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この盗っ人拳法を牛(美少女怪盗)に捧ぐ  作者: 左内
第二章 歌姫アイラ
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少女アイラと歌姫アイラ

「いたたたた……」


 メリーがうめき声を上げる。


「ねえコースケ、またわたしのお尻潰れてない?」

「またってなんだまたって。一度も潰れたことなんてねえだろ」


 言いながら孝介も自分の腰をさすっていた。追われ続けた夜が明けてもうしばらくが経っているが、強打した箇所はまだ痛みがひどかった。


「とりあえずこれを使ってみなさい」


 店の奥からタコマスターが冷やしたタオルを持ってきてくれる。それを痛む場所に当てながら孝介は頭を下げた。


「迷惑かけてすみません」

「いやいや迷惑なんてことは。ただ驚いたよ、店を閉めようとしたら君たちが降ってくるんだから」


 浮き蟲を撃破した後のことだ。落下の衝撃で動けずにいた孝介たちを助けてかくまってくれたのはマスターだった。


「まあ向かいさんは迷惑したかもしれないね、あの潰れ具合だと。一体何が落ちてきたんだか」


 口ぶりを聞くに通り向かいの建物は落ちてきた浮き蟲に潰されたようだ。蟲はすぐに去ったのか影も形もなかったとか。


「事情は……聞かない方がよさそうだね」


 隅で膝を抱えるアイラをちらりと見てマスターはそう言った。

 歌姫狂信者としては絶対に逃せないものすごい偶然なのだろうが、それでも彼の自制心は大したものだった。たとえ欲求を抑えこむエネルギーにその体表の色が目まぐるしく白黒していようともだ。


「昼の間はここは誰も来ない。警察も入れさせないから安心してほしい。ゆっくり休むといいよ」


 握手してもらいたいなあと呟きながら奥へと消えるマスターを横目に孝介はさて、と並べた椅子に横になった。


「俺は寝るわ。ちょっと疲れたし」

「わたしもー」


 メリーはテーブルの上に。


「あんたはいいのか?」


 アイラに声をかけると彼女は膝を抱えたまま黙って首を振った。


「……そうか」


 後は何も言わずに目を閉じた。

 眠りはすぐにやってきた。





◆◇◆





 目が覚めた時、酒場の中は薄暗かった。

 じんわりと腰の痛みが這い寄ってきて、昨夜の記憶を呼び覚ます。

 護送任務……いや、護衛任務。

 体を起こして周囲に目をやる。テーブル一つを全部使って丸まっているメリー、誰もいないカウンター。


「……」


 眠りに落ちる前と変わらず膝を抱えているアイラを見つけても、あまり驚かなかった。

 立ち上がってカウンターに行き、コップを探す。軽くこすってから水を汲んでアイラのそばの椅子に座った。


 コップを手に包んだまま口をつけるでもなくぼうっとする。何もない壁を眺めながら取り留めもなく流れていく考えに意識をひたした。


「ずいぶん身軽なんだな」


 だからその言葉が口からこぼれたのは、言おうと思ってのことではなかった。言ってからも何となく自分の言葉の気がしなかった。


「俺がじいちゃんに武術を教えてくれって頼んだ時、じいちゃんは笑って相手にしてくれなかった。俺は運動神経が悪かったから。どんくさくて。百メートル走るのに十八秒だ。信じられるか?」


 アイラは答えないが、それでも関心がこちらに向いているのは分かった。


「それでも頼み続けた。じいちゃんは全然本気にしてくれなかったけど、それでも俺は頼み続けた。泣いてみたり怒ってみたり、教えなきゃ死ぬぞと脅してみたり。でも駄目だった。本気じゃないのはバレてたからな。仕方ないからじいちゃんの稽古を覗いて見よう見まねでやってみた。もちろん全然だめだった」

「……いつから教えてくれるようなったの?」


 アイラがぽつりと言った。

 孝介は天井を仰いでうなった。いつだっただろう。はっきりとは思いだせない。しかしきっと、と思い当たる節はある。


「百メートルのタイムを一秒縮めた時じゃねえかな」


 誰に勝ったわけでもない。優れたタイムだったわけでもない。それでも祖父はそれをしっかり見て知っていて、そして認めてくれた。


「あんたにもなかったのか、そういうこと」

「え?」

「大したことじゃないのにうれしくてたまらなかったこと」


 孝介の視線の先で、アイラはこわばった体から少しだけ力を抜いた。


「初めて歌を褒めてもらった時」


 静寂の中に囁きが溶けて消えた。


「わたしはひどい恥ずかしがり屋だったから、その時まで人に歌を聴かせたことはなかったの。昼間の軽業の練習が終わってから、誰にも聞かれないところで一人で歌うのが好きだった。誰かに聞かれて馬鹿にされるのは怖かった。その人に聞かれたときも本当に死ぬかと思ったよ」

「死ななかったのか?」

「おかげさまでね」


 アイラはちらりと笑みをのぞかせた。


「……その人は、続けろって言った。あんまり怖かったから仕方なく歌ったんだ。歌い終わって、何言われるんだろうと思って。でもただ一言、また聴かせろって、それだけ」

「へえ」

「それからも時々その人に歌を聴かせた。その人だけに。いつの間にかわたしは誰かに歌を聴かせるのが怖くなくなってた。むしろ好きになってた。わたしが今ただのアイラじゃなくて歌姫アイラなのはその人がいたからなんだ」

「だからそいつに会いに行くのか?」


 途端にアイラは黙り込んだ。

 再び体をかたくして膝をきつく抱き寄せてから、彼女は震え声でつぶやいた。


「わたしはもう歌いたくない……歌えない、本当の歌は」

「……」

「リィリは大丈夫かな…………」


 彼女のかすかな嗚咽を聞きながら、孝介はコップに口を付けた。

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