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その音は脳を殺す。
いやに美しい森だった。
木漏れ日さえ透き通るような葉の色に染まっていた。聞こえるのは風と、旅人たちが土と石を踏む音だけで、鳥のさえずりも小動物の姿もない。
生き物の気配が一切感じられない奇妙さに、イルファは軽い寒気を覚える。
確かに日頃からよく人が通る関所代わりの森らしく、石混じりの土の道は踏み固められていた。見通しの良い、人の手が行き届いた空間のように感じるのによそよそしく、安心感はなかった。
「ううん、静かだね。歌でも歌うか」
「ルフトくんが?」
「まさか、僕はそういうの苦手なんだ。シエヴィアはどうだい」
「私は音の鳴らないピアノです」
小さな声で端的に拒否したシエヴィアは、ルフトの半歩後ろをついて歩く。ちょっと俯いて地面を見つめて心ここにあらずといった様子だ。もっとも、旅を始めた時から絶え間なくそうだったのだが。
イルファは落ち着かなくて辺りを見回しながら、見落とすもののないようにゆっくり進む。人の姿は見当たらない。
しかしすぐに異変は現れた。小動物の死骸が土の露出した道のいたるところに転がっている。
ネズミ、小鳥やモグラのようなものも、すっかり息絶えてしまっていた。どれも死んでから数日は間違いなく経過しているようだ。
いよいよ気味が悪い。
何かがある、ということは確からしい。村の人は怪物だのなんだのと表現していて、今のところそれらしきおぞましい生き物も見ることが出来ないが。
いいや、案外人間かもしれないぞとイルファは思い直す。東の野で化物退治をした時は、結局、人間が作り出したものの残滓が相手だったのだ。
この小さな森に悪意を持つものが潜んでいて。
どこかから、こちらを。
「いいかい二人とも、いざとなったら先手必勝だからね。やられる前にやるんだ」
あははと気の抜けたように笑いながら、緊張感の欠片もないルフトが言う。
「先手必勝って……どうすればいいの?燃やすの?」
「それでもいいんだけどね、イルファ、君はまだ火を上手く扱っているとは言えないだろう。下手したら怪物や遭難者ごと焼き払ってしまうよ」
確かに。
「だからまあ、石でも投げればいいんじゃないかな。幸いそこら辺にたくさんあるし……そいつが姿を現したら操術で思い切りぶん投げてやるといい」
「うん、分かったよ」
「シエヴィアも、いざとなったら頼むよ」
ぼうっと焦点の定まらない目で道の向こうを映しながら、黒髪の少女はちいさく頷いた。
あんまり彼が気軽なものだからついつい気を抜いてしまう。不気味な森を歩きながらも、イルファはどこかで安心してしまっていたのだ。
だから、探していたはずの人間が視界に入った時、つい立ち止まってしまった。
森の半ばまで来た頃だった。道の真ん中に真っ赤なものが見える。
血のような深い赤髪をもつ青年が倒れていた。
ルフトは素早く周囲に目を走らせると、歩くペースを変えないようにしてジリジリと近付いた。それがいやにもどかしく感じる。
近付くと青年はうつ伏せに倒れていて、その下に庇うように、髪の長い女性を抱えていた。
目を閉じてぴくりとも動かない二人の傍らに膝をついて、ルフトが素早く呼吸と心音を確認する。
「……生きているね。気を失っただけみたいだ」
「こ、こんな所で?」
「道から外れたわけでもない。目を覚ませばすぐに村へ戻れたはずだけど」
もしかしたらこの近くかもね、とルフトが微笑む。命に関わらないからと二人をその場に寝かせたまま、彼は歩き始めた。
「いいの?あの人たち……っていうか、あの赤い髪の人って」
「もしかしたらマリウスかな。だからどうってわけでもないけど……僕らは彼を知っていても、彼は知らない。ほら、それより怪物をなんとかしないと」
残留する器官を知ったあの家で見た写真に、笑顔で写っていた少年。確か中央でツェストとして働いている父親に会いに行くために旅を始めたのだったか。
こんなに早く会うことになるとは思わなかったイルファだが、さらに言えば、本当に会うことも想定していなかった。
なんだか妙に胸が高鳴っている。
どうしたのだろう、落ち着かない。
「二人とも付いてきなさい。先に行くよ、早く」
ルフトが少し早足になる。倒れている男女から離れていく。
やがて彼らが見えなくなった時、頭上の木の枝からガサガサと音がした。はっとして見上げた。
その時にはもう、軋むような音が鳴り始めている。
「イルファ、石を……!」
間に合わなかった。
すぐ上の葉の茂みから、奇妙で恐ろしい音が降り注いだ。錆びた金属と金属を擦り合わせたような、切れそうなほど張った弦を断ち切った瞬間のようなそれが永遠のように鳴って耳を貫いた。全く噛み合わぬ不協和音が、空気を不安定に低く揺らす。
不思議と何より先に目が傷んだ。光がいやに突き刺さって、目の前が白く点滅する。景色が激しくぶれて、イルファは堪らず膝をついた。
右手を伸ばし、近くの石を浮かせようとする。
眩暈とフラッシュ、脳を貫くような音に倒れた。いくら慣れた作業でも、操術を使う集中力を保っていられない
はやく。
もう、終わって。
地獄のような時間だった。どさり、とすぐ隣で音がする。ルフトが膝をつく音だった。
小動物達が死んだ理由を知る。マリウスと女性が倒れた理由を知る。
なにも、できない。
痛みと吐き気、様々な苦しみに耐えることが出来ず、イルファはとうとう目を閉じた。