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化物は真っ黒い女性の影ような姿形をしていて、ぎょろりと動く大きな目が2つついている。口は無く、音も立てないし発さない。
扉を開けば現れて、入ろうとするものを襲う。
「逆に言えば、部屋から出てこないわけだ」
そう、入ろうとすれば襲いかかってくるが、そうしなければ何年も姿を現さないのである。
「いいかいイルファ。そういう生き物のことを、ひきこもりって言うんだよ」
「ヒキコモリ……ですか?じゃあ私も、かつてはヒキコモリ?」
「いや、君は監禁されていたから違うね。自主的に引きこもっていたわけじゃないから」
化物のことを引きこもり扱いするな、とグエル老人が不機嫌そうに口を挟む。
「そんな可愛いもんじゃあないさ」
問題は化物の実害だった。襲ってくると一言に言っても、牙をむくのか首を絞めるのか、害をなすにも様々な手段が存在するとルフトは言う。
窓を叩く雨が弱まる様を一瞥してから、グエルは目を閉じた。襲われた時のことを思い出そうとしているのだろうけれど、イルファには苦しみに耐えているようにしか見えなかった。
「あれは大きく手を広げて、真っ直ぐに俺を見る。そうすると視界が真っ暗になる」
目の前が影で覆われるからだ。
「そうするとな、上手く言えないんだが、目をやられる。色の識別が酷く曖昧になる」
「その説明も曖昧だけど?」
「化物なんて言葉でしか表せない存在が、既に曖昧だが」
まだ熱いカップを両手で包み込んで、ルフトの吹いた息が湯気を揺らす。液体を波立たせる。
「色の識別って、分かりにくいね。つまりどういうこと?」
「色は変わらずそこにあるんだが、頭がそれを認識できなくなる。世界が灰色になったみたいでな、これが結構堪える。酷くやられると治るまでに何日もかかるんだ」
心に来るよ、と言ってグエルは目を開いた。
イルファはもちろん、そんな体験を今までしたことがない。確かにルフトと出会ったあの夜、彼女は灰色の牢を出て鮮やかな世界に飛び出した。藍染の夜空を、瞬く銀の星を、金色の月が照らす緑の大地を撫でる風を見て、色を知った。
色を与えられる、という感覚はよく分かる。
だが色を失う感覚は分からない。多分何かを失うという事は、何かを手にしている現在から、まだ手にしていない過去を総合する違った現象なのだろうとイルファは推測する。
「色を失わせる化物かぁ、なるほど、なるほど」
ルフトがゆっくりと頷いている。
「なんだボウズ、心当たりでもあるってか」
「僕はボウズじゃなくてルフトだよ、御老人……まあいい。色を奪う、失わせる化物はそう珍しくもないんじゃないかな。ありきたりと言ってもいい。僕が今までに出会ったことがあるかはともかく、どこにだって現れるだろうし、どこでだって誰かを襲う可能性がある。もちろんそこに、人間がいるならば」
つまんない話だなんて言っているが、イルファから見ればその表情は明るい。今夜は見えない、空の上の月のような金色の瞳が見開かれて、部屋の灯りに輝いている。
「その言い方からして退治は出来ると見ていいか?」
「もちろんだとも」
即答だった。
「ル、ルフトくん……そんな簡単に頷いていいの?」
弟子としては師匠を信じるべきだとは分かっているのだけれど……しかし安請け合いにも程があった。なんてったって化物だ。イルファは今までそんなファンタジックな存在に出会った事はないけれど、恐ろしく、害をもたらす人間以外の生き物に積極的に関わりたいとは思えない。
「イルファはまだまだ僕のことを知らないんだもんね。まだまだ、信用していないんだもんね」
彼女は視線を落とす。
「でもいいのさ、知るのはこれからでいい。何度か言ったはずだけどね、僕の旅の目的はまさにこういうところにあるんだ。偶然宿を乞うた家に化物がいて、そいつと向き合い退治をするなんておあつらえ向きだよ」
でも、と言葉を続けようとして失敗する少女のために、グエルがずいと身を乗り出した。
「そういやお前達は、なんで旅をしているんだ?さっき魔法がどうとか言っていたがな、よく分からん。それに操者二人で東の旅だなんて酔狂なことだ。中央や南部ならお前らのような……息子のような連中も珍しくないだろうが」
確かにエアタ教に馴染まない東部に残る根強い差別意識は、時折二人の前に立ちはだかった。特にルフトに対しては、右腕がないその姿を見るだけで、それこそ化物を見るような目を向ける者が大多数だったからだ。本人が全く気にしていないのが不思議なくらいに、である。
そもそも自らを魔法使いと名乗る時点で変わり者なのだから、そんなことを考えたって仕方ないのかも知れないが。
「僕は国じゅうを旅して回ってるんだ。目的は魔法を探すこと」
「……そう言えば魔法使いとも言っていたか、ボウズ」
ボウズじゃないって言ってるだろ、ボケてるのかとルフトが噛み付く。
「操術が王都を中心に一般化してから、この世は変わったよ。様々な普通が普通ではなくなっている……僕はそういう、世の中に起こった、起こり得ないものを探している。それを知ることを使命としている」
ルフトと旅をして少し経った。旅の目的を何度も繰り返し語られたイルファは、これから彼が老人に語るであろう言葉を諳んじることさえできる。
「知ることが力になる。僕は魔法を知って強くなるんだ。この世界の変化を観測しながら、最も強い、魔法的存在になるのだ」
グエルはじっと、まだ若い青年の端正な顔を見つめている。
「変化……って言ったか。俺は長く生きているけどな、変化の一番難しいところは、変わったところを感じ取れるかってところにある。操者のお前に、本当にそれが分かるか?いや、なんというか魔法使いって言ってる時点で本当に操者なのかも信憑性ないがな……」
「ひっどいなぁ」
分かるよ、とルフト。
「操者じゃないと言っているだろ。彼らは馬鹿者だ、どんな奇妙なことも、土台のない理論で分かったことのように頷く。目の前で起きていることが未知そのものなのに」
僕は彼らとは違うよ。
「僕は正確に認識し、評価する。それが強さだ」
「よく言うよ若造が……お前だって片腕の代わりに手に入れた力を使うんだろ?物を浮かせたり、祈るだけで木をへし折ったりなぁ」
違う、とイルファは思った。
イルファは自分のことを操者とは思っていない。確かにイルファは手を触れずに物を浮かべることが出来るが、彼らのように祈ったりしないからだ。
じゃあイルファがルフトと同じ、いわゆる「魔法使い」なのかと問われれば、それも頷き難い。
出会ってから今まで、ルフトは一度も操術を使っていないのだ。
これじゃあただ右腕を無くした障害者じゃないかと、何度思っただろう。
それでも、彼は。
「御老人、僕は軽々しく魔法を使ったりしないよ。何度も言ってるけど操者とは違うんだ。別物だと分かってくれ」
ふふ、と上品に笑ったルフトは、優雅にカップを口につけた。
「まあなんでもいいだろ、これが僕の旅の目的。だから喜んで、化物を殺してあげる……おっと、退治ってつまり、殺すことなんだよね?」
どうしてルフトがわざわざ残虐に言いかえたのかは分からなかったけれど、困惑するイルファをよそに、老人は表情を暗く澱ませて頷いた。
「もう、殺してくれ」
世界から色が消える瞬間は、誰にだって訪れるのだ。