野が夜へ落ちる前に
長く長く続く一本道が、見通すことなど不可能なほど遥か遠くにある首都に向かって伸びている。
舗装もされていない、土と石が露出したその道を踏みしめて二人の旅人が夕日の方角へ、前へ進んでいた。道の両側には簡素な柵がまばらに設けられていて、家畜によって適度に食まれた緑がどこまでも広がっている。遠くで誰かの歌が聞こえた。風の声か、羊飼いの祈りか判別がつかないけれど、それは遮ることを知らない広大な世界に響き渡って、遠くへと去ってゆく。
旅人達は孤独だった。
「そら、あっちを見てご覧。羊の群れがいるね。さっき見つけたやつより3倍はある」
背が高く、年若いが混じり気ない白髪を風に揺らして歩く男の旅人が、その左手を持ち上げて指さした。強風ではためく彼の緋色の外套は、この土地には合わない、雪が降り続けるような北の土地でよく見かける重い作りのそれ。
「そうですね、沢山いる」
青年の顔色を伺いながらぎこちなく頷いたのは、彼の半歩後ろを心細そうに歩く少女だった。腰まで届く夕焼け色の髪を、結びもせず風に遊ばせるままにして、一瞬だけ遠くの羊に向けた目はまた地に落とした。
なんてことは無い、有り触れた静かな夕暮れだった。
少女はおずおずと顔を上げ、迷いなく歩みを進める青年を伺い見た。
「そうだよイルファ、顔を上げて。下ばっかり見てたら折角の景色を楽しめないじゃないか。世界がもっともっと広いことを、君は学ばなくてはならないのに」
「ご、ごめんなさいルフトさん」
「僕に謝らなくったっていいんだよ」
喉元まで上がってきた言葉をゆっくり飲み込んで、少女イルファは「はい」と小さな声で応えた。
単にこの二人を見るならば、似ていない兄妹だと思う者が多い。どちらもはっと目を引くような美しい人間だった。顔立ちは共に整っている。日に当たったことがあるのかと嘲りたくなるくらいに肌が白い。共通点はそれくらいだろうか。
ルフト青年は背筋を伸ばして歩いている。白い髪が夕日に透けるように僅かなオレンジ色に染まって、夜が迫る空で頼りなく輝く星のように煌めいた。細めた瞳は月のような柔らかな金色をしていて、それは大体前を見据えているか、隣をゆく少女に慈しむような視線を向けている。だが、俯いてばかりの少女は彼の愛に似た感情に気付かない。
いつも足元ばかりを注視している少女は、少しぎこちなく歩いている。靡く髪は明明と大地を照らし出す夕焼けと共に燃えているのに、表情は強ばっている。その瞳も、少し前を向くだけで太陽の宝石のように輝くはずなのに。
「イルファ、これをご覧」
歩調を緩めたルフトは道に転がっていた手に丁度よく収まるくらいの小石を拾って、優しく土を払った。
「持ってみて」
「はい……」
何の変哲もないただの石だ。重くもなく軽くもない、ただの石。
ルフトはまた歩調を元に戻して歩き出し、それを少し追うような形で少女も続く。
「あの、これがなにか」
「浮かせてごらん、歩きながらだよ」
「は、はい」
イルファは石を右手の手のひらに置いて、その凹凸に目を凝らす。
石を手の上で浮かせる。そんなのなんてことはない。簡単なことだ、念じる必要すら存在しないのに。それなのに石は、依然として一ミリも手から離れず、イルファの歩みに合わせて揺れている。
「えっと、だ、大丈夫です。ちょっと待ってください、出来ます」
浮け。
お願い、浮いて。
イルファは必死に祈った。思いを強く物質に向けることで変化をもたらそうとしたのだ。
だが石は、浮かない。
「イルファ、焦っちゃダメだ。落ち着いて集中して……それでも無理なら教えてくれ、どんなことを念じてその石を浮かせようとしてる?」
「とにかく浮いてって、お願いするみたいな感じ、です」
悪くないよ、とルフトは微笑む。
「我が国の国教であるエアタ教は操術教育の中心だけど、彼らは操術を使う時、神に祈るように願えと言っている。でも、願っても浮かないなら、それは君に合ってないやり方なんだよ」
「すみません……」
「大丈夫だよ、少しずつ学んでいけばいい。イルファは前から物を浮かせるのが得意だったと言ったね?誰に教えられたわけでもなく、操術を日常的に使いこなしていた。その生活に神への祈りはあったか?」
イルファはゆっくり首を振る。そもそもエアタ教について知ったのもごく最近、彼に教えられて初めて認識したのだ。
「信じていない神は、君にとっての神ではない。それは君のものではないんだ、分かるね?」
イルファはまた頷いて、今度は石の輪郭を脳に刻み込むように視野を広く持った。その形が、線が目の奥に焼き付いていく。思考の奥の奥の方で、石が10センチほど浮き上がる光景を想像する。
石を浮かせるのは私だ。
最近知ったばかりの神様じゃない。神様は今までの人生で一回も助けてくれなかったし、傍に居てくれなかった。常に存在していたのは自分だけだった。
私は、孤独だった。
「偉いよ、イルファ」
青年が微笑む。石は確かに浮いていて、歩みを止めていないにも関わらず全くぶれることがない。
「やっぱり素質がある。君を僕の弟子にしたのは正解だった」
「あ、ありがとうございます」
「いいんだ、いいんだよ……僕は嬉しい。君を弟子に出来てとても嬉しいんだ」
誰かに存在を喜ばれる、という希少な体験を、イルファは生まれて初めてその身に受けた。彼女の親も含めて誰一人として、その生を歓迎して愛することは無かったからだ。
唯一私に微笑みかけてくれた人。会えて嬉しい、一緒に旅が出来て嬉しいと言ってくれた人。きっと世界で一人くらいしかそんな人間は存在しないに違いない。
そうイルファは確信を強める。
「ははは、めちゃめちゃ険しい顔になってるよ、どうしたの」
「なんでもないんです。なんでも」
「そうか……ああそうだ、もういい加減敬語はやめてよ。何度も言っているだろう?」
ぽとり、と浮いていた石が手の中に落ちた。ルフトは少し首をを右に傾けて笑っている。
「僕は君の師匠だけど、そういう堅苦しいのは嫌いなんだ。この世界のことを何でも教えてあげるし、操術の使い方も教えるよ。分からないことがあったら僕に聞いてくれればいい。間違ったことをしたら正してあげる。正しいことをしたら褒めてあげる」
君のことを見ていてあげる、と彼は言う。
「だけど一緒に旅をするわけだから、敬語だと疲れちゃうよ。もっと楽に行こう」
「楽に」
「頼むよ」
「はい……じゃない、」
「うん、でしょ」
「……うん」
イルファは偉いねと、彼が手を伸ばして頭を撫でる。さらさらと美しく流れる髪を指に絡めながら、夜が迫って一層輝く空を見上げた。雲が駆けるように去っていく。
「イルファ、世界は広い。君が正しく真っ直ぐ歩けるように、僕が導いてあげる。君なら出来るよ」
そんな立派なことは出来ない。私には無理だ。
とは言わない。イルファは何も言わずに前を向いて、延々と続く道の先を見通そうとした。あまりに広くて遠くて、そもそもどこに向かっているのかも分からぬ不安が、この安らかな東の大地を満たしている。頼れるのは隣にいる、この美しい男しかいない。それは安堵するべきことなのだと、彼女は何度だって自分に言い聞かせた。
「まだまだ広い野は続く。目指す桜の森はずっと先だ」
「桜の森?」
如何にも、とルフトが頷く。曰く森を構成する木のすべてが桜だという、とても変わったところなのだそうだ。
「珍しいだろう?この季節は丁度見頃だし、有名な観光地さ。人が集まれば仕事もある、路銀稼ぎにはおあつらえ向きだろうね」
それに、と付け足して微笑む。
「その村にはちょっと変わった風習があるらしくてね、気になるんだ。僕の旅の目的は覚えているかい?イルファ」
生まれ育った村から助け出された運命の夜、近くの村に辿り着くまでの間、魔法使いを自称するこの青年は旅の目的を語った。
それから何度も、繰り返し聞かされている。
イルファはそれを、正しく理解しているとは思っていない。どうしてこの青年が国じゅうを旅して回っているのか、聞いても聞いても真意がつかめない気がするのだ。だから、飽きることなんてない。
分からないから飽きないのだ。
「世界は常に変化している。変わる前と、変わった後を認識しなければならない。その特異性に心を揺さぶられることこそが、僕の生きる意味だ。いいかいイルファ、魔法を探すんだ。魔法は常に刷新され、あるいは忘れられた力が蘇り、または脈々と息づき……この世界の至るところに根付いている」
もうすぐ夜がやってくる。今日もどこかに宿を乞う。誰も彼もがルフトを恐れ、気味悪いものと断定するが、しかし家へ招き入れる。追い返したら何をされるかわからないという根拠の無い恐怖と、どこかで操者の力を望んでいる人間の貪欲さが、旅人達に壁と屋根、暖かい毛布を与えるのだ。
「各地に存在する魔法を探すんだ。いいね?」
イルファは頷いた。師匠の言っている事は難しくてよく分からなかったけれど、与えられる命令は単純だ。
これさえ守れば、イルファは孤独にならない。変える場所のない彼女が世界に取り残されることなどないのだ。
東の野にいち早く夜が訪れる。道は寒々と続いていた。
差別は深く、根付いている。