8
村はその日も穏やかだった。何も無い、いつも通りの一日。
ユキヒトは朝早くに家を出て村のはずれにある小さな林に入っていった。その奥にある花畑で、美しい花を手折る。彼は出来るだけ花びらが大きく開いた、もう今この瞬間が満開だというようなものばかり選んで花束を作った。
それを携えて、クレメルの家に向かう。中はは相変わらず死に間際の空気に支配されていたけれど、彼女の部屋だけは賑やかに飾り付けられている。色とりどりに染められた布の切れ端を集めて、壁や天井を彩った。クレメルが病魔に侵される前に好きだった料理も並んでいる。
昨日ユキヒトは、明日もこの家に来てくれとルフトたちに頼み込んだ。
「出来るだけ賑やかにしてあげたいんだ。明日はクレメの……誕生日、だから」
病室にお邪魔するなら騒がしくしてはいけないと考えたルフトは、弟子だけを連れて見舞ったけれど、もうそんなことはいいのだと。
シエヴィアとマニも連れて、死にかけの少女の家へ向かった。
「とても賑やかでうれしい……ああ、可愛い鳥」
マニを見つけた少女が手を伸ばす。いつもなら鳥ではないぞと怒るところだが、今日ばかりは黙ってシエヴィアの肩から枕元に降り立った。
「具合はどうだいクレメル。おや、今日はとても顔色がいいじゃないか」
「昨日のひと……来てくれたのね。そういえば調子がいいような」
ベッドの上から動けないあたり、そこまで体調がいいとは言えないのかもしれない。それでも少女はルフトの言葉に喜んだ。
その後は主にイルファがクレメルの相手になって、しばらく話を聞いていた。彼女の言葉は非常にゆっくりと発せられ、話の内容は脈絡なく変わる。時折目を閉じて眠ってしまうこともあった。彼女の脳は、かつての働きを失っているのだ。
しかし、遅れてやってきたユキヒトが顔を出すと、ぱっと顔を輝かせた。
「ああ、アイテル」
「……楽しそうだね、クレメ」
彼が持ってきた花は美しかった。茎が太くて、真っ直ぐに伸びている。柔らかそうな花びらは薄紅色で、額に近づくほど鮮やかな紫に染まっていた。花の真ん中にある丸い実のようなものを優しく守るように包んでいる。
「こんな花、見たことないわ……綺麗。あんたが見つけたの? なんだからしくないわ」
「そんなことを言うなよ。苦しみを和らげる魔法の花なんだ」
「魔法だなんて、随分へんなことを言うようになったのね。前のあんたはもっと……」
目を閉じたクレメルは一瞬眠りかけていたようで、言葉を不自然に途切れさせた。すぐに再び目覚めた彼女は笑って、花束に顔を近づける。
「本当に痛みがどこかへ行ってしまいそう」
そうか、とユキヒトは頷いた。少女に合わせて笑った顔は誰より痛々しい。
しばらくして、クレメルはまた棚を指さした。今度は上から二つ目の引き出しを開けるよう頼むのだ。見守り続けることに疲れたイルファが率先して指示に従うと、そこには小さなアルバムが仕舞われていた。
「それよ、貸して……」
細い手を伸ばす。妊婦のように膨らんだ腹が邪魔をして上手く身体を折れない彼女のために、ユキヒトが震える手でそれを掴んだ。
「ああ、懐かしいねアイテル……また一緒に見よう。あんたはいつも、あたしがアルバムを取り出すと顔をしかめてさぁ、照れ屋で」
「……うん」
「ほら、もう少し寄って……見ようよ、ねぇ」
ユキヒトが少女に寄り添うと、アルバムを開こうとした。思い通りにならないのか見当違いの所を掠めるクレメルの指に代わって、青年は絶望したようにそれを開く。
自らの手で。
「ほら、見て……これは村祭りの写真。アイテルったら、大事な日なのに裏の丘の向こうに籠って剣を振り回してたじゃない。あたしがわざわざ呼びに行ったのよ」
仏頂面でそっぽを向いている幼い少年がアイテルだ。その腕をしっかり掴んで笑っているのは、おそらくクレメルだろう。同一人物だと言われなければ分からないくらい、今の彼女はやつれて変わってしまっている。
「ほら、これはアイテルの誕生日……前の日にあんた、おばさんと喧嘩して泣かせたじゃない。あたしが企画したパーティだったのよ……あんたよりあんたの母親が大喜びするって、本当、どういうことよ」
「そう、だったっけ」
「そうよ、おばさんこの後もっと泣いちゃってさぁ……嬉し涙だから、良かったんだけどさぁ」
辛うじて頷くと、ユキヒトはじっと写真を見つめていた。彼は病弱だったと言っていたが、こんな思い出が果たしてユキヒトの人生に存在したのだろうか?
母親はいつも喪服を用意していたと。
そんな彼に、アイテルのような人生は。
ぐっと喉が詰まるような独特の感覚に苛まれて、イルファは小さく頭を振った。ルフトは彼が単なる病気なのだと言っていたじゃないか。アイテルの心の中で分裂した器官が、ユキヒトという人物を生んだのだ。
そうだろう?
「ねぇ……どうだったのかな。あんた、楽しかったのかな。あたしはいつだって楽しかったし幸せだったわ。あんたが笑わなくても、代わりにあたしが笑っていたわ。アイテル……冷たいふりをして優しいんだって、ずっとずっと信じていたの」
ふふ、と笑う。死の淵で天国でも夢見るように。
「信じさせて。あんたが優しいってこと……約束のこと」
はっと息を呑んで、ユキヒトが少女を見つめた。
「あたしはねぇ……分かってるのよ。何の理由か知らないけど、アイテルは変わってしまった。だからかな、一層祈ってしまいたい」
あたしがアイテルに固執してるとと思ってる?と悪戯っ子のように言うのだ。
「そうよ、そうかもしれない……でも同時に希望が生まれてしまったのよ。冷たくて何に感心を持つわけでもないアイテルが変わったから、もしかしたら約束を守ってくれるんじゃないかって……欲が出てしまったのかしら」
希望する。執着を失わぬまま。
おかしいよね。誰よりも死に近いのに、神様の元へ行くにしちゃあ強欲なのよ。
震える指が写真を撫でる。幾つもの内出血のあとが、折れそうなそれを黒く染めていた。
「あんたは、あんたなのよ……いつでも信じているの」
目を伏せたユキヒトは、ゆるゆると首を振る。
「アイテルはもういないよ。俺はね……クレメ、それを分かって欲しいんだ。希望を捨てぬまま、理解してほしいんだよ」
「どういうこと?」
「あいつに出来なかったことが、俺だからできる。俺だからクレメの苦しみが誰より分かるんだ。終わるようで終わらぬ、希望すべきことさえ絶望に変えてしまう痛みを知っている」
黄色っぽく、くすんでしまった瞳を大きく見開いた少女は、アイテルらしくないねぇと笑った。ぐしゃりと顔をしかめて泣きそうになりながら、ユキヒトも笑った。
またページを捲ると、二人の思い出が蘇る。消えてしまいそうな声で楽しそうに語るのを、青年は黙って聞いていた。
少女が眠ってしまうまで、ずっと。
「ルフト、見つけました」
もう日も沈もうとする頃、クレメルの家の裏でシエヴィアが呼んだ。
少女が疲れ果てて眠ってしまったあと、ユキヒトは何も言わずに家を出てしまったのだ。彼が腰を下ろして項垂れていたのは、丁度少女が眠る部屋のそばだった。動けないクレメルが顔を覗かせることのない窓の下に背を預けていた。
何か声をかけようとして言葉を見つけられなかったイルファは、ただ黙っていることしか出来ない。
「……本当は全部、見ていたんだ。俺の人生はアイテルと共にあった」
泣いていたのだろうか。掠れた声で、顔を上げぬまま言葉を零す。
「村祭りも誕生日も、約束のことも。全て俺は見ていた。だからこそ自分が第三者で、傍観者でしかないと強く感じていたんだよ。見ている事しか出来ない他人の思い出がどれだけつらかったか、誰にも分からないだろう」
「ユキヒト」
「魔法使いなんだろう?あんたには分かんないよ、ルフト。あんたは立派な肩書きを持ったその場に存在する主人公じゃないか。俺はどうだ? 誰も俺に気付かないよ、存在も、この胸の痛みも……」
また口を開こうとして、やめた。ルフトの顔は穏やかだ。
「この世界にアイテルの代わりに立った時、みんなが俺に絶望したよ。どうして変わってしまったんだって。お前はアイテルだろって、諭す人もいた。クレメもそうだったんだ」
でも、彼女が同時に希望を見出したのなら。
「俺は存在証明をするんだ。クレメはアイテルが約束を守ることを望んでいるだろうけど……あの意気地無しがどうしても出来なかったことを、俺はやるんだよ」
「そうすることでクレメルは、一生アイテルに感謝するんじゃないのかい? やっぱり大事な幼馴染は、己を変えても約束を守ってくれたと」
「きっとね。でもいいんだ、出来ることは限られているから。俺はどうやったって、この方法でしか自分を証明できないんだよ」
感謝されること。
或いは、愛されること。
すべては都合よく変換されて、その人の心に残る。やっぱり誰もユキヒトを認識しないのかもしれない。
それでもよかったのだ。
「……はは。一生アイテルに感謝する、かあ。大丈夫だよ、クレメの命はもう長くないんだ」
疲れたように吐き出したその言葉は、放った本人を酷く突き刺したようだった。
シエヴィアの肩の上で大人しくしていたマニが、カチカチと嘴を鳴らす。
「約束が何かは知らんがな、お前、このままで良いのか? この村にアイテルとやらの居場所はあっても、小僧の居場所は無かろうよ」
「何を言っているんだよ鳥ちゃん、だったら僕達と一緒に来ればいいだろう。何も問題はないよ」
驚いて泣き腫らした顔を上げたユキヒトが潤んだ瞳を大きく開く。そのせいでまた一筋、涙の跡が増えた。
「君が決めるんだよ、ユキヒトには広大な逃げ場が用意されているんだからね。だから思うようにするといい」
かつてイルファに左手を差し伸べた時と同じ笑みと共に、ルフトは言うのだ。
真実が明らかでなくとも、結局病がどこにあるのかは分からなくとも、その姿だけは恐ろしく美しいのだと思う。
この世界はまだ俺を捨てていないのかなと呟いたユキヒトは、またくしゃくしゃに顔をしかめた。硬い手のひらを掲げて日に透かす。
なんて哀しいのだろう。
手に入れた身体は一層自由であるのに、何もかもがままならない。
「なあ、魔法使い一行は知らないんだろうな……今日がクレメの誕生日でもなんでもないってことなんて。こんなにつらくて苦しい日が、この世にあるんだなあ」
命を摘んで、慰めの魔法をあげよう。




