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一方アルス王はこのケントルムで誰よりも早く異変に気付いていました。
王さまが異変に気付いたのはちょうど一月前のこと。
季節の終わる半月前から女王は終わり支度を始めます。次の季節へと上手く移るように、歌の歌詞を変えたり、ちょっとずつ調子を変えたりしてゆくのです。
毎年冬から春へ移る日から半月前の夜、王様は紅茶を飲みながらウインテルの歌を待っていました。王さまは歌に限らず、人の工夫が形になった物が大好きです。今日からウインテルが考えた新しい歌詞がはいるはずだと、少なからず期待して、窓のそばの椅子に座って待っていたのです。
ところがその夜もいつもと同じ歌でした。王さまは少し拍子抜けしましたが、きっと私には分からない、女王だけの都合があるのだろう、そう考えてまた部屋へ戻りました。
ところが次の夜になっても、次の次の夜も同じ歌が続き、しかもウインテルの歌声が次第に静かで気怠いものへ変わっていったのです。
王さまには季節を操る力はありません。ですから、女王様の仕事に口出しはすまいと決めていました。しかし今の声色のままウインテルが歌い続けたなら、ケントルムノ民は生きる気力も働く意欲も春を待ち遠しく思う心も失って、醒めない昼寝をしたまま息をするのもやめてしまうのではないか。
女王の歌声は優しく美しく気怠く、聞かずにはいられない怪しげな声に変わっていました。
半月が過ぎた頃、アルス王は意を決して冬の女王の住まう塔へと向かう事にしました。居室を出て階段を降りると、夏の女王ゾンマーと秋の女王オートムヌの二人が何か話しています。二人とも王様と同じで、ウインテルの事に気付いて、じっとしていられなくなったのです。三人は主館を出て中庭を横切り、ウインテルがいる塔までたどり着いて、愕然としました。塔の入口は氷で閉ざされていたのです。
用聞きの小窓が辛うじて開けられるのに気付いて、王様が中を覗くと、塔の中はまるで海の上の嵐のように、恐ろしい猛吹雪が吹いていました。王さまは思わず飛び退いて、
「ウインテル! 無事か!」
と叫びました。叫んでから、ずっと彼女の歌声が聞こえているのを思い出しました。歌声が聞こえるのだから、間違いなく女王ウインテルは生きています。しかし、この人の心を惑わせる歌声はどうでしょう。生きているからといって無事だとは限りません。
「ウインテルよ! 返事をしてくれ!」
王さまは小窓を閉じて、空へ向かって叫びました。しかしウインテルの声はありません。
その代わりに、王城の上に冷たい冷たい風が吹き始めました。肌を刺すような風にゾンマーもオートムヌも震えています。このまま女王二人が倒れて大変です。王さまは二人を抱き寄せマントの中に入れました。早く二人を連れて館に戻らなくてはなりませんが、突然吹き始めたこの風に、王様は少しだけ希望をいだいていました。
「ウインテル! どうか声を聞かせてくれ!」
呼びかけが聞こえたからこそ、この風が吹いたのだと考えたからです。王さまの声が聞こえて、ウインテルの心がゆれた事が、風となって現れたのだと。
王さまはなおも叫び続けました。その度に風は少しずつ強くなっていきました。マントの中のゾンマーとオートムヌは何も言わず、震えながらも王様にしがみ付いています。
王さまはここが踏ん張りどころだと思いました。懸命に耐えている二人のためにも、なんとしてもウインテルの声を引きださなくてはなりません。
風はいよいよ強くなり、雪が舞い、王様のまつ毛についた雪が解けては凍り、三人の足元が白い雪で埋まり始めた頃、
「ウインテル!」
王さまのひときわ大きな、まるでしかりつける様な声に、ようやく風が弱まり始めました。そして暗く重たい子守唄が止んで、しばらくののち、王様と二人の女王の三人にだけ聞こえる声でウインテルが答えたのです。
「……許してください。どうかこのまま放って置いてください」
「女王ウインテルよ、謝るのは私の方だ。私はあなたの苦しみに私は気付けなかった。まこと取るに足らない、いたらぬ人間だ。だがそれでもそなたを放っておくなど出来ない。どうか教えてくれウインテル。あなたは一体何を思っているのか」
風がまた少し弱まりましたが、返事は有りません。王さまはまだそこにウインテルがいると感じて、辛抱強く待ち続けました。
やがてようやく一言、冬の女王が答えました。
「……私は愚かな女です」
「いいえ、ウインテル。決してそんな事は無いわ」
「そうよ! あなたが愚か者なら、私や、特にレンテなんてどうなるのよ!」
一瞬寒さが緩んだようでした。ウインテルが少し笑ったのかもしれません。
「いいえ。オートムヌもゾンマーもレンテも、為すべき事を知っているとても賢い女王だわ。そしてとても慈しみ深い人達。レンテは、私達女王は助け合うものだ、と言って城を出て行きました。何もかも私のせいで……」
「ウインテル。一体あなたに何があったというのだ」
小さな風が吹いたり止んだりし始めました。降り積もった雪がまるで道に迷ったように、憐れなほどあちらこちらへと行き交っています。やがてぴたりと風が止み、舞っていたが雪がやっと落ち着くと、再びウインテルの声が聞こえてきました。
「季節を操るという事は心の安定が必要です。なのに私はつまらない理由で心が定まらないまま塔に入ってしまったのです。それでもどうにか、いつもの年の事を思い出しながら歌っていました。上手く歌えた様に思えたのですが、胸に小さな棘が刺さったような、そしてその痛みを避けようとして少しだけいつもと違う振る舞いをしてしまうような、そんな風に私の歌は少しずつずれていたのです。私は自分の力の無さが嫌になって、自分を責めました。しかしそれは……この塔の中でそんな事を考えてはいけなかった。今私の体の中には、冬の大嵐の源が有ります。抑え込んでいるけれど、いつまでもつか分かりません。塔から私が出れば冬の勢いは弱まるでしょうが、塔の力が無ければこの大嵐が抑えられなくなって外に出てしまうでしょう。そうなればこの王城も城下も一帯全て凍りついてしまうかもしれません。だから……私はここでこのまま……」
「待ってウインテル! このままどうするつもりなの! 何があったの!」
「私は……あなたたちを少しだけ羨ましく思ってしまったの」
風が吹き始めました。先ほどまでとは違う、覚悟を感じる凛冽な風と雪です。
王さまはもはやここまでと、呆然とするオートムヌと叫ぶゾンマーを抱えて塔を離れました。
アルス王も女王も塔から主館までを幾度となく行き来していましたが、この日この時ほど長く遠い道だと感じた事は有りませんでした。伸ばした手の先が見えない程の吹雪の中、振り返りたくなるのを何度もこらえながら王様は二人の女王を抱えて励まし、川を渡るようにゆっくりゆっくりと進みました。
館に着いた時には雪の鎧をまとったような姿をしていて、執事も従者も血相を変えて大急ぎで暖炉の薪を増やし、湯を沸かしました。
眉と鼻につららをぶら下げながらも王様は
「女王を先に」
と言って聞きません。執事たちはすでに休んでいた侍女たちを呼び、それぞれ涙目になりながら、体をこわばらせた王さま女王さまの代わりに服を脱がせて、ろうそくの様に真っ白になった手足をお湯に浸しました。
ぽろぽろと涙をこぼしていたオートムヌも、口をとがらせて拗ねていたゾンマーも、お湯の暖かさに思わずため息を漏らしました。それを見ていた王さまも、二人を無事に連れ帰る事が出来たと安心してため息をついて、しばらくの間事情も忘れて、じんじんちくちくとする手足の感覚を楽しみました。
オートムヌの侍女たちが淹れた生姜入りの紅茶を飲んで体を温めると、三人はようやく普段のような感覚に戻りました。王さまもゾンマーも紅茶をおいしいおいしいと褒め、オートムヌは紅茶の御代わりと少し食べ物を頼んでから、侍女たちに休むように言いました。
侍女が出て行ってからしばらくの間、暖炉の前に置かれた大きな長椅子に座って、三人は何をするでもなく、ただじっと燃える薪を眺めていました。ゆらゆらと揺れる炎も、時折爆ぜる音もとても心地の良いもので、いつまでも何時間でもそうしていたいと感じさせるものでした。
やがて薪の端が白くなり始め、大きくぱちんと音を立てたのをきっかけに、王さまは
「オートムヌ。一体何があったんだい?」
と話しかけました。あの塔でウインテルが「羨ましいと思ってしまった」と言った時の、オートムヌのはっとした表情を、王様は見逃してはいなかったのです。
秋の女王は、はい、と短く応えました。
「毎年ウインテルと入れ替わりになる時、私はいつも私宛に作られた歌を口ずさんでいました。ウインテルはいつも良い歌ねと褒めてくれましたが、今年は私が、あなたの歌はどんなものかしら、と聞いてしまったのです。ウインテルは少し困ったように、私は歌を作ってもらった事がないから、と答えました。それが信じられなくて、私は彼女と交代して直ぐに城下へ降りてウインテルを詠った曲を聞いて回りました。でも、本当に不思議ですけど、確かにウインテルの歌は無かったのです。冬を心地よく過ごせるのはウインテルのお陰なのに。私は、ウインテルの歌は無かったと彼女に伝えるよりも、彼女の歌を作ってもらって届けてあげようと考えました。そして私の歌を作ってくれた詩人を訪ねたのですが……作れないというのです。どうせ作るならちゃんと時間をかけたいと。また別の方には、どうにもウインテル様の歌を作るのは気恥ずかしいと言って断られたのです。私は途方に暮れて、ケントルムから旅立ってしまった詩人をよほど呼び戻そうかと思いましたが、それもどれ程時間がかかるか分かりません。そうこうしているうちに今日の来てしまったのです」
言い終わると、オートムヌはぎゅっと目を瞑りました。まつ毛の先がまた濡れています。
王さまは
「秋の女王としての役をきちんと果たす事も、その女王をたたえる歌を作ることも、そしてその歌を嬉しく思う事も、どれも悪い事ではない。オートムヌ、自分を責めてはいけない。あなたはウインテルの素晴らしさを知っているし、それを彼女に伝えようとしてくれたではないか。どうか自分を責めないで」
と言って、オートムヌの肩を抱いて慰めました。
「そうよ。ささいな行き違いはこれまでにもあったし、上手くやってきたじゃない。今回は王さまだって力を貸して下さるのだから大丈夫よ。ね、アルスさま?」
王さまは、ああ、もちろんだとも、とは答えましたが、胸の中に自分を責める気持ちが沸き起こって、どんどんと大きくなっていくのを止める事が出来ず、苦しんでいました。
こんな大事が起こった時に自分を責めて何になる。
しかしどうにも気が治まらない。
お前は何の王だというのだ。
自分に近しい人間を労わることもしてやれず、一体何の王だというのだ。
あの氷が一晩で出来上がった訳ではあるまい。
兆しはあったはずだ。
どうしてそれに気付けないのか。
あめつちの事を知りたいと、
一年をきっかり四つに区切り、
女王に季節を操らせておいて、
目の前の変化に気付けないとは。
アルス、一体お前は何の王だ。
「王さま……?」
オートムヌの心配そうな呼びかけに、王様はかっと目を見開きました。
「ああ! 大丈夫だ! オートムヌが話してくれたおかげで考えやすくなった。原因が分からないよりずっと簡単だ」
言葉とは裏腹に、王様の顔からは苦しそうな表情が消えていません。眉間に深い皺を寄せたまま、また目を瞑りました。
原因はおよそ分かったが、どうすればウインテルの心を溶かす事が出来るだろう。
あるいは話を聞かなかった方が良かったのかもしれない。
きっかけは確かにささいな事のように思える。
しかし本当にそうか?
自分だけが褒められず、のけ者気分を味わった。
長い長い時間をかけて我慢できなくなった事ならば、ささいな事とは言いきれない。
とはいえ詩人を呼び寄せて新たに歌を作っても、わざとらしいとかご機嫌取りとか、そういうふうに取られてしまう。
そもそも今のウインテルは歌って欲しいわけじゃない。
彼女の胸の中にある大きな嵐の源は、自分がささいと思った事に拘る自分を許せずに生まれてしまったものなのだ。
今更歌って何になろう――
「王さま!」
ゾンマーの声が部屋に響きました。
「王さまも自分を責めては駄目よ。一人で背負んではいけません。私達だってこのケントルムを総べる女王なのよ」
いつも感じているように、ゾンマーの声には有無を言わさぬ力強さがありました。その言葉は王さまを非難する内容でしたが、険は含まれていません。そして、黒曜の様に黒く、どこまで潜っても底が分からない淵のような深さをたたえた瞳が、王様をじっと見つめているのです。
どんな人でも、心が弱る時はある。
その時誰かがいてくれたなら。
ウインテルにその一言があったなら。
私は失敗した。
しかしそれに捕らわれていてはいけない。
ゾンマーの心をくみ取ったアルス王は、一つ深呼吸をしました。
「ありがとう、ゾンマー。まだウインテルを助ける方法を思い浮かばないが、いくつかやらなければならない事がある。二人とも明日の朝、力を貸してほしい」
王さまの言葉に、ゾンマーもオートムヌも目を輝かせて大きく頷きました。
次の朝早く、王様は兵隊長を呼んでスキーの上手い兵士を選ばせました。この雪では馬は使えませんし、歩くのすら難しいからです。そしてえりすぐりの兵たちがウインテルの歌に囚われる事がないように、そして僅かな変化にも気付けるようにと、ゾンマーとオートムヌ二人で歌い、彼らを祝福しました。王さまも一人一人の手を握り、よろしく頼むと声をかけました。そして食料をたっぷり持たせて、女王レンテの捜索へと送り出したのです。
二人の女王と王様に直接声をかけられ、兵士たちは鼻息も荒く、張り切って城をあとにしました。
王さまにはもう一つ試したい事がありました。それは城下にこんなお触れ書きを出す事です。
――冬の女王を春の女王と交替させた者には好きな褒美を取らせよう
――ただし、冬の女王が次に廻って来られなくなる方法は認めない
――季節を廻らせることを妨げてはならない
詳しい事情を知らない人がいくら考えても、そうそう解決方法など思い浮かばないでしょう。何しろ王さまですら思いつかないのですから。しかし事情を知らないからこそ、物事にとらわれること無く、変わった考えが浮かぶかもしれません。直接解決方法が浮かばなくても何かきっかけを作って欲しい、と王様は考えたのです。
しかし本当に城下へお触れ書きを出すべきなのか、王様は悩みました。このお触れを見れば、王様でも手を焼く問題が起こっていると、ケントルムの民に知れ渡ってしまうのです。きっとみんな不安になるでしょう。しかし、黙っていても大変な事が起きている事はいずれは分かるはずです。そして解決が遅れるなら、それはそれで大変な騒ぎになってしまうのです。
王さまはケントルムの民の強さを信じてお触れを出すことにしました。そしてご自身は、他に出来る事は無いかと、本や歴史書をひっくり返し、眠れない日々を過ごすことになったのです。