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魔法病とセカイシンドローム  作者: Ria
第一章 残留する器官
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それは残留する。

 風が凪ぐことはなかった。延々と広がる牧草を撫でるそれを眺めながら、イルファはほうっと息を吐く。空がこんなにも広いってことを知った彼女は、次に、頭の上と遠くの端では空の色が違うことを知った。



「今日は雲が低いね」

 隣をゆくルフトが、穏やかに言う。

「そうですね……雨が降るのでしょうか」

「イルファ」

「……ごめん」


 敬語を抜くのは難しかった。この得体の知れない青年とどう向き合うことが正しいのか、判断を下すことが出来ない。ルフトは穏やかで優しかったけれど、まだ、自分を助けてくれた知らない人というのがイルファの認識だったから。

 それでもルフトは、彼女との距離を詰めることをやめない。



 ふたりは歩いていく。


 遠く、遠く。



「思ったより村は遠いなぁ。今日もどこかで宿を乞うことにしよう」

「あとどれくらいで着くのかな」

「少なくとも2日くらいか。はは、そろそろ分かるだろう?僕はかなり無計画な方なんだ」

「あはは……」

 反応のしようがなくて曖昧に笑ったけれど、それで彼は満足したようで、思ったよりかかるなぁ、お金大丈夫かなとあんまり不安そうでもない顔で呟いていた。

「ま、なんとかなるよね」

 ルフトが言うと本当になんとかなりそうなのだから不思議だ。


 短い草が覆う緑の大地は、時折うねって丘を作り、少女の意識が届かない向こうまで広がる。この道は西へ西へと伸びていて、いくつも森を越え、街を通り過ぎ、王都や首都と呼ばれるこの国の中心に繋がっている。

 そこへのんびりと向かいながら、ルフトはイルファに操術を教えて、この世界のことを伝える。静かな旅だった。穏やかな、旅だった。







 キイ、とどこかで鳥の鳴き声が聞こえる。東の野を歩き始めた時から時折耳にするけれど、姿を見たことは無い。ルフトに聞くと、家畜の鳴き声だと笑った。

 家畜というと、ニワトリみたいなものだろうか。それにしては声は近く、姿はなく。


「ははは、まあ気にしないことだよ」

「近くに隠れているの?」

「思っているより近くにね……おや」



 刻一刻と夜に近付く不穏な野の先、遠くに家が見えた。寂しく立っているそれに、日暮れまでにはたどり着けるだろうか。


「あそこにしよう。この見えない鳥を飼えるのは操者だけなんだよ。だからあの家に、少なくともひとりはいるはずだ」

「そ、そうなんですか」

「一般人には見えない鳥さ。イルファ、君もすぐに見えるようになるだろう」


 はやくはやく、とルフトが急かして、彼女の頭をそっと撫でる。みるみる空を占拠しかける雲たちは、今日ばかりは夕焼けすら隠した。

 ふっと振り返ると、切れ切れになった空の一つに月が見える。


「あんまり月なんて見るもんじゃないよ」

「……うん」


 はやく歩かなくちゃあ夜がやってきて、辺りは静かな闇に包まれてしまうのだから。東の夜は星が降るような美しい夜だけれど、ルフトは夜歩きを嫌った。


「暗くなると、あの燃えるような夜を思い出すだろう」


 燃えるような夜、というのはルフトと出会った日のことだった。偶然炎に包まれた屋敷を背に走って牢屋から逃げ出した暗い夜のことを、イルファが思い出すことのないように気を使っていた。時々脳裏を光景が支配する事はあっても、それが今後の自分に影響するなんて思っていないけれど、この楽観的に見える青年は違うようだ。


 それが優しさなのだろうか。

 優しさを知らないイルファは推測して、そっと足を早める。



 今夜は珍しく荒れそうだった。次第に煽るような具合に吹き始める風にぞっとして、いつもよりルフトの傍に寄る。ゆらり、ゆらりと揺れながら、彼は左腕を伸ばしてイルファの肩を抱いた。弟子は常に師の左に立つことが暗黙の了解だったから。



 ルフトが手を伸ばせば、どんな時だって届くように。











 歩いているうちに雲はぐんぐん地面に近付いてきて、擦るように辺りを覆った。湿った空気を感じたすぐ後に、追うようにして雨が降る。


「うわぁ、まずいまずい。走れるかい」

 ずっと、走ることはおろか歩くことさえあまりしてこなかったイルファの足はだいぶ傷んでいた。だが置いていかれては、行くところなんてない。行くも戻るもできない彼女は、ルフトの言うことに従うだけだった。



 初めは柔らかく湿らせるような雨だったのに、すぐに叩きつけるような豪雨に変わる。土と草の匂いが跳ね返る飛沫とともに立ち上って、旅人を足元から追い立てた。


 ルフトは外套のフードを目深に被ると、走るのに一生懸命なイルファにもそっと被せて緩く足を動かす。おかげで少女は大して息も切らせず、足も滑らせずに民家に辿り着くことが出来た。



 大きな家だった。広い東の野を歩き始めてから、ぽつぽつと見かけるのはこういう、広々とした家ばかりだ。



「ごめんください。誰かいらっしゃいますかぁ」

 ガチャガチャと扉に付けられた鉄の輪でノックをして、ルフトがよく通る声で呼びかける。

「ごめんくださーい」


 部屋の中で物音がする。それは少しずつ明確な足音となって近付いてきて、扉のすぐ向こうで止まった。開かれない。風はいつもよりも冷たく感じる。



「誰だね」

「旅の者です。急に雨に降られて日暮れも近い、一晩泊めてもらえませんか」



 一拍の間の後に酷く軋む木の扉を開いたのは、皺が深く顔に刻まれ、昔は赤かったのかも知れない、大分色褪せた髪をもつ男性だった。イルファが恐る恐る顔を上げると、真っ先に煌めくような瞳が目に入る。


「ただで泊めると思うかね?」

「正直金はあんまりないんだけど……対価があれば泊めていただけるということですか。これはありがたい、御老人」

「若いもんが軽々しく対価だなんて、口にするもんじゃあない」


 吐き捨てるように言いながら、男性は大きく扉を開いてイルファにちらりと目を向けた。

「この雨だ、追い払うわけにもいくまい」

「ありがとうございます、いやぁ助かったなぁ」

「ボウズ、お前はオマケだ」

「それでも助かったことに変わりはありませんよ」


 からからと笑うルフトの陰で、イルファは小さな声で礼を言った。雨が吹き込むからと急かされるままに家に入ると、中は暖かい。家畜を追い立てるための大きな笛が壁に立てかけてあった。木のテーブルに椅子が四つ、カップはひとつ。子供がいるのだろうか、幼い少年の写真がイルファの目を引いた。血のような真っ赤な髪だったからだ。



 少女はぶるりと身震いをする。気温はそこまで低くなかったけれど、濡れたせいで思ったより手足が冷えているらしい。


「外套は脱いで扉の横に掛けておけ、部屋の中を濡らされちゃ困る。あとは適当に座って待っていろ」

「は、はい」

 言われるままに濡れたそれを脱いでルフトを見上げると、彼は軽く扉に目を向けて微笑んだ。


「えっと……ルフトくん、のも、軽く絞りますね」

「ありがとう、気が利くね」


 ルフトがいつも引っ掛けている深い緋色の外套は、イルファのそれよりずっと厚くて重かった。水を含んだ二着の外套を袖を捲った左腕にかけて、僅かに扉を押し開く。雨脚が弱まっている隙を狙って、素早く水を絞り落とした。その間にも絶え間なく外套は雨に曝されているけれど、そのままにしておくよりマシだ。



「さて……腰を落ち着ける前に聞かせて欲しいんですが」


 弟子が雨と戦っている間に、ルフトはのんびりと口を開く。

「僕らは宿の礼に何をすればいいんでしょう?」



 台所に立って湯を沸かそうとしていた男性は手を止めて、じっとルフトを見つめた。イルファは背を向けたまま耳を澄ましている。


「ボウズ、お前はせっかちだな。座って待ってろと言ったはずだが」

「いやーそこを確認しないと落ち着かなくて。概要だけでも聞いておきたいなと」

「まあ、それもそうかね」



 広い家だった。今までいくつもの民家に宿を乞い、お世話になってきたけれど、大抵は広い牧場を回していくために家族で大きな家に住んでいた。親子三代で暮らしていることが多かった。

 しかしこの家はどうだろう?


 物音ひとつしないではないか。



 なぁに簡単なことだ、と老人は言う。




「ひとつ、化物退治でもしてもらおうと思ってね」

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