まず発端
祖父が遺した道場は家から歩いて五分ほどの場所にある。住宅街の一角。とある公園のすぐ前だ。
孝介は学校が終わるとすぐにここに入り浸る。そのためだけに進学先を最寄りの高校に決めたくらいで、祖父が亡くなって指南を受けられなくなった今もその習慣は変わっていない。
「ふうぅぅっ……」
孝介は、ゆっくり突き出した拳に気を通した。肌がぴりぴりとざわついて、地から足を伝わる力が拳面にじわりと到達する。
「……」
そしてそのまま静止。長く深く、つぶさに感覚を研ぎ澄ます。
道場の空気のにおいや宙に舞う埃の動き一つ一つまで察知する。
沈黙を十分に味わって、孝介はまたゆっくりと、今度は逆の拳を突きこむ。
また静止。
道場での鍛錬はおおむねこういった感じだった。一つの型をゆっくりじっくり練り込んでいく。毎日毎日繰り返し、満足したら次の型に進む。急ぎはしない。
昔知り合いに退屈な稽古だなと言われた。分からないでもない。だが退屈はしていない。
祖父が生きていた頃はまたさらに地味だった。ただ立っている、それだけ。
「不動の中に動を持て」
謎の言葉だ。だが、そんな稽古が孝介は、自分でも意外なほど好きだった。今の自分だけの稽古よりもっとずっと楽しかった。
窓から差しこむ夕日に気づいて、孝介は型稽古を終えた。ため息と共に帰り支度を済ませて外に出る。
施錠をしてから道場を見上げる。本当は見上げるほどの高さも広さもないが。家から離れてまで確保したこの道場には、もともと孝介以外に生徒もいなかった。
「……」
だから取り壊せと言う者もいる。孝介の父親がその筆頭だ。もともと祖父と反りが合わなかった父は、祖父の遺したこの建物にも攻撃的だった。
「何も知らないくせによ……」
舌打ちして歩き出した。
むしゃくしゃしたせいか空腹を感じていた。途中にあるコンビニで何か買っていこうと決めた。ポテチだ。ポテチがいい。
空を見上げると気の早い星がもう輝き始めている。夜の帳が降りていくのに合わせてその光も強くなっている。
強く、強く、強く……
「……え?」
強く、強く強く強く!
「ちょ、まっ――!」
何もできないままに、孝介は強い光輝に飲みこまれた。
◆◇◆
それからしばらく経ってから。
夜の道に、疲れた足を引きずって歩き続ける孝介の姿があった。
ただし先ほどとは何かが違った。
「どこだよここ……」
暗闇の底の見知らぬ街、見知らぬ風景。何やら風に乗って塩辛い匂いが漂ってくる。街灯に照らされた建物のシルエットはどこか妙な趣がある。
「俺は……死んだのか? なら、ここはあの世なのか?」
あの白い光が消えたらもうすでにここだった。行けども行けども知っている道に出られない。『あれ』がもし隕石だったなら、確かにここは死後の世界なのかもしれない。
とはいえ。
「……あの世でも心臓って動いてるんだな」
なんともしっくりこない心地で孝介はうめいた。そんなことってあるのだろうか。にわかには実感がわいてこないが。
まあ今のところは死んだということはなさそうだなととりあえずは思うことにした。
(しっかしどうしたもんか)
足を止める。
夜道。知らない街。なぜか持っていたはずの物は一つ残らず手元になかった。ポケットにわずかに小銭があるのみだ。家に連絡を取るのも電車やバスを利用するのも難しい。高校生にもなってまさか迷子体験をさせられる羽目になるとは思いもしなかった。
途方に暮れて、とりあえずは公衆電話を探してみようと再び歩き出した。
その時だった。
「……?」
妙なものが見えた気がして孝介は視線を上げた。
通りの左側には高い石塀がある。それはずっと続いていて、広い区画をすっぽり囲いこんでいるようだ。内側に何かあるようだが暗くていまいちよく分からない。だがまあ今はそれは関係ない。
問題は塀の方だ。上端の一か所からロープが長く垂れさがっていて、途中に何かがしがみついているのが見える。
「なんだ?」
近づいていくと全身黒装束で固めた……どうやら人影のようだった。上るでもなく下りるでもなく、ただひたすらその位置でプルプルしている。動けないらしい。
「ふんっ……ぬうぅ……!」
「……」
孝介はしばらくの間それを見上げていたが、いつまでたっても変化がないようなので飽きて声をかけた。
「なあ」
悲鳴とともに少女は地面に激突した。
とはいえ二メートルもない高さからだ。大したダメージはなかっただろう。
「いたたた……」
尻を押さえてうめく彼女を、孝介は胡散臭いものを見る目で見下ろした。
「痛い……お尻の骨がつぶれた。もう無理動けない」
涙目で何か言っている。
「誰かのせいで大怪我。重体。誰かのせいで」
「本当、誰だろうな」
「起こして」
手を貸してやると彼女は案外けろっとした様子で立ち上がった。あらためて見ると、忍者のような印象のいかにも怪しいいで立ちだ。
「こんばんは。あなたは誰?」
「……なんで?」
「わたしに大怪我を負わせた人の名前は覚えとこうと思って」
「訴える気か?」
「いやそんな、ないない。怪盗は人を訴えない」
「怪盗……?」
なにか妙な言葉を耳にした気がした。
「そうだよ、わたしは凄腕美少女怪盗のメリー。今日はこのお屋敷でお仕事してきたの」
彼女は誇らしげにゆさりと大きな胸を張る。が、こちらとしては曖昧に愛想笑いを浮かべることしかできない。
「へえ。それは、なんというか、すごいな……」
「でしょ! 今日はなんと久々に上手くいったんだ!」
「久々に?」
「うんっ、四か月ぶり! わたしってばやっぱり凄腕!」
「凄腕なのに四ヶ月も?」
「凄腕だから!」
なぜか噛み合わない。
「まあそういうわけでわたしはそろそろ行かなくちゃ。お屋敷の人もすごく怒ってるだろうし。誰か来たらごまかしておいてね。お願いね」
「ああうん」
メリーは踵を返して走り出し――急にUターンして戻ってきた。
「君の名前は?」
「だから何で」
「やっぱり訴えようと思って」
「諦めろ。凄腕怪盗なら」
「えー……」
メリーの背中がすごすごと夜道に消えた。
それからしばらくして、後ろから足音が聞こえてきた。
「くそ、どっちに行った!?」
見ると塀伝いに黒服の男二人が走ってくるところだった。ぼうっとしているこちらの前で止まり、じろじろと険しい視線を向けてくる。
「お前は?」
「あ、いえ、俺はただ夜の散歩をしていただけで」
「ふむ……?」
「そいつは違う、時間の無駄だ」
周囲に隙なく視線を飛ばしながらもう一人がつぶやいた。
「それよりここに誰かいなかったか? 見てないなら別に構わないが」
「それならあっちに怪しい奴が走っていきました」
メリーが消えた方向をきっちり指さしてやると、彼らはうなずき合ってそちらへと駆けていった。
残されたコウスケは感慨深くうめいた。
「いやあ世の中にはいろんな奴がいるもんだな……」
凄腕?美少女怪盗とか言ったか。あったかくなってきたしそういう時期ということかもしれない。手遅れになる前にフェードアウトしてもらえて本当によかった。
あとそれから、
「……最近の被り物ってよくできてるんだな」
先ほどの男二人の顔を思い出してつぶやく。精巧な犬の頭。感動を覚えるほどのリアルさだった。なんでそんなものを被る必要があるのかは全く分からないが。
「まあいいや、電話探すか」
歩き出す視界の片隅で何かが光った。
「……?」
孝介はなにげなくそれを拾い上げた。




