小噺 アッサムティー
黒い髪色が示すように、少女は強い闇の力を宿していた。覗いたその魂は、がんじがらめに鎖で何かを封印されてるような、そんな印象を受けた。春の日差しが差し込む書斎で机に向かいながら、ふと今日のことを思い出す。羽ペンを置き椅子にもたれるとギィと軋む音がした。程なくして、数回木を叩く音がする。
「あなた」
ふわり、鼻腔をくすぐる甘い匂いと共に、開けっ放しのドアから声がかけられる。くるり、と回転椅子を回して彼女の方へ向いた。彼女は柔らかく笑って俺の机の上にアッサムティーを置く。
「…ソフィ」
呼んで、その人を抱きしめた。濃い紫の髪色は暗いところでは黒に見える。紫水晶のように美しい輝きを放つそれは、紛れもなく自分の妻の髪色だった。
「…どうかしたの?」
低くもなく高くもない、しかしどことなく艶やかな彼女の声が不安そうに響く。
「少し、昔を思い出してな」
彼女の髪をゆっくり掬う。彼女はくすぐったそうに笑う。腕の力を緩めると、彼女の青い目がこちらを覗く。
「私に似た生徒でもいたの?」
「…鋭いな」
「ええ、伊達に『魔女』はやっていなかったのよ?」
悪戯っ子のようにくすくすと笑う彼女は、今度は俺の髪を掬う。
「…漆黒の髪の女子生徒が入ってきた」
俺の髪をいじる彼女の手が止まった。この国で黒に近い髪は禁忌とされる。この国に伝わる神話に出てくる、悪の象徴とされる魔女。彼女は黒龍をつれ、自身の黒い髪色を揺らしながら伝説の騎士と聖女を脅かし、民を苦しめたという。詳しい記述はなく、ただ魔女は闇魔法を使ったという理由で、様々な闇魔法の使い手が処刑された。そんな環境からなのか、依然として闇魔法の使い手に犯罪者は多い。
「他の生徒を庇って軽いけがをしてな、近くにいた俺が治したんだ」
「それは傷跡は残らなかったでしょうね…よかった」
黒に近いからといって、悪なのではない。環境がそうさせるのだ。証拠として目の前の美しい自分の妻はどこに出しても恥ずかしくない淑女である。
「学生時代、ねぇ」
昔、学園で出会った彼女は魔女と呼ばれていた。成績優秀で容姿も美しかった分、避けられてはいたが陰湿ないじめをされたこともなかったそうだ。大方、報復が怖かったのだろう。元から彼女は勝気な性格だったから。そんな気高い彼女にあっさり落とされた俺は、彼女に猛烈にアプローチを始め、今に至る。
「不良だった貴方が先生になるとは思ってなかったわ」
「黒歴史を引っ張り出すのはやめてくれ」
げんなりした顔でそう呟くと、腕の中の彼女は楽しそうに笑った。
「…それで、どんな子だったの?」
「普通だったよ。全部が普通だった。闇魔法も得意ではないと言っていた」
「そんなに闇の力に愛されてるのに?不思議なこともあるものね」
「…ああ、ただ。強い子だったよ」
怪我を治すと、ありがとうございます!と普通の少女の笑みを見せた彼女を思い出した。浅いだろうが額の怪我であったから血の量が多く、それなのに誰も声をかけようとしないからやっただけだった。少女は見えないように扱われても、ただ庇った生徒のことを心配していた。ろくに例も言わずどこかに行ってしまった生徒にもなんの不満も見せず、困ったようにハンカチで傷を抑えていたのだ。
「どうして助けたんだ?って聞いたんだ。そしたら、『後悔したくないからです』って真顔で答えられてな」
少女は恐らく、相手からは何も求めていないのだろう。ただ、知っていながら見過ごすのは良心が痛む、そう思ってやっただけのことだ。エメラルドのようなその瞳はまっすぐ自分を射抜いていた。
「…いい女になるわね、その子」
ソフィのブルーの目が細まった。彼女の言葉に頷き、黒髪の少女を思い出す。
「ただ…俺にできることなんて、ほとんどないだろう?彼女の担任でもないし、学校中の意識を変えるなんて時間がかかりすぎる。ただの一生徒なんだが…何かしてやりたくて」
目線を落とすと、ブルーの目が俺を楽しげに見つめている。形のいい唇が、そっと開いた。
「…色眼鏡で見られていない、たったそれだけでも嬉しいことなの」
「ソフィ?」
「心からこの髪色に胸を張れるようになったのは貴方がいたからよ。親ですら本心では怯えていた髪に無遠慮に触れたのなんて貴方くらい」
遠い昔、自分が所謂不良だった頃。思い出すのも苦々しく顔を歪める。
「貴方は、貴方でいればいいの。彼女を心から見守ってあげて。他の生徒と同じように可愛がってあげて。それだけで十分なのよ」
「…そんなことでいいのか?」
「ええ。それが大きなことなの」
ふと腕の中のソフィが机の上の時計を見やる。彼女はそっと俺から離れ、俺の頭を少し乱暴に撫でた。
「貴方が思っている以上に、貴方は勇敢で優しいんだから」
そう言って、踵を返した彼女を見送る。遠くから、かあさま!とはしゃいでかけている娘の声が聞こえる。時計を見やると思った以上に時間が経っていて、仕事を再開しなければいけないようだ。愛しい家族の声を聞きながら、アッサムを口にする。自分と同じ姓だから気に入ってる、そうソフィに打ち明けた時は笑われたものだ。ただ、いつだったか彼女から、あなたを思い出すから好きなのよ、なんて聞いたときには嬉しすぎて死ぬかと思ったが。
ぐ、と体を伸ばし羽ペンに手をやる。家族の為に、大切な生徒たちのためにならいくらでも頑張れる。我ながら天職についたよなぁと幸せを噛みしめながら、またもう一口、独特の甘さを堪能した。
俺があんまりにも黒髪の少女、フミツキに懐かれ、浮気じゃないかと愛しの家族からからかわれだすとは、この時の俺は流石に思っていなかったが。