無茶しやがる。俺たちのことはどうでもいいのかね、‘課長’の野郎には」
「そうかな。われわれが建物を出て、ぎりぎり安全な場所まで離れたことを確認してからの攻撃のようにも思えるがな」
「どうし‘課長’にそれがわかったのかな」
「あんたが、ネバーランドの場所を知っていた理由と何か関係があるんじゃないか。俺の体の中に何か入っているとか」
「まあ、いいじゃないか。俺は助かるよ。戻ってすぐにあんたと一緒になって‘課長’を説得しなくて済むからな。つまり、気絶してもいいってことだ」
石室は再び目を閉じた。
菜那も目を閉じて、「さよならパパ」と呟くと声を殺して泣き始めた。石室の運転するバンが高速に乗った後も泣き続けていたが、‘課長’の待つ都心の目立たないビルにバンが到着した。
「さあ、着いたよ」
運転席の石室が車を止め、後ろを振り向くと、菜那は烏森の大きな肩に頭を乗せたままで寝息を立てていた。
そのとき、石室の顔に浮かんだものは、微笑のように見えなくもなかった。
30
「だから、私はここに残るんだってば」
腕組みをした菜那が‘課長’を睨み付けていた。
‘課長’はデスクの後ろに立って、珍しくも途方に暮れたように菜那を見つめていた。
壁際の烏森は大っぴらにニヤニヤしながら菜那と‘課長’の対決を見物している。無表情を装う石室も、どこか笑いをかみ殺しているように見えた。
「今回、見聞きしたことは全て忘れるのが君のためなんだ」
課長が鋼鉄のように冷たい声で言い放った。
「詳しいことを教えるつもりはないが、私たちが相手にしているのがどんな相手だか、どれほど恐ろしい存在だか、君にはよくわかったはずだ。就職先なら心配しなくていい。政府関係の上級職を世話する。あんなことの後で、就職をする気に当分なれなかったとしても当然だ。生活に困らないだけの現金も、当分の間、なんなら永続的に支給する。護衛も永続的に手配する。だから、安心して日常に戻るんだ」
「あのねえ、‘課長’さん。ずっと護衛が付くんだったら、もうあたしには元通りの日常なんて無いんだよ。だから、ここにいるよ。石室さんとおじいちゃんと‘課長’さんを手伝うよ。あたし、コンピューターのことなら詳しいし、いろんな化学分析もできるよ。もっと勉強もするしさ。わけのわからない護衛が付くより、ここにいた方が安全だと思わない?」
‘課長’がさらに口を開きかけると、菜那がたたみかけた。
「お願い。あいつら、パパを死なせた。それ以上に許せないのは、パパを騙して、利用して、私たちみんなを滅ぼすための道具にしようとしたこと。私はあいつらを絶対に許さない。絶対に」
金銭的援助と安全を約束すれば、菜那はすぐにでも今回見聞きしたことを秘密にすることに同意するだろうと高をくくっていた‘課長’は菜那の瞳で燃えている意思の力に圧倒されそうになり、続ける言葉を失った。
「なあ、‘課長’さん。こちらのお嬢さんの言ってることも、もっともなんじゃないかな。もう関わり合いになってしまった以上、俺たちの目の届くところにいてもらった方が守れるだろう」
「ありがとう、おじいちゃん」
「おじいちゃんと呼ぶな」
‘課長’は助けを求めるように、石室の方に顔を向けた。
「秘密保持という点から考えても、近くにいてもらう方がいいかもしれませんね」
石室がさらりと言った。
「よし、これで決まりだね!」
‘課長’がそれ以上反対の理由を口にするのを遮るように菜那が叫んだ。
「チーム・コルヴィス誕生だよ。私たちのコードネームはコルヴィス」
「コードネーム?」すっかり菜那のペースに巻き込まれた‘課長’が戸惑って呟いた。
「コードネーム、必要っしょ。だってさ、おじいちゃんがカラスでしょ。石室さんはパルサーだから中性子星だよね。だからカラスの星座でコルヴィスね。ほんとは中性子星と星は別物だけど、かっこいいからいいよね。‘課長’さんの名前も入れてあげたいけど、教えてくれないじゃん」
菜那は期待を込めて、‘課長’の顔をたっぷり五秒眺めていたが、何の反応もないのでため息をついた。
「はい、じゃあコルヴィスということで」
今度は‘課長’がため息をつく番だった。
「石室、浅野君に建物の中を案内してやってくれ。空いている部屋の一つを選ばせろ。あとで彼女の荷物を運ばせよう。烏森はちょっと残っていてくれ」
「おじいちゃん。後でね」
「その呼び方は止めろ」
石室の後に続いて、菜那は「部屋がもらえるんだあ。楽しみだなあ」とうきうき呟きながら飛び跳ねるようにしてオフィスを出て行ったが、ドアをきちんと閉めることは忘れなかった。
菜那がいなくなって、しん、とした静寂がオフィスを充たしたなかで‘課長’が口を開いた。
「君は私からの命令に背いた。今後同じことがあれば、逮捕、起訴、裁判は省いた形で君は死刑になる。それだけの罪は重ねてきたはずだ」
「あんたの犬になるわけじゃないが、とりあえずはここにいるつもりだ。ドアーズが関わっている可能性の高い事件を扱うのが、こここの仕事だというのであればな。あいつらの鼻を明かしてやるのは、なかなか愉快だとわかったよ」
烏森は今後は‘課長’の命令に従うとは言わなかったし、‘課長’もそのことには気づいていたが黙っていた。ドアーズとの戦いを続けることが、消息不明となった烏森の娘を探す唯一の道だからだということもわかっていたが、そのことを敢えて口にするつもりはなかった。
「それと」烏森が言葉を続けた。
「頼んでおいたものはどうなった」
‘課長’は無言でデスクの抽斗を開いた。
烏森は‘課長’から小さな金属を受け取ると、フィールドコートのポケットに入れ、無言で部屋から出て行った。ドアは開けたままで。
課長はドアの向こうの人気の無いドアを見つめたまま、しばらく立ち尽くしていた。
「コルヴィスか」
声に出して呟き、言葉の響きを楽しむかのように、口の中で何度か繰り返した。
コルヴィス本部の屋上で、石室は真冬の曇天を背景とする都会のスカイラインを見つめていた。
背後から忍び寄ってくる微かな足音を、石室の超人的な聴覚は捉えたが、石室はすでにこの足取りに慣れていた。そう、足音の主にとっては、この密やかな忍び足が日常に、本能と言ってもいいものになっているのだ。
石室の横に烏森が立った。
「なあ、石室さんよ。本当に俺と組むつもりなのか。俺は殺し屋で、しかも元の雇い主は、あいつらだ。ドアーズ。いつ寝返るか、あんたを殺そうとするかわからんぞ」
烏森の口ぶりはおどけたものだったが、それは真摯な問いだった。
「烏森さん、あんたも目にしたはずだ。あのヒュプノスが現した正体を。ご存じなかったようだが、あんたが働かされていた組織を本当に動かしているのは、あんな化け物たちなんだよ。それに、ヒュプノスは俺に言った。俺も奴らと同じだと。だから、俺なんかと組んで、命が危なくなるのはあんたの方かもしれない。あんたも気づいているだろう。俺たちを組ませようとした‘課長’の意図に」
烏森の唇に皮肉な笑いが浮かんだ。
「もちろんだ。俺たちのどちらかが手に負えなくなったら、もう片方に始末させる」
「そう。それにな。あんたは少なくとも自分が何者かを理解している。殺し屋だろうが何だろうがな。俺には自分が見えない」
石室はそのまま黙り続けるのだろうと烏森は思った。だが、石室は声を絞り出した。これほどの苦悩と恐怖に満ちた声を、烏森はこれまで耳にしたことがなかった。
「俺は自分自身がわからない」
烏森はフィールドコートのポケットに手を入れて中にあったものを取り出し、石室の目の前に差し出した。使い込んだ野球のグローヴのような烏森の掌の中で、雲間から一瞬顔を出した日の光を反射してきらりと光った小さな金属の塊は、ブルース・ハーモニカだった。
石室が問いかけるまでもなく、烏森は語り出した。
「俺は自分のことがわかっていると思っていた。だが、ある女が教えてくれた。俺が知らなかった自分を見せてくれた。これはその女がくれたんだ。それ以来、おれはずっとこいつを身につけていた。俺が四発撃たれたとき、左胸のポケットに入れていたこれが俺の心臓の代わりに弾を受けてくれて、俺は命拾いをしたんだ。あんたと違って、自分のことなんか完全にわかりはしないと知ったことで、俺は救われたんだ。自分のことを完璧に理解する必要なんかない」
烏森の顔を見つめていた石室はビルの群れの方に視線を戻した。
「ひしゃげてたんで、もうダメかと思ったんだがな。頼んでみるもんだな。どういう魔法を使ったのか知らんが‘課長’は、こいつを元通りに直してくれたようだ。だが、音の方はどうかな」
石室はブルース・ハープを口に当てて、Cのブルースを奏で始めた。
気に入った部屋が見つかったことを報告しようと石室を探していた菜那は、ネスト(菜那はビルの建物を、そう呼ぶことに勝手に決めていた。だって、カラスの巣だもんね)の屋上に出た。菜那の目に肩を並べている二つの背中が飛び込んできた。
菜那は二人に近づこうとはせず、ただその姿を見つめながらブルースの調べを聴いていた。
烏森が即興で奏でるメロディは、菜那に父の死を改めて思い出させ、心を悲しみで充たした。
だが、同時に喜びも感じさせた。
新しい家族ができたのだから。
菜那が見た敵は、父の命を奪った組織は、とてつもなく恐ろしく、悍ましい存在だった。
人間たちにはとても太刀打ちできない。人類の敗北は避けられない。そんな風に絶望したときもあった。
だが、烏森のハーモニカから流れ出るメロディの中に、菜那は希望の調べを聴き取り、自分に背中を向けてたたずむ二人の男たちの立ち姿に未来を見いだした。
菜那はいつまでもハーモニカの調べを聴き続けていたいと思った。
実は、烏森、石室の二人がそれぞれ初登場する2本の長編があります。この作品への反応によっては、それらもここで発表したいと思っています。