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うわぁ、と珍しくげんなりした声を出したルフトは、迷いなくベッドに近付いた。森の中に突如現れた異様な空間に尻込みして、イルファはそれ以上動けなかったのだが。
肩を少し越すくらいの長さの金髪に、白い頬。安らかに閉じられた瞼。眠姫のように手を組んで、そりゃあもうすやすやと眠っていた。
すやすやと。
「おい、ちょっと、何寝てんの」
ベッドの傍らに立っているだけなら、物語に出てくる王子にも見えたのだが、ルフトは酷く雑に声をかけた。
それでも全く反応がないと見るや、彼はその左手を伸ばして、眠る女性の頬に触れた。
と見せかけて、耳から何かを引っこ抜いた。
「起きろ! 場所くらい弁えろ!」
「んぎゃぁぁうるさ、うるさい……」
どうやら、耳栓をしていたらしい。
耳元で叫ばれた女性は文字通り飛び起きて、きょろきょろと辺りを見回したあと、恐る恐るルフトに目を向けた。
白髪の青年はにっこり微笑んでいる。
「うわ、幽霊……?」
女性は、何故かそう言った。
幽霊、と聞いて思い浮かんだのは、やっぱりあのゴーストのことだった。散る桜の中で、ただ愛する人を盲信していた命の残滓。
彼女は笑った。怒った。
彼女は確かに、普通の人間のようにイルファの前へ現れた。
へレイが操者だったのなら、その婚約者のゴーストは本当に死者の魂だと言えるのだろうか? 操者が作り出す人間のようなものは、本物とほとんど見分けがつかない。
もしあれが作り物であるなら、イルファは本当の幽霊を知らない。
結局のところ、分からないのだ。
「寝惚けてんの? さっさと起きなよ……」
「は? いやだって、なんでここに」
「なんでって?」
「だって……その、ルフトだよね?あんたルフトだよねぇ?」
金髪の女性は、目を真ん丸に見開いてルフトを見つめている。
「……ルフト、でしょ?」
そうだよ、と彼は呆れたように答えた。
見守るイルファは呆然としている。根拠が無くてもなんとなく、ルフトのことを知っている人なんて、この世にいない気がしていたのだ。
どうしてだろう。
そう、初めて少女は悩む。自分と出会う前にも、ルフトの人生は続いていたはずなのに、と。
隣にいる人に過去なんて無いように思考を止めて。
積み重ねてきた全てから、目を逸らして。
そんなことをしてしまっていた自分に嫌気が差した。過去がない人なんていないし、何も積み重ねていない人も、誰にも知られていなかった人もいない。そんなの、幽霊より希薄な存在じゃないか。
「久しぶりだね、カルラ。元気そうで何よりだよ。少なくともよく眠れていそうじゃないか」
「ま、まさかこんなところで会うとは思わなかったねぇー……生きていたのね」
「当たり前だよ」
カルラと呼ばれた女性はまだ信じられないのか、何度か強く瞬きを繰り返した。
「い、一年ぶりかねー……?」
「そのくらい経つだろうね。森の中で優雅に眠っていらっしゃるとは、心底呆れたよ」
片付けたらと促されて、カルラはやっとベッドから降りた。そして、素早く左手を振る。
ガタン、とベッドの足が折れた。
一部が崩れ始めると、みるみるそれは崩壊して消えた。森の中にあった異質なベッドは、一瞬で跡形もなくなってしまったのである。
よく見れば彼女の左手には、小指がない。
操者だ。
「ふえぇ、よく寝たねぇー。目が覚めたら懐かしい奴がいたからびっくりしたけどね。何、どうしてこんな所にいるの」
「一年も経てば、僕だってすっかり移動するよ。定住するのはつまらないからね」
そうー、とのんびり頷いて、彼女はイルファに目を向けた。
「……年下彼女?」
「弟子だよ」
「はぁー?」
弟子ぃ?と素っ頓狂な声を上げる。そんなに珍しいことなのだろうか。
驚天動地とはこのことだねぇー、とさえ言うのだ。
「ちょっと、腰据えて話そうねぇ。色々さ」
一年前の話である。
ツェストとして任務を背負ったカルラは、北へ向かったという。
「本当はあんな寒いとこいきたくなかったんたけどねぇー……」
ぷくっと頬を膨らませて、まるで昨日のことに立腹するようにむくれた。
彼女はその行きたくない土地に仕事をしに向かったそうだが、酷い吹雪に飲み込まれ、道を見失って死にかけてしまったという。
「あれは死にかけていたというか、寝かけていたけど」
ルフト曰く、寝かけていたらしい。
「馬に乗ったまま酷い吹雪の中眠ってるやつがいて、流石の僕も驚いたよ。それより呆れたけどね。耐寒用の操術改造を施した馬に乗っていたとはいえ、操るツェスト様が眠ってるんじゃ、あっちへふらふらこっちへふらふら……」
「ちょっと、悪いように言わないでよねぇ」
寒さに晒された状態で眠ると危ない、と昔読んだ本に書いてあったことをイルファは思い出した。実際に眠っていただろうし、死にかけてもいたのだろう。
丁度近くの洞窟で吹雪が去るのを待っていたルフトは、偶然見かけたカルラを放っておけず、洞窟まで連れて行って助けたらしい。
「しかもその後、彼女の仕事まで手伝っちゃって」
「あぁーダメ、ダメだよルフト。それあたしが最後までやったことになってる仕事なのね。内緒だからねぇ」
と、そんな事があったようで。
一年前北の地で知り合った二人はその後すぐに別れ、カルラは中央に戻り、ルフトは旅を続けた。北から北東、そして東の果てへと。
そうしてイルファと出会ったのである。
「まだ北にいると思ってたよね。そんで、もう二度と会うことも無いだろって。それがまさか、休暇中に東で再会するとは予想外だったよねぇ……」
しかも女の子を二人も連れてる! とカルラが叫ぶ。イルファとシエヴィアを交互に見て顔をしかめた。
「可愛い弟子をひとりとって……え、その置物みたいな女の子は、何? 年の離れた妹とか、まさか娘ぇ……?」
「馬鹿言わないでよ、僕の大事な友人」
「ちいさなお友達ねぇ」
じろじろと見られても全く意に介せず、シエヴィアはぼうっと空を眺めて微動だにしない。ついでに、その近くの枝にとまっているマニも置物のように動かないのはどうしてだろう。
真似、してるのだろうか。
「ちょっと、あの変な鳥はなに。ペット?」
そうそう、とルフトが笑顔になった。
否定されなかったことがかなり頭にきたらしく、マニが垂らした長い尾をゆらゆら揺らす。
「はぁ、一年の間にますますおかしな人になったのねぇ。初めて会った時から変だったけど……それに何より弟子だって。魔法使いの弟子はやっぱ魔法使いなのかねぇ」
一年前も同じ自己紹介をしていたらしいルフトは、つまらなそうに「弟子は操者だよ」と答えた。
美しい金髪を掻き上げて、彼女は怠そうに目を擦った。
ルフトの過去を知っている人間だ。
弟子をとる前のことを少し知っている。イルファが想像を及ばせてもいなかった所に彼女は存在していた。
そのことが、何故か大きな失敗をしてしまったかのような後悔を呼んでいる。
「これでもあたしは休暇中でね、東のひとり旅をしていたんだけど、中央に帰る道の途中でなーんか変なことに首を突っ込んじゃったわけ。通る森に怪物が出てみんな困ってるっていうじゃん。これスルーしたら中央に帰れないし、何より上司に怒られそうなのねぇ」
あたしの上司は怖いのね、と付け加えた。
「でも眠くなっちゃってね、寝ちゃったのね」
「僕個人の意見だけど、いつも耳栓して歩くのはやめた方がいいと思うよ」
「やだよー、眠くなった時スムーズに、安らかに寝られるからねぇ」
なるほどと言いたげにマニが頷いている。カルラの前では言葉を発さない鳥になりきろうと努力しているらしいが、人間臭さを感じるそんな行動をしている時点で無駄な気がする。
不自然な銀色の鳥にちろっと目をやったカルラは、眉間に皺を寄せた。
「更に僕個人の意見を言わせてもらうと、寝る時にベッドを作るのは操術の無駄遣いだと思うけど」
「やだぁ、何のためにこんな力があると思ってるのかねぇ」
どうやらカルラの操術は、頭で思い描いたものを具現化出来るらしい。
「ま、現実にあるものなんて、自分のベッドくらいしか作れないんだけどねぇ」
ケタケタと楽しそうな笑い声が森にこだまする。
「あは。結局怪物は見つかんなかったねぇ。特に危害も加えられてないからいいんだけど」
ルフトは微笑んで、マニに優しい視線を送るとその目を呑気なツェストに戻した。また少し縮こまった鳥は、居心地悪そうに枝の上で足踏みをしている。
「怪物、か。カルラにちょっと相談があるんだよね。僕らはそいつを見つけたんだけど、ツェストに突き出すわけにもいかなければ、倒すわけにもいかないんだ。力を貸してほしい」
「……どういうこと」
「怪物を助けてあげたいんだ。協力してよ」
なるほど、と弟子は納得する。これならば、怪物を偽装することなど容易に出来よう。
「頼むよ、カルラ」
いつものように少し身体を傾けたルフトは、金色の瞳を真っ直ぐに注いでいる。困り果てて目を泳がせ、しかし周囲の人間が全員彼の味方をするだろうという事実を確認すると、カルラはがくりと肩を落とした。
「こ、困ったねぇ。嫌だねぇー……」
それは、一年前。