依頼の変更
歌姫の登場は予定時間より大幅に遅れた。
もう体感で三十分ほどが過ぎ、ステージの上の準備は整っているように見えるのになかなかショーは始まらない。
最初は静かに待っていた観客たちも次第におかしいと思い始めたのかざわつき始めていた。
「おかしいね。どうしたんだろ」
「さあ……?」
孝介たちも首をかしげる。
そうこうしているうちに周りの空気が少しずつ変化の兆しを見せた。困惑と訝しさから、不審といらだちの響きへ。
周囲の囁きの質が変わっていく。ざわめきに棘が混じり始める。
それが野次や罵声に変わるのも時間の問題だろう。そう思った時だった。
「あっ……」
それは誰のつぶやきだったのだろう。会場の全員が一斉に言葉を失ったためによく聞こえた。
「……」
彼女はステージの端の暗がりにいた。いつの間に現れたのか。誰もが疑問に思ったはずだったが、その少女が明かりの下に出てくるとそんな些細なことは吹き飛んだ。
薄く閉じてやや伏し目がちな瞳。すっと通った鼻筋。顔はまだ子供らしい丸みをとどめているが、ゆるく引き結んだ唇のせいかそれほど幼い印象はない。薄青いドレスが照明の光を反射して控えめに輝いた。
「歌姫……」
「歌姫アイラだ……」
さきほどとはうって変わって驚きと、ある種の畏れのようなざわめきが会場を包む。
アイラは舞台の中央まで歩み出て、空を仰いだ。遠く遠く、果てのない向こうを。
開始の遅れに対する謝罪はない。ただただ沈黙。
そして誰もが不安になったその瞬間を狙ったかのように、息を吸うわずかな間も置かずに歌を紡いだ。
はじめは声がしていることに気づかなかった。それほどかすかで蜘蛛の糸のように細い声だった。だが蜘蛛の糸のように強い声だった。
高い音だ。聞いているだけでこちらの喉がいたくなりそうな。まるで天使たちが囁き合っているかのように聞こえ、ゆるやかで、しかし次の瞬間鋭い打撃のような歌声が客たちの耳を貫いた。
思わず息を飲む。別にそこまで大きな声ではない。それにもかかわらずここにいる全員が圧倒されただろう。鼓膜にではない、意識に刺さる声だったのだ。
突然嵐のように早くなった歌は、勢いを緩めることなくどんどん速さと強烈さを増していった。
何かの怒りのような。誰かの慟哭のような。
目が回る。今どこにいるのか分からない。脳がかき混ぜられているかのようだ。だが気分は悪くない。
いつの間にか低い音域のゆったりとしたテンポになっていたが、孝介はしばらくめまいが取れずにいた。
一つ目の歌が終わって。
誰一人拍手のできた客はいなかった。
次の歌が始まった。
◆◇◆
「なんか俺、今、ふわふわしてる」
実際足元がおぼつかないまま歩きながら孝介はぼんやりと言った。
「もうなんつーか……なんつーかすげかった……」
周りを見回すと他の客たちもおおよそ同じような顔をしているのが見て取れた。
暴力的なまでに現実から引き剥がされて、いまだ完全には帰ってきていない顔だ。
なるほど熱心な狂信者が各地で増えているのもよく分かる。あの歌姫とその歌にはそれだけの威力がある。
「わたしはいまいちだったかなあ……」
だがメリーは隣で首をかしげていた。
「思ってたのとちょっと違ったかな」
「お前にセンスがないんじゃねえの?」
「そうかもしれないけど……」
少しムッとしながらのこちらの言葉に、しかしメリーはあくまで納得いかない様子だった。
「あれは歌いたくて歌ってるのかなあ?」
「は?」
「なんかちぐはぐな気がするっていうか。そりゃものすごく上手なんだけど、でもどこかがズレてる気がしてさ」
「……まあそう思いたいなら思っとけよ」
「なんで怒るのー!」
「怒ってねえ」
鼻を鳴らしてから話題を切り替える。
「で、仕事はどうすんだ? もう時間切れだろうけど」
「行くよ。お仕事だもん。行かなきゃ」
生真面目な顔でメリーはうなずく。
とはいえすっかり歌を聴くのに熱中していたので物品受け渡しの依頼人が指定した夕刻は完全に過ぎていた。
今から行ったところで誰もいないだろうなと孝介は思っていた。
だが公園脇の道から降りる崖下の暗がりには、確かに何者かの人影があった。
深くフードを被った二人。どちらも背が低く細身の、おそらくは女。
そのうちの一人がこちらを見て怒声を上げた。
「遅い!」
「はい、ごめんなさい!」
メリーが素直にすぱっと頭を下げる。
だがその緊張感のなさが逆に気に障ったのか、その女はさらに怒りの色を濃くした。
「ごめんなさいじゃありません! わたしは大トビの精鋭が来ると聞いていたのですよ。それなのに契約の時間に遅れてそんな平気な顔をして!」
「平気じゃないですよ、反省してます」
「そうは見えませんが!?」
「歌姫の歌を聴けたので割と幸せな感じでー」
「殴りますよ!? 殴りますからね!?」
「リィリ」
もう一人の女が怒っているリィリ(?)をなだめる。
「今は怒っている場合じゃないよ。一刻を争うんだから」
「ですがこいつらのせいで危うく……」
「だからこれ以上危うくできない。違う?」
「っ……」
穏やかな正論にリィリも言い返せなくなったようだ。
フードの奥からこちらをにらみ、うなるようにこう告げた。
「この子を頼みます」
「え?」
訳が分からず孝介はうめいた。
「だからこの子をお願いしますと言ってるんです」
リィリがさらにイライラと言うが、意味が分からないのは変わっていない。
「ちょっと待った。依頼内容を確認したいんだけど。物品を指定の場所まで運ぶ、護送依頼で合ってたよな?」
「は?」
今度はリィリがうめいた。
「わたしたちの依頼はこの子を指定の場所まで無事に連れていく、つまり護衛依頼ですよ?」
「……」
「……」
沈黙が流れた。
「あのクソギルド長めが……」
いち早く察した孝介は額を押さえた。
「どういうことなのですか?」
「いや、何でもない。降りさせてくれ」
「え?」
「俺たちはこの仕事を降りる」
「は!?」
「不満なのは分かる。でも無理だ。他の奴に頼め。盗っ人の仕事じゃないだろこれは」
「あなたは……!」
掴みかかってくる手を避けて逆につかみ返す。割と筋肉質な腕だった。鍛えているのか。
「本当申し訳ない。無理。それじゃ」
適当に押し飛ばして背を向ける。そうそうにとんずらを決め込もうとした。
が。
「あなたの名前は?」
「……え?」
メリーがもう一人の女に言った。
「あなたすごくいい声してた。名前は?」
「おい、メリー」
コースケの呼び声にメリーは首を振った。
邪魔するなということらしい。
そんなこちらとメリーを見比べて、女は少し迷った後フードを下ろした。
「……!」
その下から現れたのは女というよりそう年も行かない少女の顔だった。端正な容貌で、先ほどまで客席からずっと見ていた顔だった。
「歌姫、アイラ……」
希代の歌うたいがそこにいた。




