浮き蟲
階段を駆け上がった先にも敵の影があった。
襲ってくるその身体を受け流し地面に叩きつけ、先へと走るアイラの背を追う。
もちろんアイラにも敵は飛びかかるのだが、彼女は器用にかいくぐって走り続ける。
「メリー、ついてきてるか!?」
「な、なんとか……!」
目まぐるしい状況の中でもメリーは的確な位置取りで追ってきていた。彼女の独特の勘はこんな時でも彼女自身を守っている。
公園を通り過ぎて街中に入った。辺りは静まり返って人の気配は全くない。街灯の明かりの向こうにアイラの背中。
そのさらに向こうに別の影もある。背は低いが筋肉質な体形。素早くこちらとの距離を詰めてくる。
この状況で現れるのはまず間違いなく敵だ。孝介は迎撃のために足を速めたが相手の足が速すぎた。このままでは先にアイラのところまで行かれてしまうだろう。
アイラもそれに気づいていたはずだった。だが彼女はさらに速度を上げた。
「ちょっと待っ――」
たんっ、と。アイラの体が宙に踊った。
思い切りの良い跳躍だった。そのまま道のわきにあった木箱に飛び乗りさらにそこから跳び上がる。
民家の屋根の縁につかまった彼女は軽やかに体を引き上げて姿を消した。
「すご……」
メリーは驚いていたがそんな悠長にしている余裕は全くない。
孝介は街灯の一つへと跳び上がり、足がかりになる窪みへとつま先を引っかけた。もう一段の跳躍で一気に屋根の上へと着地する。
「こっちもすごい……」
「馬鹿、早く来い!」
呆然と立ち止まったメリーに手を貸して引き上げる。重い。
「アイラちゃんは……?」
見回すともうずっと遠くに屋根を渡る背中が見える。
(どこへ向かってるんだ?)
目的地が定まっているのは間違いなさそうだが。
「お前、跳べる?」
家と家の境まで行って一応確認する。
「行ける! 頑張れば。多分……」
「……乗れ」
「わーい!」
しゃがみ込む背中に、メリーは喜々としておぶさってきた。柔らかい感触が背中に当たる。
「まったく……」
動揺をため息でごまかして孝介は跳躍した。
◆◇◆
走り続け跳び続けてどれくらいが経ったか。
さすがに息も苦しかったがおかげでようやくアイラに追いついた。
「おい!」
声をかけると彼女はちらりとこちらを向く。
「確認なんだが、目的地があって進んでるんだろうな!?」
彼女はしばらく何も答えなかったが、その瞳が曇るのはよく分かった。
「あるよ。一応……」
「どれぐらいでつくんだ!?」
「急げばすぐにつく」
「急がなければ?」
「永遠につかない」
「な……!」
思わずスピードを落として差をあけられるが、なんとか追いつき直して叫ぶ。
「それはどういう意味なんだよ!?」
「そのままの意味だよ。気持ちがなければそこに辿りつくことはできない」
「哲学してる暇なんてないんだぞ!」
「そんな大層なものじゃないの」
その視線が空を向いた。
「ただの、本当のことなんだ」
そして彼女は目を鋭く細めた。
風を切り裂く音がした。
「……!」
「コースケ!」
背中のメリーが空を指さしている。その先には輝く満月。それから昏く大きい影。
「何だありゃ……」
呆然とつぶやくその耳元を再び何かがかすめて飛び去る。
驚いて速度を落とすとその足元にも何かが当たって高い音を立てた。
舌打ちして斜に進路を変える。アイラも同じ方向に向きを変えていた。
「浮き蟲だ……」
背中でメリーがつぶやく。
「何だって!?」
「浮き蟲! リーダーに聞いたことがある……不思議な力で自分やいろんなものを浮かすんだって」
その声と同時――
孝介の足が地面との接点を失った。
「なっ……!?」
足を滑らせたのかと思った。だが下を見てそうではないと知った。
(浮いてる!?)
体が重さを失ってどんどん空へと持ち上げられていた。
慌ててアイラに目をやると彼女も同じように宙へと吸い上げられている。
浮き蟲……メリーの言葉を思い出す。不可思議な力で様々なものを空中に放り出す、ということか。
まずいな、と思った。足がかりもなく完全に無力化された。今もなお蟲の方に引き寄せられており、このままでは一網打尽にされて終わりだ。
(どうする……?)
浮き蟲の硬そうな甲殻と複眼を見ながら考えを巡らす。とてもではないが正攻法で何とかなる相手ではない。
「くそ……」
「盗っ人さん!」
アイラがこちらに手を振っていた。
「お願い、あいつのそばまで行かせて!」
何か手があるのか、とは聞かなかった。
孝介は即座に空中で身体を回転させて、アイラに向けて蹴りを放った。足がかりのない空中では威力はかなり限られたが、それでも無理やり最大限をひねり出した。
アイラはタイミングを合わせてこちらの足の甲を踏みつける。それを足場に浮き蟲へと跳躍する。
到達は一瞬だった。蟲に一息にとりついた彼女は、即座にその頭部へと駆け上がる。
次の瞬間、夜の空を鋭い音の針が貫いた。
アイラの声。そう気づいた時には落下が始まっていた。
巨大な蟲と運命を共にして――孝介たちは悲鳴を上げながら地へと落ちていった。




