8
それが、英雄譚の始まり。
瞬きをしても、その少女は消えない。
作り物のように美しい彼女は、また「助けてください」と繰り返した。言葉に反して無表情に、落ち着いた様子で。
「えっと……君は? お父さんとお母さんはいないの?」
「いません」
マリウスはますます混乱して、ロゼッタに助けを求めた。
「み、見られても困るわよ……」
困惑する二人をぼんやりと眺めながら、黒髪の少女は首を傾げた。
「助けてください」
「わ、分かった。俺たちはどうすればいいんだ?」
「怪物、から助けてください」
「……怪物だって?」
途端に青年の表情が厳しいものに変わる。さっきまで気絶していたせいで、いまいち危機感を失っている頭を振って、素早く周囲に目を走らせた。風で葉が擦れる音だけが辺りを満たしている。
「怪物に襲われたのか?」
「はい」
「お父さんとお母さんは、無事か?」
「……」
少女は黙り込むとややあって道の向こうを指さした。
マリウスとロゼッタは、あっちに両親がいるのだと解釈する。
昔から正義感が強かったマリウスは迷いなく立ち上がった。身体のどこにも不具合がないことを確認すると、腰に差したごつい剣に触れてからロゼッタに手を差し出す。
「行くよ。怪我はないよな?」
「マリウスより丈夫よ」
慣れたように言い返して、二人は西へ歩き始めた。後ろには無口な少女を連れている。
その先には、予定通り怪物が待ち受けていた。
はじめ、道が途切れているのかと思った。ど真ん中に大きな木が生えているせいで、視界が遮られたのだ。もちろんそんなことは無いのだが。
ここはよく整備された森だ。有り得ない。
近付くと、確かに木だった。
太い木が何本も絡むように生えていて、集まることでひとつの大木のように見える。それだけではない。幹のあちこちから、多方向に木が生えていた。巨大で歪なイガグリのようにも見えるが、一言で表してしまえば異様だった。
「なに、これ」
乾いた声でロゼッタが呟く。
「木、なのかしら。でもこんなの……有り得ない」
マリウスが剣を抜く。
「どうやってこんなものが……」
「ロゼ、下がれ!」
木の塊がぶるぶると震えたかと思うと、枝と幹の奥、その球体に近い身体の中心に近いところで何かが煌めいた。
眼球だ。
血走った目がぎょろりと動いてマリウスを捉える。
「なに……こんなの、」
「ロゼ!」
怪物だった。それは突然、激しく全ての幹と枝を揺らす。唯一生物らしい目も狂ったように脈絡なく震えた。
そして、彼らの頭上に降り注ぐあの音。
突然だった。怪物のどこにも口なんてないのに、あの錆びた酷い音がなり始めたのだ。脳が軋むような感覚によろけたマリウスは、しかし、倒れなかった。
視界が歪む。目の奥が潰れそうだ。でも、立っていられる。
「ロゼ……ロゼ、下がってろ。俺がやる、いける」
マリウスはぐっと手に力を込めて剣を握りなおした。その切っ先を怪物の目に向ける。
やれる。
やれるはずだ。
「だって、こいつは……」
この怪物は。
一歩踏み込もうとした時だった。マリウスの両脇を凄まじい勢いで風が吹き抜ける。そして、彼の肩に熱い手が置かれた。
「下がんのはマリウスの方でしょ。おっそい」
「……え?」
「もう! 下がっててよ、邪魔!」
てっきりこの音にやられて倒れていると思ったのに、ロゼッタは彼を乱暴に突き飛ばしてその左手を怪物に伸ばした。小指のないそれは細くて弱々しいけれど、発される操術は強い力を持っている。
彼女の力によって圧縮された空気は、刃のような形を保ちながら飛んでゆく。透明の凶器があるところは景色が歪んでいて、目に映らないはずなのに認識できるのだ。
しなやかに、鞭のようにしなって怪物の枝をざっくりと切り落とす。一瞬、音が止んだ。
「な、なんで前に出るんだよ!」
「マリウスが遅いからでしょ? 怖気づいている暇ないよ……!」
鋭い音を立てて風の刃物が猛威を振るう。縦横無尽に駆けたそれは、震えることしか出来ない怪物の身体を次々に切り取っていく。こうして見ると、本当にただの木だ。
これが、噂の怪物の姿だというのか。
そう考えることが、既に油断だった。
一層激しく眼球を煌めかせたそれは、ややあって金属と金属を擦り合わせたような、悲鳴のような音を発して彼らの耳を穿つ。
流石のロゼッタもぐらりと体勢を崩した、その時だった。
怪物から切り落とした大量の枝や周囲に転がっていた石が、ふわりと宙に浮いたのだ。
「……えっ」
魔法のように、浮いて。
次の瞬間、凄まじい速さで二人に向かって飛来した。その身体を貫かんばかりの勢いだ。
全く想像していなかった現象に、ロゼッタの集中力が完全に途切れる。
「ロゼ!」
剣を素早く振るったマリウスが、ロゼッタに直撃しそうな枝や石をなんとか叩き落とす。今度は彼が前に立った。
「だから下がってろって言ったろ!」
「な、なによ。嫌よ」
「何もすんなって言ってるんじゃない。お前の操術なら遠くからでも届くだろ!」
「分かってるわよ! 馬鹿」
何故罵倒されたのだろう。
大いに疑問だし反論したいのは山々なのだが、冷静なマリウスは頭を振って後回しにする。
再び鋭く迫ってきた枝を軽く斬る。ロゼッタは納得したのか諦めたのか、大人しく後ろに下がった。
改めて剣を真っ直ぐに向ける。怪物と目を合わせる。
もちろん感情は見えない。でも分かるのだ。あれには命がない。
マリウスにはそれが分かる。
だから、迷いなく戦える。
またあの音が酷くなった。でも何故か前のように気を失ったりはしない。
いける。
巧みに剣を振るって飛来する礫を弾きながら、マリウスは力強く一歩を踏み出した。そんな彼を追い越して、風の刃は飛んでゆく。
枝をまた切り落とす。
マリウスは前を見ている。
「くそ……!」
怪物の攻撃は猛威を増した。まるで嵐の中にいるようだ。風は確かに彼の背を押しているのに、礫は切り裂くような勢いで前から迫ってくる。
あまりの速さに、受け止める剣が弾き飛ばされてしまいそうだ。
目で追えない。
後ろからロゼッタの小さな悲鳴が聞こえた。どうやら、マリウスひとりでは守りきれていない。
当然だ。この勢いでは、そう長く戦っていられるはずがなかった。
躊躇してる暇なんて、ない。
「う……うあああああ!」
マリウスは走った。
脚に、腕に激しくぶつかる石と枝が彼の足を止めようとする。全身が痛い。音のせいで耳もやられていて自分の叫び声もろくに聞こえなかった。
視界も既にぐしゃぐしゃに歪んでいた。何も考えられなかったのに、彼は前に進む。
石がその頬を切っても、進むことをやめない。
剣を振り下ろすことを、やめない。
嵐を抜けて、ロゼッタの風のような速さで怪物の目前に迫ったマリウスは、両手で握りしめた剣を力強く振り下ろした。鉄でも切れよう、淀みなく眼球を斬った彼は、素早く剣を引いて今度は真っ直ぐに突き刺す。
ごとり、と。
怪物の末端の枝が落ちた。
ごとり、ごとりと崩れていく。地に落ちては消えてゆく。
やがて何もかもが姿を失った時、残されたのは膝をついて荒く息をするロゼッタと、ぼろぼろになりながら立ち尽くすマリウスだけだった。
何も無かった。身体が軋むような痛みと、揺れる頭痛だけが彼に残る。
「……ロゼ、ロゼ」
「言われなくても大丈夫よ。馬鹿にしないで……」
弱々しい声でも、憎まれ口を叩けるなら上等だ。
マリウスが振り返ると、幼馴染みは地面に座り込んで笑っていた。
「なぁに、あんたぼろぼろじゃん。まだ旅に出てそんなに経っていないのよ……馬鹿みたい」
「うるさいなぁ。こんなの、誰も予想してないんだから仕方ないだろ」
二人は笑った。
剣を仕舞おうとしたが、マリウスの相棒は激しく礫を弾いたせいですっかり歪んで、もう鞘に収めることは出来なかった。仕方なく、使い物にならなくなったそれを引き摺ってロゼッタの元に戻る。
手を貸して立ち上がらせると、彼らは辺りを見回した。
あの黒髪の少女は逃げてしまったのか、どこにもいない。
「戻ろっか。森の東のみんな、きっと心配してるわ」
「こんなぼろぼろで戻ったら尚更心配されそうだけどな」
「しょうがないじゃない。だって……」
私達、怪物を倒しちゃったのよ。