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涙も血も、流れるのは二人分。
ギギ、と錆びた金属が擦れるような音が聞こえる。
「ちょっと、うるさいよ」
すぐにマニを咎めたルフトは、不機嫌そうに鼻を鳴らした。深く椅子に座ると、左手で真っ白い髪を弄り続けている。
ずっと何かを考え込んでいるようだった。
貸し与えられた小さな部屋に籠って、旅人たちは押し黙っている。原因はルフトが口を開かないからだが、空気は今までになく重かった。心ここにあらずといった様子の師匠を気遣いながら、イルファは居心地の悪い思いをしている。まるで二人で旅を始めた頃に戻ったかのようだった。
「う、うるさいとはなんだ、うるさいとは」
「前も言ったよね、歌うのはやめて。集中力が切れるどころか酷い頭痛に悩まされることになるからさ」
「音楽というやつを理解していないな、相変わらず」
「鳥頭が何言ってんの」
「ふん……シエヴィアは私にそのようなことを言わないぞ。小僧め、知るべきを知らない人間めが」
そういえばシエヴィアがいないね、と呟いたルフトは、不審そうに部屋の中を見回した。いつも喋らず気配を薄くしている少女だけれど、彼がその存在を忘れることはなかなか無いのだ。
「どこへ行ったんだろう。僕としたことが、つい考え事に頭を支配されていた」
もちろん、いつも肩に乗せてもらっているマニは彼女を見失ったりしない。胸のあたりにあるふわふわの毛を膨らませてちいさな身体を偉そうに反らす。小僧には分かるまいよと、言葉さえ聞こえてきそうだ。
「ルフトくん、窓の外を見てよ。ほらあそこ」
「な、折角のチャンスなのに、どうしてすぐ教えてしまうのだ!?」
「何のチャンスよ……」
イルファが指した外の景色は、広い緑の村の光景だった。その真ん中にぽつんと少女が座っている。
彼女はルフト達に頼りない背を向けて、膝を抱えていた。視線の向こうには何人もの村人が踊っている。
「ここに帰ってくる途中、いきなり足を止めてな。根っこを生やしたみたいに動かなかったから置いてきてしまったのだ。窓から見れるし問題ないかと……っていうか、小僧もその時一緒にいたではないか」
「そうだったっけ……全然覚えてない」
ルフトが窓を大きく開くと、途端に音楽が流れ込んできた。耳にしたことのない音とリズム、独特な音階が頭に残る。シエヴィアが見つめる先には何人もの村人達がいて、踊るようにして奏でていた。
へえ、と感心したように笑う。
あの音楽にだろうか、それともシエヴィアが何かに興味を示したことにだろうか。
ルフトはふらりと立ち上がると、椅子に掛けていた外套を身に纏う。
ついていこうと腰を浮かしかけて一瞬の思考の後にやめたイルファは、待ってるねと微笑んだ。ここから見えるし、何も自分が一緒にいなくても問題は無いはずだ。
「あの楽器が何で出来ているか、分かるかい」
いきなり隣に立ったルフトに目を向けることもなく、少女は首を振った。
「角だよ、動物の角。独特だろう?かつてここら辺一帯で飼われていた家畜のものさ」
「……かつて?」
「いかにも。彼らはもう、この世にいない」
シエヴィアの隣に座った彼は、膝の上に左肘をついて顎を乗せる。ぬるい風が白と黒の髪を靡かせていた。
両手に余るほど大きくて太い角を抱えている男性が全ての中心にいた。黒色の金属が白い角の表面を滑らかに伝っていて、彼は息を絶え間なく吹き込みながら指を動かしている。低く大きな音で、リズムを作っているのだ。
その周りを、少し小さな角を持った男女がくるくると跳ねている。奏でる音は少し掠れた鳥の歌のよう。
角の中をくり抜いて、息を吹き込む口と音孔を開ける。楽器全体を伝うような金属で滑らかに補強したり、大きめのそれを塞ぐキィが付けられていた。
「最近になって、中央から新種の生き物がやって来た。そいつらはあの角を持つ家畜をみんな殺してしまったのさ。人間たちは食い扶持を失って困り果てたが、ある時、新種の生き物が今まで飼っていた家畜の上位互換だということに気付いた。肉も毛もずっと多くとれるし、何より人間に従順なんだ」
じっと、シエヴィアは話を聞いている。
「でも、村人達は死んだかつての家畜から角を切り取り、あの楽器を作った。いいや、楽器自体は古くからあるんだけどね、最後の作品になるだろうから」
「今使っている角が、最後ですか?」
「そうなるだろう。あれが壊れたら今耳にしている音楽も死んで蘇ることは無い」
そうですか、と呟いた。少女の真っ黒い目は真っ直ぐに角へ向けられている。音は一層大きくなり、ひゅうひゅうと鳴る風のような雑音も大きくなった。それすら音楽の一部だった。
「気に入ったかい?」
「分かりません。でも気になります」
ちいさな角に口をつけた女性が、ソロで奏でながらくるりと回る。音も一瞬ひっくり返って、また何事も無かったかのように旋律は続く。途切れて、薄れて、また叫んでは歌って、延々と。
「もう死んでしまった命を吹き込もうとしたんだと思うよ。角っていうのは生き物の強いアイデンティティに通じている。壊れてしまうまでは残しておこうと」
「死んでしまった、命を?」
「そうとも。消えかけた蝋燭から火を移して、油の盆に灯すようにね。器が死んでも、火が死に絶えることはない」
少女が少し俯いた。ちいさく口を開いて何かを言いかけ、しかしまた閉じては迷ってを繰り返す。珍しいことだった。
「鏡に火を映したら、二つになりますね」
へぇ、とルフトが目を見開いて笑った。
「そうだ。火は二つになるね。一つが消えてしまう時までどちらも燃え続けるだろう。でもそれは鏡だからだよ、シエヴィア。二つの火は完全に同じものなんだ。それでは不完全なのだと思うよ……命の長さは変わらない」
増えたのに? と首を傾げた。シエヴィアにはまだ、鏡写になっている大きさの変わらない二つの火と、短い蝋燭に散りかけている火とそれから移された赤々とした炎の違いが分からないのだろう。
「どうせ死んでしまうのなら、火だけでも別の器に移さなきゃダメだ。例え大きさが変わっても、本質が変わってもね。絶えてしまったら終わりなんだよ、君にも分かるだろう」
きっと、とシエヴィアは言う。きっといつか。
◇◇◇◇◇
ガン、と壁を叩いた。手に伝わる痛みすら生きている証。
本当は俺が俺である証でもあるのかもしれなかった。でも、この感覚が自分のものなのか自信が無かった。
歩く。息ができる。壁を叩けば痛いと感じることも全て、俺が享受するものでは無かったのだ。いいや、今だって受け取るのは俺じゃないのかもしれない。
この身体の内にいる、誰か?
部屋にひとつある、壁に埋め込まれた姿見の前に立つ。
アイテルが俺を見ている。
冷たい、酷く侮蔑的な目を俺に向けている。これは俺がアイテルを見る目のはずなのに、俺が見られているのはどういう事だろう。
俺は確かにここにいるのに、アイテルは鏡の向こうからこちらを見ている。
「お前の……お前のせいだよ」
俺が言う。アイテルが言う。
「アイテル、お前がそんなんだから……クレメは、俺は」
飄々と、何もかも自分と関わりのない世界の出来事だとでも言うかのように振る舞う、アイテルのことが本当に憎かった。彼は本当に普通だったのだ。母親と二人で暮らす彼は穏やかで、冷静で、クレメルに対して酷く冷たかった。それだけの人間だった。
物語で親しんできた剣と魔法の世界に生きているくせに、どうしてアイテルは平凡なのだろうと何度思ったことだろう。
俺と違って歩けるくせに。自由なくせに。夢のような世界に生きているくせに……どうして。
どうしてお前は、クレメルを助けなかった?
「お前がやることと言えば、ただ剣を振り回すばかりだ。ツェスト、だっけ? その夢がどれだけ大事だって言うんだよ。恵まれているくせに、どうしてそれを当然のように享受出来るんだ? どうして?」
アイテルを夢に見ていた時も、今も変わらないことがある。
「こんなにつらい思いをするのは……全て、全てお前のせいだよ……! おい! 聞いてるのか……! 聞けよ! 俺の苦しみを、聞いてみろよ!」
何度も鏡を叩いた。俺が病人のままだったならこんな動きは出来なかったけれど。
繰り返し、繰り返し。
鏡の向こうのアイテルが、顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら、ここから出せと泣いている。




