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長いような短いような、不思議な日々が過ぎて行きました。
あの朝以来、ゾンマーは塔の横へ行って歌うようになりました。歌を書き溜めていた紙がなくなってしまった、折角だからウインテルのそばで作るのだ、と言うのです。
オートムヌは城下へ降りて、まだウインテルの歌を作ろうとしているようでしたが、なかなか思うようには進まないようです。
王様もお城の本を読むのを止めて城下へと降りていました。本の力ではウインテルの心を溶かすことは出来ないと分かってしまったのです。
王様はきっかけを待つことにしました。ただ今はそれが何なのかは分かりません。ゾンマーの歌かも知れません。オートムヌが作っている歌かも知れませんし、レンテがお城へ無事に戻って来ることがきっかけになるかもしれません。
王様に出来ることは待てる時間をなるべく長くすることでした。王様は新たにお触れを出し、まず山の木を伐る者を集めました。薪が尽きて暖を取れなくなったなら、食べ物どころではないからです。山へ行く間に雪が積もった時のために、城下街の表門には長い長いロープを結んで、それをたどって町へ戻れるようにしておきました。
それから王城の食料庫を開けて城下の人に配る算段をしました。どれくらい我慢して貰えるか、自分や女王がどれだけ我慢できるか、色々と考えながら何度も何度も計算し直しました。
牛小屋へ行って飼い葉が残り少なくなっている事を知ると、王城の馬小屋へと向かい、飼い葉を牛の方へ譲る話をしたのです。また、いよいよとなれば、牛よりも乳を出さない馬の方を減らすことになるでしょう。王さまはどの馬を殺すか、順番を決める事にしました。そしてやはり、自分の愛馬を最初に殺す様にと言ったのです。さらに殺した後はいつものような弔い方はせず食料とせよ、と申し付けたのです。馬小屋の男は涙を浮かべましたが、王様の目を見て、ただ一言、はい、と答えたのでした。
新たな薪を作り、食料の割り当てを細かく計算した結果、あと半月ほどは何とか飢えも凍えもせずに済みそうだと分かりました。ただしこれは城下と近辺の家々だけの話で、中央から離れた地方ではどうかわかりません。事情を伝えたくても、その方法が無いのです。地方を預かる長たちが何かしらの策をとってくれることを祈るしかありません。
「みんなよくやってくれた。後は私と女王を信じてもう少しだけ待っていて欲しい」
王さまは、薪を作り、城下の家々を回ってくれた人たちに礼を言って、お城の館へと戻りました。
しかし館へ戻った王様の表情は酷く暗いものでした。
城下の人たちは確かに半月はもつだろう。
しかし塔にいるウインテルはどうか。
塔の薪も食べ物も十分にあるはずだが、ただしそれは、生きようとするならば、だ。
生み出してしまった嵐の源を、ウインテルは自分ごと消してしまおうとしている。
いつまで持ちこたえられるだろうか。
たとえ長く持ちこたえたとしても、ケントルムの民は次第にウインテルを憎むようになるだろう。
食べ物はつき、家畜は衰え、やがては彼女を氷の女王、死の女王と罵るかもしれない。
それはあんまりではないか。
レンテが無事に帰って来たとしても、入れ替わりでウインテルが外に出れば、冬の女王の胸の内から飛び出した耐えようのない嵐が王都の民を襲うという。
とちらかしか救えないのか。
とちらかを救うか、どちらとも失うしかないのか。
王さまは街も城も捨ててしまう事も考えました。しかしこの深い雪の中、移動するだけで大変な事です。薪と食べ物を持って、子供や年寄りを連れて、どこまで逃げればよいかもわからず、落ち着ける場所も無く街を後にするなど、到底無理な話です。
王さまの頭の中では、絡まって取れなくなった二つの輪が有りました。片方をたどっていてもいつの間にかもう片方の輪に移っていて、どちらがどんな形をしているのか分からないのです。城下へ降りて忙しくしていたのは、実はこの堂々巡りから逃れるためでもありました。しかし今や考える時間はたっぷりとあるのです。
恐ろしい事に、この絡まった輪は別の形へと変わろうとしていました。これまでのような、あやふやでとらえ所のない不愉快な輪が、片方だけ少しずつ少しずつやせ細り、千切れてしまうのです。城下へ降りて気がかりな事を一つ一つ片付けた結果、物事を考えやすくなったせいでしょう。これは目の前の嫌な事から逃げた事の罰でもあり、王様だけが背負わなくてはならない責任でもありました。
最も起こってはならない事は、塔の中でウインテルの嵐が抑えきれなくなってしまう事なのです。塔で歌う声が国中へと届くように、嵐もまた国中を荒らし尽くす事でしょう。いくらなんでもそんな事を許す訳にはいきません。
王さまは館の窓からウインテルのいる塔を見ました。今や塔全体が分厚い氷におおわれています。
しかし、いよいよとなれば。ウインテルの力が弱まった時、冬の女王は内なる嵐を抑える事と氷の鎧を維持する事と、果たしてどちらを優先するでしょう。
いよいよとなれば――
それが堂々巡りの行き先。王さまが目を背けていた終着点でした。
冬の女王が堪えきれなくなる直前、もろくなった氷を破り声を出す間も与えずに、嵐を放つ前に、事を済まさねばなりません。この地を総べる者として、ケントルムの王として、どうあってもやり遂げなくてはならない事なのです。
ウインテルが嵐を抑えきれなくなるその時が、いつ来るかは誰にも分かりません。明日かも知れないし、今日かも知れません。
王様はそれをやり遂げる自分の姿が全く想像できませんでした。
そして何より王様の胸を締め付けるのは、王様にそうさせるために、ウインテルがわざと氷を薄くするのではないか、彼女はきっとそうするだろうという事です。
王さまは両手で頭を抱えてうなだれました。弱弱しく呻りながらうなだれ、うなだれ、うなだれ……。やがて膝をつき、へたり込み、着いた両手の間には、ぽたぽたと大きな涙が音を立てて落ち続けました。
何も手に付かないまま長い時間が過ぎていました。陽はすでに落ち、今日もまた星の見えない、ただただ暗いだけの夜です。
王さまはようやく身を起こし、ウインテルのいる塔の方を見ました。涙を流したせいなのか、頭がぼうっとするような、あるいは痺れているような感じです。随分と昔、幼かった頃はよく大泣きして、その後こんなふわふわした気分になったな、と王様は少し懐かしく思いました。嵐が去った次の日のような、そこら中が散らかってはいるけど、空は晴れ渡り、妙に清々しいような気分。
そうして塔を見ているうちに、ウインテルの歌声が聞こえ始めました。王さまは暖炉の前の椅子に腰かけ、その歌を聞くともなく聞きながら、目を閉じてウインテルの姿を思いうかべようとしました。
さあ。
今日はゆっくり休みましょう。
ゆっくり休んでいいのです。
昨日は夢を見ましたか。
今から続きをみましょうか。
夢を繋げていくうちに
大きな夢になるでしょう。
春になったらやりたい事を
思いうかべて眠りましょう。
おやすみみんな、また明日。
今日はゆっくり眠りましょう。
昨日と同じ歌なのに、慰められるような気分になりました。
――おやすみみんな、また明日
明日もまだウインテルは生きていてくれるだろう。
おやすみ、また明日。
また明日。
声に出さずに繰り返すうちに、王様は眠りについていました。
一人、また一人と、女王レンテの捜索から帰還した兵士が登城する様になりました。彼らは一様に、何処方角を担当し、どの日どの時間に何処を通ったか、どこまで見通せたか、何を目印にしたか等々、分かりやすく話し、そして最後に、女王を見つける事が出来ませんでした、と苦しそうに吐き出すのです。王さまは兵士の手を握り、
「よく無事で帰って来てくれた。今はゆっくり休んで欲しい」
と言って労いました。王さまの話が終わると、ゾンマーとオートムヌはお酒の入った紅茶を淹れて彼らに振る舞い、私達にも聞かせてくださいと言いました。二人はそういうふうにして落ち込む彼らの気持ちを和らげようとしたのです。
昼は帰還した兵士の話を聞いては彼らを宥め、そして夜は三人で暖炉の前の長椅子に座ってウインテルの歌を聞く。そんな日が何日か続きました。
そして――
ケントルムが大きく変わってしまう時が来たのです。
その日は多くの兵士が登城してきました。彼らの話を聞きながら、王さまは嫌な予感がしていました。何か一山越えたような、一区切りついたような、物事が次に進むような気がしたのです。
落ち着かないまま夜を迎え、ウインテルの歌が始まりました。
その夜、三人はウインテルの歌を最後まで聞く事は出来ませんでした。冬の女王は途中で歌うのをやめてしまったのです。そして待てども待てども続きは聞こえてこないのです。
オートムヌは両手に顔をうずめて泣き始めました。
ゾンマーは表情を変えないまま、揺れる暖炉の炎をじっと見つめています。
「氷がもろくなるのはいつになるだろうか」
王さまがぼそりと言いった一言に、ゾンマーは
「夜が明けて、昼までの間でしょう」
と答えました。続けて
「どうか私達もお供させてください」
と、王様の手を握り、黒曜の瞳でじっと王さまをみつめました。幾人もの人たちを、何度となく勇気づけて来たゾンマーのまなざしも、この時ばかりは王さまを奮い立たせる事は出来ませんでしたが、王さまはたった一言
「ありがとう」
と言って、二人を連れていくと約束したのでした。
空が白み始めました。
ゾンマーはずっと王様の手を握ったままです。オートムヌは心配そうに窓を見ています。いく通りもの空を、祈るように見ていたオートムヌは、観念したように「朝だわ」と呟きました。三人は一睡もしないまま朝を迎えたのです。
東の空に雲間が出来て、今朝は久しぶりにお日様が王城を照らしています。お城の白壁はいよいよ美しく、氷の塔は微かに水色の光を放っています。
この日が来ることはきっと昔から決まっていたのでしょう。
ただその朝が、こんな美しいものである必要があるのでしょうか。
王さまの頭の中では、倒れていくウインテルの姿が幾度となく描かれていました。せめてウインテルが苦しまぬように、と考えたのですが、上手く行くはずも無く、何通りもの方法で何度となくウインテルと王様自身を苦しめただけでした。そうして朝が来たばかりなのに王さまは疲れ切っていたのです。
王さまはやっとの事で立ち上がり、死体の様に重たい体を引きずりながら部屋へ戻ろうとしました。ウインテルの柔らかな肌を切り裂くのに道具を選ぶ必要はないでしょう。しかしお城に伝わる宝剣こそがふさわしいと考えたのです。もっと言うならば、それらしい道具や名前の力を借りようとしたのです。
しかし。王様が階段にたどり着く前に、館に飛び込んでくる者が有りました。それはレンテ捜索に出した最後の一人、シレクスと言う名の兵士でした。
シレクスはぜいぜいと苦しそうに息をしていましたが、王さまの姿を見るなり、
「王さま! レンテ様がトロルに……!」
と叫びました。
背後で二人の女王が悲鳴を上げました。王さまは咄嗟に自分の胸元を掴み、捩じり上げて堪えましたが、それが精一杯の事でした。疲れ切った王様にはもう何も出来ません。今の自分をさらに叩きのめすような事がまだあるとは、と驚き、それが治まると諦めの混じった冷たい重りのようなものがべたべたと体にまとわりついて、それを取り払う気にもなれません。
王さまが振り返ると、泣き続けるオートムヌを胸に抱いたゾンマーと目が合いました。その瞳にはいつものような力は無く、涙を隠そうともしていません。そして、分かりません、私にも分かりません、と訴えるのです。
ゾンマーがずっと握っていた右手だけが、じんじんと痺れるように熱を持っています。しかし夏の女王から受けたこの力をどう使えば良いのでしょうか。
春の女王なしで春を迎えられるのでしょうか。
美しき冬の女王に手をかける理由はまだあるのでしょうか。
いっその事何もかも止めてしまおうか。そんな王様らしからぬ事がアルス王の頭をよぎりました。
我慢するのをやめてしまえば。ウインテルを連れ出してしまえばいい。王城も城下も、何もかも凍るなら凍ってしまえ。最後の少しの時間だけ、みんなで抱き合えるならそれも悪くない。
今のアルス王にはそれがとても素晴らしい事のように思えたのです。最後の瞬間のみんなの笑顔を思いうかべると、気持ちが楽になったのです。身動き一つせぬまま、ずっとそればかり考えたくなるのです。
それを邪魔する者がいました。
「失礼! どうかこちらへ!」
やっと息の整ったシレクスが、王様の手を取って強引に館の外へと連れ出そうとしているのです。
トロルは時折人里にやって来て家畜を食べる危険な怪物です。レンテの亡きがらはさぞかし酷いものでしょう。
見たくない。王さまはその一心で何とか抵抗しようとしましたが、鍛え上げられた兵士はぐいぐいと王様を引っ張って行きます。ぐいぐいと引っ張って館を出て中庭を横切り、階段を上って防壁の上へ行こうとするのです。
ふらふらと歩きながら、どうしてこちらへ連れて行くのだろうとアルス王は不思議に思いました。亡きがらがあるのは彼が来た城下のほうではないのか、と。
「待て。一体何処へ行こうというのだ」
「私の手に負えるものではありません。王さま、どうか。女王様もお早く!」
城壁の上に続く階段を上りながら、王様は何かの気配を感じました。
向こうにきっと何か大きなものがいます。
そうして階段を上りきって塔に繋がる城壁の上から顔を出すと、壁をよじ登る毛むくじゃらのものが目に入りました。
「トロル!」
王さまはさすがにぞっとしましたが、それもほんの一瞬の事。すぐトロルの頭に目を奪われました。
毛皮を着た春の女王が乗っているのです。
そしてこちらに手を振っているのです。
――レンテ様がトロルに……!
……乗っているのです、なら、何故そう言わないのか!
王さまは今にも怒鳴りそうでしたが、レンテが無事だった嬉しさと、トロルのおぞましさがごちゃ混ぜになって、言葉になりませんでした。
睨みつけたシレクスは今にも泣きそうな顔をしています。そうです、彼にだってこの状況がよく分からないのです。王さまに何とかして欲しいのです。
「シレクス、落ち着いて聞いてくれ。一体何があったのだ」
「分かりません! 私は……私の班は南へ向かいました。そして二手に分かれ、また二手に分かれてを繰り返して、一人ずつでレンテ様を探していたのです。私はそこで大きなトロルの足跡を見つけました。今この時期に出歩くのは珍しいので、気になってその足跡を付けていて、それでトロルに乗ったレンテ様を見つけたのです」
「そうか。よくやってくれた。それからはどうしたのだ」
王さまは辛抱強く聞き続けました。
「ずっと曇りでしたから、お日様の位置がつかめず迷子になられていたようなのです。レンテ様はどうしてもトロルに乗ったまま城に帰るとおっしゃるので、私は城までの道を……王さま! 王さま後ろを!」
塔を挟んで向こう側の城壁の上に、トロルが顔を出していました。そしてさらに腕を伸ばし、肩を出し、城壁の上に乗りかかって胸から上が城壁の上に出ています。
守りの固いこの城も、トロルを使えば一気にここまで来ることが出来るのか、と王様は驚きましたが、今はそんな事を考えている時ではありません。
一体レンテは何をする気なのか、何故トロルを連れて来たのか、とそこまで考えて
「塔から離れろ!」
王さまは叫びながら女王二人をひっぱり、塔の横から飛び退きました。
まさにその直後、レンテの足の下のトロルが、牛のような鳴き声を上げ、糸杉の大木のような腕をぶん、と振って塔の入口の扉を殴りつけたのです。
お皿を割る音と、古い木戸が軋む音と、頭をどこかにぶつけた様な音が同時に響き、トロルはこぶしを痛めたのか、大きな悲鳴を上げました。しかしあの壁のように頑丈な氷と扉が吹き飛んでいました。
「よし! あなたはもう帰りなさい。手の養生をなさい。寄り道はしないように!」
と、レンテは随分と身勝手な事を言っています。
城壁の上の四人は、ぽんと飛び降りたレンテと、泣く泣く降りていくトロルとを交互に見ていましたが、レンテが塔の入口へと走るを見て慌てて階段を駆け下り始めました。
「レンテ! あなた何処へ行っていたの! みんなどれだけ心配したか」
ゾンマーが叫びますが、レンテは悪びれもせず、懐から紙束を取り出して
「ゾンマーさま、ごめんなさい! これ借りてました!」
と叫び返して、それを置いて塔へと飛び込んで行ったのです。
ようやく階段を降り切ったゾンマーの目の前で、風が紙束を吹き飛ばしました。何とか捉えた一枚を見て
「これ私の書いた歌じゃないの! とうして!」
と、夏の女王は叫びました。しかしもうそこにレンテはいません。ゾンマーは飛び交う歌をちらりと見て、自分も塔へと入って行きます。
王さまはやっと合点がいきました。レンテはゾンマーの歌の力を借りてトロルを操っていたのです。そして何はともあれ入口を開けてしまった。種が割れて芽吹く力を与える女王。なんとしたたかなことでしょうか。
舞っていく紙の行方を見ていたオートムヌが王様を呼びました。あれを、と指差す先、塔の真上を中心に真っ黒な雲が渦巻き始めています。
秋の女王は一瞬身を縮め、そして塔に入って行きました。
王さまは塔の入口へと視線を戻しました。半月前のあの夜、塔の中は自分たちを寄せ付けまいとしたのか、恐ろしい吹雪が吹き荒れていたのに、入口が開け放たれた今、その吹雪を感じられません。
残された時間は少ないようです。
王さまはシレクスを呼び
「借りるぞ」
と言って彼の剣を取り、オートムヌを追いかけて塔へと向かいました。
アルス王の右手はいまだ熱を持ち、とくとくと脈を打っていました。