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魔法病とセカイシンドローム  作者: Ria
第一章 残留する器官
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 何かが聞こえる気がする。


 目を開いても暗闇しか無かった。彼女はゆっくりと、確かな速度で落ちていく。もがくように伸ばした手も見えない。間違いなく動かしているはずなのに、自らの実体を感じることが出来ない。



  何も無い、と思った。私には何も無いと。




 幼馴染みのファセットの顔が浮かんだ。彼はじっと、鉄格子の向こう側で少女を見つめている。時折悔しがるように、強く鉄に頭を打ちつけて俯く。


「生きている世界が狭いんだと、そう思うよ」


 ある時彼は苦しそうにそう言った。

「生きている世界が狭いんだ」

「……私の世界のこと?確かに、私はこの牢屋から出ることが出来ない。ここは狭い。狭くて、暗い」

「そうじゃない」


 君の世界のことを話しているんじゃない、とファセットは押し殺すような声で囁く。少女には叫んでいるように聞こえていた。激しく、強く。

「俺の世界のことだ、イルファ。俺の話をしているんだよ」



 その時私はなんて思った?



「俺は君より自由に生きている。ああ……そう、足を拘束されているわけじゃないし、部屋の窓も、扉も、鉄格子じゃない。好きなものを食べることが出来る。好きな時に出かけて、ほら、こうしてイルファに会いに来ることが出来る」



 私は黙って彼の話を聞いていた。でも、何も思っていないわけじゃなかったはずだ。



「そういう意味では君より自由だ。自由なことに間違いない。でもそうじゃないんだ、俺は狭い世界で自由に生きているだけなんだ」

「狭い……世界」

「この村から出ない。母さんと二人で静かに暮らしている。君がこんなところに閉じ込められているのはとても悲しいけど、でも、君がいる。これで満足しているんだよ。好きで世界を狭めているんだ」


 少女の心の中に、何か痛みを伴う針が生まれた。それは絶え間なく胸を刺している。ファセットの言葉が一言一言、脳にこびりつくようだ。



「世界の広さは、選択可能な個々の権利だ」



 生きることや、将来の進路、就く仕事に結婚相手とか。

 そういう、人間が平等に持つ権利の一つだと彼は言う。



「自分から環境とか、身の置く場所を変えることで、関わる人を変えることで視野を広くすることが出来る。生きている世界を拡張することが出来る。もちろん一定の、他の権利を持っていないと出来ないことだけれど……でも俺は、自らの意志で世界を狭めている」

「どうして?」

「世界を広げればいいってもんじゃない」


 羨ましい、とイルファは思った。自分にはほとんどの権利が無いような気がする。彼は世界すら選択しているのに。

 その上、敢えて狭い世界で生きるなんて。


「世界が広ければ広いなりの、狭ければ狭いなりの苦悩があるだろう。俺は楽をしたいんじゃない、必要なものがあるところに自分を置いておきたいんだ」

「何が必要なの?」

「現状のすべてだ。母さんや村のみんな、そしてイルファ……君だよ」

 個人の世界なんて脆いものだとファセットは言う。絶妙なバランスで成り立っている奇跡みたいなものだと。

「俺の欲しいものはこの現状にすべて存在してる。もし何か……世界の広さが少しでも変わってしまうようなことがあれば、容易く失われてしまうだろう。俺は大切なものを守りたい」



 その時私はなんて思った?



「愛しているからだ」




 何も……思わなかった?













 鉄格子がぐにゃりと歪んで、ファセットの姿が溶けていく。全てが鮮明だった。少女は、もし今何かを感じることが出来たら、この暗闇に完全に溶けることが出来たのかも知れないと感じた。色を失って、悲しみに沈んで。

 しかしそれは出来ない。彼女は何も失うものがない。


 さらに落ちていく。



 落ちて、落ちて、暗闇はぞっとするほど色濃く彼女を包み込んだ。目を凝らすと遠くに仄かな光が見える。

 白い光だった。ふわふわと輝く白い綿のようなものが降り積もる世界で、青年が泣いている。


「ルフトくん?」


 間違いなくルフトだった。髪も服も何一つ違わぬ姿で項垂れる、師匠の姿がそこにあった。

 いや、一つだけ違う。



 右腕があるではないか。



 ルフトは自らの右腕を強く抱きしめるようにして泣いている。崩れるように膝をついて腰を折ると、真っ白い地面に激しく額を打ち付けた。

「ああ……ああああああ!」

 喉を枯らすような、血が滲むような叫びだった。

「ル、ルフトくん?」

 少女の声は届いていないようで、ルフトは苦しみ続けている。

 叫びがやがて途切れて、小さな嗚咽が漏れるだけになった頃、彼が何かを呟いた。イルファの耳には届かなかったけれど、確かに口を動かしていた。


 彼女の目には、ルフトが腕を抱えて苦しむ姿だけが映っている。右腕に何か痛みのようなものがあるのだろうか?病気か怪我かわからないけれど、でも今のルフトに右腕はない。

 彼は穏やかな顔でイルファに接してくれている。苦しみなんてこの世に無いように、柔らかな言葉と共に。


 何かひとつでも声をかけてあげたいと思った。何も出来ない事は知っていたけれど、言葉をかけてあげたかった。


 ルフトはまた叫ぶ。



 あなたの未来を知っている。


 あなたはもう、苦しくない。















 顔を強く床に打ちつけた瞬間、イルファは現実に引き戻された。素早く少女に駆け寄ったルフトが慣れた手つきで短剣を一振りすると、それを避けて、彼女を飲み込もうとしていた影が一歩引く。

 しかし彼はもう、影を避けることも追うこともしなかった。

 影を退けるために右から左へ奮った左腕をそのまま伸ばして、ルフトは部屋の入り口に立っているグエルの首に短剣の先を突きつけた。


 寸分の狂いなく、皮膚が破けないところで刃先を止める。



「うちの可愛い弟子にさぁ、触るのやめてくれない?」



 グエルはもう何も言わなかった。影が絶え間なく蠢き、目を忙しなく動かしながらも襲ってこないのは、どうしたことだろう。

「この気持ち悪い影のどこをどう見れば、女性に見えるんだろうね?敢えて出来損ないとは言わないよ、それにしちゃあ御老人の出来が良すぎる」


 心臓が激しく脈打っている。少女の目の前には力強く床板を踏みしめるルフトの足があって、周囲には埃が舞っていた。ギイ、木の床が軋む。


「嫌なもん見せないでよねぇ、うざったいな」



 不機嫌そうに呟いて、ルフトが短剣を握る左手に力を込めた。



「ル、ルフトくん、これはどういうことですか……」

「化物退治だよ」


 化物を殺すんだ、と彼は噛み締めるように言った。


「た、倒すなら影の方でしょう?グエルさんは、」

「イルファ、君は自分の影を刺し殺すことが出来るかい?」

 その言葉で彼が何をしようとしているかを察したイルファは、恐る恐る身を起こす。

 ちらりと影を見ると、相変わらず小刻みに震えながらルフトとイルファに手を伸ばし、その格好のまま停止している。


「影、影って言ったって、影のように見えるものなのか本当に影なのかは、本体の動きを見なきゃわからない。そう、見たら分かったよ。僕の弟子の背を押したんだ」


 化物って、なんだ。


「外にいた見えない家畜、あれは操者がいなければ扱えないはずだ。えーっと、確か中央でツェストやってる息子がそうなんだっけ?御老人と孫は一般人ね……そんなわけ、ないんだけど」

「そうか?」

「息子がこの家にいないのなら、誰かが操術で家畜を扱っているはずだ。御老人、あなたから、あのありきたりな力を感じるよ。化物なんだろう?」


 操者の息子が作った化物なんだろう?



「俺が?どこからどう見ても人間だろうが」


 グエルは人間だ。ごく普通の老人に見えるし、おかしな行動もしない。彼が淹れたお茶を確かに口にしたのだ。



「操術で作った存在に家畜の世話をさせるのはよくある話だ。御老人、あなたは作り物だろう。僕に自分を殺させようとしたのだろう」

「ま、待ってよルフトくん……そんなはずないよ。どうしてグエルさんは、影を化物の本体のように話したりしたの?」

「よく考えるんだイルファ。影の本体は常に存在しているが、その中にある心の実態は、常に影に現れる」


 立ち上がると、イルファはやっとグエルの顔をしっかり見ることが出来た。穏やかな目をしている。優しい目をしている。


 人間だ。

 この人は、人間なのだ。



「この部屋で、息子とその嫁が暮らしていたよ。嫁が死んだ時、そりゃあ悲しかった。この世の終わりだと思った。俺の息子は、彼女を思い出すもの全てを遠ざけようとした」

 でも、孫を中央に連れていきたくなかった。

「息子には、中央に行けば仕事がある。でもあっちには操術が溢れているのだ。俺の息子はな、孫を操者にしたくなかったのさ。だから俺を作った。俺は、世話をするために生まれた」

 グエルは孫とふたりで暮らし始めた。息子は中央へ行ってしまった。


「ほら……聞いただろう?イルファ、こいつは化物だ」


 違う。



 それなのに、ルフトは満足げに微笑むと短剣を握り直し、グエルを壁際に追いやった。

「ルフトくん、待って」

「よく見ていなさい」


 そう言って、ルフトはグエルの肩掴むと壁に押し付け、喉を的確に掻き切った。

想像を超えて、世界は本質を見失う。

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