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午後の眠たい授業を終え、終礼中、暇になった私は放課後をどう過ごすかを考えて過ごしていた。図書室で適当に本を読むか、自室でゆっくり眠るか、もうすぐやってくる夏期の長期休みの課題をやるかで迷っていた。号令の合図を聞いて慌てて立ち上がり、礼をすると、教室が一気に騒々しくる。行き交う影のその中でも目立つ白が私の方へと歩いてきた。
「シルヴィア?」
「ナツ、お昼イジェンダと一緒だったって本当?」
鬼気迫る表情で彼女は言う。なぜ知っているのだろうとも思ったが、大方噂好きの誰かから聞いたのかもしれない。嘘をつく理由もないので頷くと、シルヴィアの目が大きく見開かれる。
「シルヴィアがいない一週間だけ一緒に食べようってなったんだ。そうだ、発表が終わったら3人で食べてみない?リアム優等生だしさ、君とも話合うかも」
「…」
「…シルヴィア?」
黙ってしまった彼女の瞳がどんどん潤んでいく。あまりの急展開についていけずにいると、彼女は震える声を上げた。
「なんで?なんであの男なの?ナツに似合う素敵な人は、他にも沢山いるじゃない!」
シルヴィアが声を震わしているのに、教室はざわめきだす。普段の彼女なら、こうなることくらい予想して、言いたいことがあっても場所を変えるなりするのだ。彼女は私の立場を考えてくれてたし、そもそも彼女自身が感情を露わにするのを嫌っているのもあった。だから今の状態は、異常だ。とりあえず彼女を落ち着かせなければと声をかける。
「ちょっと待って、冷静になろうよ。シルヴィアらしくない」
「冷静じゃないのはナツの方よ!イジェンダにはあんな噂流れてるのに!ナツは騙されてるんだわ!」
あんな噂、そんな彼女の言葉に徐々に冷えていく頭が、視線が、彼女を突き刺すように鋭くなっていく。
「君が、噂を信じるの?」
ゆっくりと吐いた言葉は、彼女を凍らせるくらい冷たかった。びくりと震える彼女の表情に後悔が混ざる。
「それじゃあ、私ともさようならだね、優等生さん?」
「待って…ナツ」
「じゃあ、私は君の邪魔をしないように行くよ。発表頑張ってね、応援してるから」
「ナツ!」
鞄を持って教室を出ようとする私の腕を彼女が掴む。縋るようなその手を辿って、ゆっくりと彼女と視線を交わす。
「待って、待ってよ、ナツ」
「きっと、皆喜んでくれるよ。悪魔の申し子が貴方の前から姿を消すんだもの」
彼女の震える体からつぶやかれる言葉を軽く微笑んであしらうと、彼女の腕から力が抜けた。彼女は私の禁忌に触れたのだ。彼女が疲れていようが、私もそれを流せるほどできた人間じゃない。ぽろぽろと涙を流す彼女をその場に残し、私は教室を出た。
どうしようもなくて、私は治癒室に逃げた。空いているか分からなかったが、数回ノックすると、いつも通りオリバー先生がその扉を開く。
「どうした、フミツキ?補修は明日だぞ?」
気分的に顔を上げられるはずもなく、かといって何を言えばいいかわからないで立ちすくんでいると、何かを察したのか先生は私を教室に入れてくれた。彼は部屋の隅に置かれたパイプ椅子を彼の作業机の近くに出すと、そこに私を座らせた。少し隣の部屋に引っ込んで、暫くしてミルクティーを入れたマグカップを私に手渡した。
「アッサムだ。苗字と一緒だから愛着があってな」
少し気恥ずかしそうにいう彼を視界に入れながら、一口それを飲む。カラメルのような香りと程よい甘みが、沈んだ気持ちを和らげてくれる。
「おいしい」
ぽつりと零したその言葉に、先生は安堵したように笑った。年季の入った回転椅子をぎしりと鳴らし、彼もまたアッサムを口に含んだ。
「…ごめんなさい、先生。押しかけてしまって」
「気にするな、先生っていうのはこういうときのためにいるもんさ」
マグカップを膝の上に置くと、その温かさがじんわりと感じられた。もう夏だというのに、不思議とその温かさが心地よく感じられる。
「…そんな顔したら、アールグレイにもイジェンダにも心配されるぞ」
「そんなに酷い顔してますか?」
「あー、そうだな。鏡いるか?」
ふるふると首を横に振ると、彼は少し気まずそうに冗談だよ、と苦笑した。その意がわからないわけではなかったから、私も少し笑ってみせる。しかし先生は私を見て、表情を真剣なものにした。
「お前がそうなるなんてよっぽどだろ。何かあったのか」
私は、彼から視線を外して薄茶色の液体を見つめた。少し揺れているその液面が静まるのを待って、自然を装うように言葉を紡ぐ。
「何も、ありません」
先生に言うには些細なことすぎた。自分が大人だったら、きっと彼女の言葉も流せただろう。この学校が噂で人を判断するような人ばかりなのは分かっているのだ。でも彼女はそうじゃない。きっと、ついカッとなってしまっただけなのだろう。冷静になればなるほど自己嫌悪に陥っていく。しかし、ふと先程の先生の言葉が頭をかすめて、私は話を変えるために問う。
「リアムもですか?」
イジェンダも心配する、という言葉が気になった。彼がぱっと私を見てバレるほどひどい顔ではないとは思っているのだが。しかし先生は楽しそうな声色になって、角砂糖を自分のマグカップの中に落としながら言った。
「ん?あー、心配するだろうな。あいつお前にべったりだし」
「べったりなんですか?」
「そりゃあ、まぁ。俺に仲良くなる秘訣聞いてきたくらいだしなぁ」
飲みかけたミルクティーを吹き出しそうになって、踏みとどまった。リアムは割と可愛いとこがあるとは思っていたが、ここまでとは。私の動揺を愉快に感じたのか先生は喉の奥を鳴らす。
「…なんて言ったんですか?」
「胃袋をつかめ!」
「……」
高らかにそういう先生に頭を抱える。さらにセットで目をキラキラさせながら、わかり、ました!と返事するリアムまで思い浮かんでため息をついた。
「冗談で言ったんですよね?」
「餌付けすれば好意を持ってもらえるだろう?」
「私はその辺の鳥じゃないですけど先生お分かりになってます?」
「そりゃ、鳥にしちゃあ強かすぎるしなぁ」
じとりと先生を睨むと、先生は肩を竦めた。その顔には少し安堵が混ざっている。元気づけようとしてくれたのだろうか。背もたれに体重を預け、またミルクティーを一口含む。
「まあでも今日の朝に言ったから、もうすぐ何かしてくるんじゃないか?」
頬杖を付きながらこちらを見る先生に、ふるふると首を横に振る。
「もう言われました」
「は?」
「お弁当作ってくれるそうです」
「…俺が悪いのは認めるが、一回整理させてくれ」
今度は先生が頭を抱える番だった。目をつぶってゆっくりと頭の中を整理すると、先生はミルクティーを啜った。
「お前もお前でよく許したな」
「丸め込まれちゃいました」
「それでもだよ」
彼はまたミルクティーを飲んだ。ブルーのその瞳はまっすぐ私を見ている。彼に誤魔化しは聞かないと肩をすくめる。
「もし、リアムが噂通りの人物だったとしても、私を襲うメリットがないんです。私は悪目立ちするから、学校はうっかり街へ抜け出しても市民を混乱させると思うでしょうし、いなくなったもんなら犯罪を企ててるじゃないかとかなんとかで絶対探されるんですよ」
まだ暖かいアッサムを口に含む。液体が通る食道にもやわらかな熱が伝わって、ほう、と少し息が漏れた。
「私を使ってシルヴィアに何かしようと思っても、彼女私の様子にすぐ気付いちゃうから。それだったらそこそこ仲のいい地味な女の子でも使った方がマシです。だから安心して食べてもいいかなって」
「えらく現実的だな」
「…ホントは、あの笑顔に負けちゃっただけですけどね」
そう言って笑うと、先生も笑った。きっと彼はリアムの性格を知っているのだろうから、先生が止めないのだから大丈夫という安心感もあった。先生は、人を見る目がある人だから。
「まあでも、気をつけろよ?惚れ薬なら入れられてるかもしれないぞ」
「ごふっ」
そんな先生のトンデモな発言に、何気なく口をつけたミルクティーでむせた。リアムはそんなやり方すら知らないんじゃないかなぁ。