後編
過去に火を放ち、灯火にしよう。
先に伸びる暗い道に躓くことがないように。
手を引かれるまま走り出し、牢屋の並ぶ離れを出て夜の空気の中へ出た。途端にごうっと低く唸るような音が恐ろしく背を押す。
「か、火事……」
振り返ると、離れの向こうにそびえる屋敷が窓から火を吹いていた。たくさんの使用人が傷つき、煤にまみれながら周囲を取り囲んで、水をかけたり叫んだりを繰り返している。
「これ、は……一体」
「偶然火事が起こったようだね。だから僕は君のところに乗り込むことが出来た。この混乱に乗じて逃げるよ」
旦那様、と叫んでいる。父はまだ屋敷の中にいるらしい。
「イルファ、走れるね?」
行くよ、と青年が急かす。火の勢いに圧倒されたのか動けずにいるうちに、使用人の何人かが少女に気付いた。
逃した者は厳しく罰すると、父が繰り返し使用人たちに言っていることを少女は知っていた。
「ほら行くよ」
とうとう二人は走り出した。靴を履いていない足が傷つくのに構っている暇もなく、少女は青年の手を離さないことで精一杯だった。
呼び止める声が追ってくる。そんなわけがないのに、父親の声のように聞こえた。あるいは、姉が死んでから一切顔を見ていない母親の声だろうか。引き止めるなんて、そんなことがあるはずないのに。
堪らず振り返ると何人もの使用人が追ってきている。このままでは程なく追いつかれてしまう。
逃げたら殺せと、父は彼らに命じている。
殺されてしまう。
親の命令で、殺されてしまう。
時間が止まったような気がした。振り返ったその先に、赤く燃える屋敷が輝いている。追ってくる人間は黒く塗りつぶされた影のように、見える。
来ないで。
もう誰も、留めようとしないで。
突然、先頭を走っていた男の使用人の腕が炎に包まれた。舐めるように赤く腕を食っていくのを見ている。
「止まらないで」
ルフトの声にはっとして前を向く。一層強く手を引かれて速度を増した時、視界の端で彼が握りこぶし大の丸いものを落とすのが見えた。
「い、今なにか落として……」
「気のせいだよ」
ただ走る。数秒後、何かがぽんっと爆ぜる音がしたかと思うと、地響きに似た振動とひどい熱波が髪を焦がした。驚いてまた振り返ると、よく見えなかったけれど、先程まで必死に追いかけてきていた使用人たちが大きな炎に包まれているのがちらりと闇に浮かんでいて、少女はそれきり屋敷の方に目を向けなかった。
「村を出るまでの辛抱だからね」
頷く余裕がない少女は、足を早めることで応じた。
軽いと思っていた足は、少しずつ鉛のように重く、苦しくなる。もうずっと走った記憶なんてなかった少女の身体は、想像より早く限界を迎えた。足の震えが止まらない。
「少し休むかい?暗がりに隠れれば少しは余裕があるけれど」
屋敷からだいぶ離れたところで、やっとルフトが走るのをやめた。
「だ、大丈夫です、はやく行かないと、」
「ならせめて歩こう。足元もおぼつかないみたいだしね」
すみません、と謝って出来るだけはやく歩いた。明かりのない村の外へ向かう道を、軋む身体を引き摺って進む。空を覆う雲が切れようとしている。月はひととき姿を隠して、一層先は暗い。小さな小さな村のはずなのに、いつ抜けられるかも分からないのは何故だろう。
しばらく歩いて、やっと、赤い光も騒音も遠のいた頃だった。
「イルファ!」
少女にとって聞き覚えがある声が背後から聞こえた。その呼び声は幻聴などではない。
あれは。
「ファセット……!」
息を切らして追いかけてきたのは使用人ではなく、何度も牢屋に足を運んではイルファに声をかけ、他愛もない話をしては励ましてくれた幼馴染みだった。
「どこ行くんだ! 待ってくれ」
「でも、私は……」
足を止めて向かい合う二人を、ルフトは表情を変えずに眺めている。
「ごめん……俺は臆病だった。君を言葉で勇気づけることしか出来なかった。でも今は後悔してるんだ、もっと色んなことをしてあげられたんじゃないかって。これからは違う! 俺の家に来なよ、一緒に暮らそう。ゆっくり村のみんなと打ち解けていこう。俺がついてるんだ、大丈夫だよ。支えていける」
「ファセット……でも私」
「そこにいるのは、今日この村に来た余所者の男だろ? そんな得体の知れないやつとどこへ行くんだ」
得体の知れない、余所者。
その言葉が胸に刺さる。イルファだって村の中では得体の知れない、右手の小指のない余所者だった。訳の分からない存在だった。きっとみんな、いなくなって欲しいと願っていた。
「……イルファ、彼がその幼馴染みかい? なら騙されるな。彼の根底を流れている差別意識から目を逸らしちゃダメだ。牢屋の中へ入ったのは誰だ?君を連れ出したのは?」
「分かってます、だ、大丈夫」
「そう、なら行こう。もう村の外だ」
少女はルフトと手を繋ぎ直して、歩き出す。
「イルファ、待って!」
確かにファセットは心を支えてくれた。牢に入ってからは、彼だけが世界との架け橋だった。でも今は、橋なんていらない。少女の前には広い世界が広がっている。魔法使いと名乗る師匠は彼女を助けてくれる。
「待たない……わ、私は行く」
「騙されてるんだ! そんな男について行っちゃダメだ、戻ってこい!」
「騙してるのがどっちだか、分からないよ」
もう振り返らなかった。
屋敷を飲み込んで夜空を焦がす炎と、幼馴染みを背に、イルファは歩き出す。美しい青年はひたすら前を向いて微笑むと、出来たばかりの弟子の手を強く握った。
「行くよイルファ。大丈夫だからね」
「はい」
何度も何度も名前を呼ぶ声が響いていたけれど、村を出ようとする私の手を掴んで引き止める力は無かった。後ろを振り向いてはいけない、と何度も心の中で繰り返す。私はもう戻らない。
帰る場所は燃えてしまったけれど、そもそもそんなものは無かったのかもしれない。私の居場所は。
「もう村を出る。ご覧イルファ、外だよ」
月が顔を覗かせて、どこまでも続く緑の大地と、その中を一本貫く土が剥き出しになった道が地平線まで続いている。あまりに広い空だった。見通そうと目を凝らしても届かないような、小さな自分を認識させられる世界。風が背中を強く押して、長い髪の毛が巻き上げられる。
ああ、これが世界。何に阻まれることもなく風が飛んでいく。
自分はなんて小さいのだろう。
この世界の事は何も知らない。本当に限られた空間で何も知らずに生きてきた。本の知識だって役に立たないだろうし、生きる力もなければ操術だって上手く使えない。
力もないのに、生きていくなんて。
「イルファ、君は一人じゃない」
背後で轟音が響き地面が揺れる。何か、大きな建物が崩れたのだろう。それが何だったのかを確かめる術はない。
「この世界はね、広いし厳しいよ。君が今まで体験したこともないような理不尽が平気な顔をして降り掛かってくる。怖いかい」
「こ、こわいです」
「そうだろう。でも、いずれ恐れるようなことは無くなる。僕が生きていくために必要なことを教えてあげるし、どんなに悲しくて怖くて孤独を感じることがあったとしても、僕だけは必ずイルファの味方だ。助けてあげる。どんなことがあってもだよ」
「私に……そんな価値があるとは、お、思えないんです」
「今の君は確かに、差別されて親に幽閉されていた何も知らない女の子だ。でもこれからは違う」
繋いでいた手を解くと、ルフトは少女の頭をそっと撫でた。親にもしてもらったことがないのに、彼は平然とやってのける。
「イルファは僕の弟子だ。これから強くなるよ。どんな危機も、君にとって危機ではなくなるくらいに変わっていく。そんな未来の価値が、僕の目には見える」
何にも変え難い価値だ、と彼は言った。なんだか全てが夢のようなのに、そんな不安を振り払うようにルフトは笑う。
「大丈夫だよ」
微笑む彼がこの世のものではない、物語の主人公に見えてイルファはただ頷いた。そうすることしか出来なかった。先のことに思いを馳せる余裕なんてないけれど、それでも彼が言うような未来があると信じたい。
「さて、疲れただろう?ごめんね、残念だけどおぶってあげることは出来ないんだ。ゆっくりでいいから歩けるかい?」
「へ、平気です」
「偉いね。すぐ近くに小さな村があるから、今晩はそこで休もう。夜が開けたら靴と服を見繕ってあげよう。そしたらまた出発だ。急ぐ旅ではないからゆっくり進んで、しばらくは牧草地の続く東の野をゆこう。目指すはその先にある、美しく鮮やかな森だ。真ん中に結構栄えている村があるから、しばらく働いてお金を稼ぎたいんだよ」
「お金、ですか」
「はは……ごめんね、実を言うとそんなに持ち合わせが無くてね、今後の旅のために稼いでおきたい。君にも何か手伝ってもらうけど大丈夫かい?」
「な、なんでもします、なんでも」
「よかった。無理はしなくていいからね。のんびり行こう」
なんてったって世界は広いんだからさ、と笑う。それがイルファの不安を生むのに、この魔法使いにとっては限りなく幸せなことのように。
王が支配し、エアタ教を国教に定めて操術を一般化したとある国、ミーヒェン。その国の東の果てで、とある旅人と少女が出会いました。
旅人は美しく整った顔立ちに、月のような金色の瞳。まだ年若いのに輝く新雪のような白髪を靡かせる、緋色の外套を纏ったその青年は、右腕を持たない、自らを魔法使いと呼ぶ変わり者でした。
一方少女は夕焼け色の長い髪と瞳を持つ、これまた美しい、右手の小指を切り落とした操者でした。
旅人は師となり、少女は弟子となって、日の昇る方角から長い長い旅を始めます。
手にするのは音楽と心、希望に、祈りと欲望。
導くのは光、与えられたのは鮮やかな色。
旅路を彩るのは絶えることのない炎と正義。
先に待つのは、見えぬ病魔。