10
後ろに潜んでいる。
「結局誰もいなかったのだな」
また木と草を分けながら道へ戻ると、旅人たちは道を辿って西へ歩き始めていた。
そうだね、と頷くルフトの周りを、マニがぴょんぴょんと彷徨いていた。翼をあまり使わぬように気をつけながら、枝から枝へと飛び移る。
「おかしいな、奴らが森の外に出るところを見ていないのだが」
「鳥ちゃんだって森じゅうをいつも見れるわけじゃないでしょ。見逃してたっておかしくないというか、その方が自然だと僕は思うけどね」
「ふむ……それもそうか」
足が疲れたのか、ふうっとため息のように息を吐いて、ひとつの枝に留まった。ルフトたちはその間も歩き続けているためすぐに置いていかれてしまう。
あまり離れてはいけないと、慌ててあとを追う。
「ま、まあこの森ともおさらばだ。気にしても仕方が無いな」
「その通りだよ。これからのことを心配した方がいい……僕達と旅をするなら、常に人の目に晒されるということだからね」
マニが少し首を縮める。
「う、上手くやろうではないか」
人間には慣れていないのでな、と言う。それにしては流暢に人の言葉を話すし、仕草も所々から人間味を感じるのだが。
ルフトの言う通り、操術で鳥に化けているだけで元は人間なのだろうか? それとも。
「ああっ、そういえば思い出したぞ! 小僧、貴様は私に出身地を黙っていたな」
急に大きな声を出すと、つやつやの羽を毛羽立たせる。
「カルラとかいう娘に言われて答えていたではないか。北の出身とは聞いていないぞ」
「聞かれていないからね」
事実、イルファだって知らなかったのだ。かなり長く一緒に旅をしているのに、彼の出身地を聞いたことも無かったしルフトから話すことも無かった。
さらりと言ってしまうあたり、特に隠すつもりもないのだろうか。
しかしマニは不服そうに、一層彼の周囲を邪魔するように飛び回っている。
「私が北より飛来したことを言った時に、貴様も言ってくれれば良かったではないか。同胞がいるといないとでは大きく心持ちが違うのだぞ」
「えぇー、出身なんかどうでもいいでしょ」
「全く良くないわ!」
いよいようざったくなったのか、ルフトが左手で軽く鳥を追い払う。
それにしても、北か。
今や国教となったエアタ教は、確か北から伝わったのだったか。
後に教祖となる伝記作家が、旅の末に辿り着いた場所。神様に出会った場所だ。
イルファは想像の手を伸ばす。冷たく厳しい北の土地でルフトは生きてきたのだ。そこで何を経験し、いつ腕を失って、カルラと出会い、自分を弟子にしたのだろう? 彼のことは分からないことばかりだ。
ルフトが自分のことを話さないからかも知れない。
イルファが何も聞かないから、かも知れない。
決して知りたくないわけじゃない。でも、質問をするのは怖かった。踏み込んでしまえば、その分だけ彼が遠のいて行く気がするのだ。
でも。
何も聞かないなら、無関心と同じなのだろう。
「おい小娘。確か、名はイルファと言ったな」
気がつくと、ルフトに追い払われてしまったらしい銀の鳥がイルファのすぐ側の枝に移動していた。真っ赤な目で顔を覗き込みながら、優雅に首を傾げる。
「そ、そうだよ」
「ふむ。私の名前は覚えているか?」
「マニ、でしょ」
名前を呼んでもらったことがそんなに嬉しかったのか、ふふんと満足そうに笑った。
「そうだ。お前の師匠はいつまで経っても私の名を覚えられぬようだからな。弟子の方が余程、優秀らしい」
ついつい鳥さんと呼びたくなってしまうのだが。
「私と話をしようではないか。気になるのだがな、どうして小僧のような生意気でどうしようもなさそうな奴と旅なんてしているのだ?」
「ちょっと、人のこと悪く言い過ぎじゃない?」
むっとして口を挟んだルフトを無視して、どうなのだ? と問いかけてくる。
シエヴィアもカルラも、今まで出会ってきた人のほとんどが踏み込んだ質問をしてこなかった。それは無関心なのか、イルファ自身のように気を遣っていたのか。
「……ルフトくんは私を助けてくれたし、操術も教えてくれたの。だから一緒に旅をして、もっと色んなことを知って、」
そして。
「右腕に、なるの」
彼が失った右腕に。
「それは……ほう、大層なことだな」
「でしょ、頑張らなきゃいけないの」
「イルファのような優秀で素直な弟子が右腕とは、小僧には勿体ないと思うが」
無駄なこと言わないでよね、とルフトが噛み付く。そこでまた、一人と一羽の口論がイルファを挟んで始まるのだった。
騒がしくなった周囲をBGMにして、彼女はちょっと笑った。右腕と言ってもきっとマニは誤解している。弟子とか助手とか、そういった意味での右腕とは全く違うものになりたいのだ。
本当の右腕になりたい。彼が力を振るいたい時に、代わりにイルファの右腕を使うのだ。
そうしたらきっと、半永久的に一緒にいられるはずだから。
疲れてしまったのか、マニは最後に弱々しく飛んでシエヴィアの近くに移動した。黒髪の少女は何にも全く目もくれず、真っ直ぐに前を向いて歩いている。
「……ええと、小娘、確かシエヴィアという名だったか?」
こくり、と無言で頷く。
「わ、私の名前は覚えているか?」
「マニ」
「そう、そうだ。なんだ案外しっかりしているではないか」
鳥がほっと息をつく。
「シエヴィアという名も優雅で美しいな! よく似合っているぞ」
「……そうですか?」
初めて少女がマニに目を向けた。突然興味を示されたことに動揺しながら、またぴょんとジャンプをする。
心なしか、シエヴィアの黒曜石みたいな瞳がいつもより大きく見開かれている気がする。気のせいかもしれない。
「そうですか?」
「うむ。とても似合っているぞ、素晴らしい、素晴らしい」
ちょっと慌てたように褒めるマニを、じっと凝視している。
「……シエヴィアも喜ぶと思います」
「うん?」
少女がピアノであることも、人間の少女をモデルに作られたことも理解していない彼は、小さな頭を傾げた。しかしすぐに首を振って疑問を散らしてしまうと、些細なことはスルーすることにしたらしく、気を取り直して翼を広げた。
「しかしシエヴィアは、小僧に比べて良い人間のような気がするぞ。仲良くしようではないか、なあ」
「そうですね」
「うむうむ……ところでシエヴィア、ひとつ頼みがあるのだがな」
なんでしょう、とピアノ。
「肩に、乗せてくれぬか」
広げた翼を弱々しく動かして、言った。
「私だって頑張っていたのだが、その、君に石をぶつけられた翼が少し痛むのだ。出来るだけ飛ばぬようにしていたら足も痛くなってきたし……」
「どうぞ」
頼んだくせに了承されると動揺して、ぱちぱちとまあるい目を瞬かせた。
躊躇している間も歩き続けるシエヴィアを追って、ひらりと細い肩に飛び乗った。マニが乗った瞬間は身体を不安定に揺らしたが、表情一つ変えないシエヴィアは、何も無かったように歩いている。
「ちょっと、何乗ってんの」
むっとして睨んだルフトに言葉を返したのは、珍しいことにシエヴィアだった。
「いいんです。名前、褒めてくれたので」
「重かったらそんなの、落としてやったっていいんだからね」
「いいんです」
君がいいならいいんだよ、と微笑んだ彼は、その美しい金色の目を道の先へ向けた。
心なしか、徐々に道が明るくなってきている気がする。もうすぐ西の出口なのだろうと言われなくても分かった。明るく、よく整備されて、怪物のせいですっかり生き物も逃げ出してしまった静かな森はもう終わりに近い。
だが、まだ仕事は終わっていなかった。
道の真ん中に人影が見えるのだ。
見たこともない人間だった。男性が二人、何をするでもなく一人は座り込み、一人は寝そべっている。
「……おや、あれはもしかして」
ルフトがそう呟いて、少し足を速めた。
近づくと、彼らは土や葉で酷く汚れていた。座り込んでいたのは若い男性で、寝ているのは壮年の男性。二人とも、右の肩から手先までをすっぽり隠す緑色の外套をバッジで留めている。
ツェストだ。
近付いた旅人たちに気づいて、若い男性のツェストが弾かれたように顔を上げた。
「も……森を抜けてきたんですか?」
「ええ、東からね。あなた達を探していた」
「怪物は?やられなかったんですか」
一瞬、弟子と師匠の視線が交錯する。
「もちろんやられましたよ。気絶してしまってね、なんとか気がついてここまで歩いてきたところです」
症状が軽くて助かりましたとルフトが嘯く。
「そうだったんですか……あ、俺は西に在中しています。この、気絶している方は先輩で……いつもは東に」
横たわったままぴくりとも動かない壮年の男性を心配そうに見つめて、ため息をつく。気絶しているということはマニの歌のせいかと思ったが、何やら様子が違うようだ。肩に、鋭い刃物によってつくられたような深い傷があって、そこに血が固まっている。
「俺が森に入ると、程なくして先輩と鉢合わせになりました。東からずっと歩いてきて、何も異変はなかったと報告を受けたところまでは覚えているんです」
その後の記憶が無いという。
「目が覚めたら向こうの茂みの中で、近くに彼も倒れていました。俺は全然大丈夫なんですけど、先輩はこの通り傷だらけで……なんとか背負って道に出た所だったんです」
聞けば、もしかすると誰かに背後から殴られたのかもしれないという。目を覚ました時に後頭部に痛みがあったそうだ。
ルフトはすっと目を細めると、気絶している男性の肩を自らの左肩で負った。
「とにかく、もうすぐ西の出口でしょう? 早く出て治療した方がいい。左側、持てますか?」
「は、はい」
手伝いますかと進言したイルファを微笑みで制すると、明るい方へ、出口へと進んでいく。
背後に、得体の知れない闇を残して。