暗躍のシーフギルド
「いたーっ!」
少女の叫び声。
その次に起きたことへの理解は少しばかり遅れた。
まず人影が宙を飛んだ。スローモーションのようにゆっくりと見える。自分に起きたことを理解できずにぽかんとしたその顔が、孝介にはよく見てとれた。
一瞬遅れてがしゃあああんっ、とけたたましい音が鳴り響いた。
「は?」
出入り口にいたはずのあの警官が壁にはりついていた。間にテーブルの残骸を巻き込んで、完全に意識を失っているようだ。
「え?」
これは狼のもらした声だった。
その彼も、すぐそばについていたもう一人も、そのつぶやきの後には"何かにはね飛ばされて"壁に叩きつけられていたが。
言葉を失った孝介の前で、少女は突進の勢いを器用に殺して停止した。黒ずくめのその姿には見覚えがある。
かぶったフードをばっ、とはねのけて、彼女はこちらに指を突き付けた。肩までの赤茶色の髪がさらりと揺れた。
「見つけたっ! 君! わたしのお尻をつぶした人!」
「え?」
こちらに突き付けられた指の先で、他にどうすることもできず呆気にとられた。店中の視線が集まってくるのを感じる。
「わたしのお尻つぶした! その上わたしを裏切った!」
「ちょっと待て」
なぜか涙目の彼女に詰め寄られ後ずさる。
その時に彼女の頭に牛のような角があることに気づいた。
「それだけじゃない! わたしから大切なものを奪って消えた!」
「いやだから」
「わたしの一生もの! ひどい! 最低!」
「うっわさいてーい! 尻つぶしー!」
「何の話だ!」
客から上がり始めたブーイングに焦って怒鳴る。
「お前の尻がつぶれたのは俺のせいじゃないし、裏切る前に仲間じゃないし、お前のその、なんだ、そんなの奪ってない!」
「嘘! 嘘つき! 尻つぶし!」
「しっりつぶし! しっりつぶし!」
「だから尻つぶしはやめろ!」
今度は客たちに怒鳴る。
「メリーちゃん、これのことかい?」
振り向くとマスターが小石を手にして立っていた。
「あ、それ! それだよそれ! わたしの死ぬほど大切なもの!」
飛びついた彼女がテンションを上げる。酒場は反対にテンションを下げる。
「なんだよ痴話喧嘩じゃねえのかよ……」
「超冷めるわー」
勝手に冷めてろと歯ぎしりしながら孝介はメリーに向き直った。
「それお前のだったのか?」
「うん。あ、ううん。元はお屋敷の人の。今はわたしの」
「へえ、じゃあ値打ちもんなんだな。そうか。つまりそのせいで俺は盗っ人容疑をかけられたわけなんだな、流れからすると」
「ふーん。災難だったね。お大事に」
「ありがとうなこのクソ女が!」
メリーはあははと軽く笑った。
「クソ女じゃないよー、美少女怪盗メリーさんだよー」
人差し指を立てて首を傾げたその動きと同時、鋭い音が空気を裂いた。
はっと振り返ると床に倒れた警官の一人が呼び子を吹き鳴らしていた。
「あ、てめこのやろ」
客たちが寄ってたかって黙らせるが、出入り口の方からは何やら大勢が集まってくる気配がする。
「まずいな。君たちは隠し扉から逃げなさい」
マスターが酒場の奥を指さして告げる。
「分かった、ありがと!」
さっさと駆けていくメリーをぽけっと見送っているとふいに背中を押された。
「ほら君も」
「え、いや俺は――」
「君も今は立派に窃盗犯だよ。ここは素直に逃げておきなさい」
「……」
言い返したいがどう考えても正論だった。
孝介は諦めてメリーの背中を追った。
◆◇◆
「こっちこっち!」
店の裏から抜け出し、メリーの先導で走り続けていた。
路地が延々と続き、その複雑さには目が回りそうなほどだ。
「どこまで行くんだよ!」
「もうすこーし!」
かなり大雑把に答えて彼女はさらにスピードを上げる。かなりの暗さだというのにどこにもぶつかっていない。対して孝介の方はあちこちに肩やつま先を引っかけながら、ついていくのも本当にギリギリだった。
「くそ、なんでこんなことに……」
「あ、止まって」
「ぶッ!」
メリーの背中に激突する。
彼女は気にせずこちらの手を取って暗がりへと引っ張った。
「しーっ、だよ」
その囁きと同時、複数の足音がすぐそこの角を通り過ぎていった。
「そっちはどうだ!? いたか!?」
どうやら警察だ。こちらを探して走り回っているのだろう。
「どうするんだよ、下手に動き回っても意味ないぞ」
「うーん、そうだね」
「なんかあてはあるんだろうな」
「ある。一応。自信ないけど」
「それじゃ意味ねえだろ……」
足音は表の通りから少しずつこちらへと捜索の範囲を広げているようだった。これでは捕まるのも時間の問題だ。
「……よし。いいこと思いついたぞ」
「え、なになに?」
「まず敵を欺く。捕まったふりをしてブツは渡す。その後犯行はお前ひとりでやったと証言して俺の無実を証明する」
「それでそれで?」
「その後は……流れで考える。悪くないだろ?」
「そうかな」
「そうなんだ。信じろ」
「でも君お尻つぶしたし……」
「なかなか根に持つなお前」
通りの角に影が差した。警官の声と足音が近づいてくる。
もう迷っている暇はない。急いでメリーの背中を押して前に出ようとしたところで。
「……!?」
何者かが孝介の口をふさいで後ろへと引っ張った。
目の前が真っ暗になり前後不覚、何が起こったか全く分からない。
混乱して何もできないでいるうちに暗闇に放り出され、光がともる。蝋燭の火、ではなく人工的な白い光だ。
振り返ると逆光の中に何者かの影があった。
警戒しながら立ち上がる孝介の視線の先で、その誰かは手をひらひらさせた。
「どうも初めまして、お尻つぶしの坊や。コースケ君、っていうらしいわね。わたしのシーフギルドにようこそ。あなたを歓迎するわ」
そして少し笑ってから付け足す。
「でもわたしのお尻はつぶさないでね」
それに答える言葉は……
孝介の喉からは出てこなかった。




