11
全てを超えて音楽は流れた。
魔法のように。
心なしか、ルフトの表情が固い。
誰もいなくなった部屋はがらんとしていて、そこかしこが劣化していた。手入れもろくに出来ていなかったのだろう、クモの巣や埃が部屋の隅を占拠している。
天井から吊り下げられた強い灯りが虚しかった。
部屋に一歩踏み入れるとテーブルに目を向けた。飲み物が底に残ったカップの隣に、見慣れないものが置かれている。
ガラスで出来た、手のひらで転がせるくらいの小さなスノーボールに見える。中にはとぐろを巻いた白い蛇のようなものが入っていた。
「なに、これ」
「……何だろうねぇ」
中は透き通った水で満たされ、きらきらと揺れる赤色の紙吹雪のようなものが蛇の周りをゆっくりと舞う。毒々しい見た目からして、あまり飾っておきたいものではないように思えるが。
「少なくとも、ここにあっていいものじゃない気がするねぇ」
「ど、どうするの?」
「隠し物探しのお代ってことで、貰おうかな」
にやりと笑って、ルフトは外套の下に隠していた麻袋を取り出して放り込んだ。
「大丈夫かな」
「大丈夫だよ。それより、奥に行こうか。本題はこんなもんじゃない」
部屋の奥にひとつ扉があって、寝室に続いている。床板を持ち上げると地下室への階段が現れるのだ。
イルファが右手でそっと空を撫でるだけで、へレイが苦労して持ち上げた床板はいとも簡単に浮き上がった。青年は手にしていたランタンを掲げて、迷いなく階段を下りていく。
閉塞した空気は、やはり牢屋を思い出させた。
恐ろしさに足が竦むけれど、初めてここを降りた時よりずっと落ち着いている。疑惑もすべて、イルファの心の中から消えてしまったからだろうか。
辿り着いた扉を、押し開く。
ルフトがランタンの灯りを消した。目が慣れると、天井近くの窓から差し込む月明かりで眩しいくらいになった。部屋の中央に小さなピアノが浮かび上がる。
自分の呼吸音が五月蝿い。
少女を苛む違和感は、いつもならここで軽口のひとつでも言うはずのルフトがじっと黙ったままな事に起因していた。何も言わず、笑いもせず、真剣にピアノを見つめていた。
真っ直ぐに月明かりを受けて、瞳の色が深くなる。
「ここで見ているんだよ」
ルフトが暗く呟く。少女は頷いて、鍵を手に歩き出す師匠を見送った。何かあったら火をつけようと決意して。
神聖な儀式を見ているようだった。
美しい青年が、赤い布に金の刺繍が入れられたピアノ椅子の埃を払う。外套を脱がずにそこへ座ると、左手に握りしめていた小さな鍵を、鍵盤のカバー部分の錠に差し込んだ。
かちゃり、と軽い音。
ルフトがカバーを持ち上げて、美しい白と黒の鍵盤を露にした瞬間のことだった。
閉じたままの屋根と呼ばれる蓋の部分に、見たこともない少女が現れた。
混じりけない黒の、真っ直ぐな髪を肩より下まで伸ばしている。それに溶けてしまうような真っ黒のワンピースを着て、対比するように肌は白い。
作り物のような美しさを持つ、少女だった。
彼女は蓋に座り、足をぶらぶらと揺らしながら首を傾げて空を見つめている。まるでずっとそこにいたように。
突如出現した少女に息が止まるほど驚いて、イルファは身体を強ばらせた。師匠に声をかけようとしても声が出ない。見ていることしか出来ない。
一方ルフトは全く動じなかった。物憂げな視線を持ち上げて黒髪の少女に向けると、静かに声をかける。
「やあ、良い夜だね」
「そうですね」
答える少女の声は無機質で、酷く美しい。じわりと首を回してルフトに目を向ける。
名前を教えてくれるかなとルフトが言うと、惑うように一瞬だけ視線を落として、少女は答えた。
「シエヴィアです」
「……そう、シエヴィア。僕はルフトだ。覚えておくれ」
少女は一切イルファに関心を向けなかった。鍵盤の前に座っている人間しかこの世にいないようだ、と彼女は思う。自分は完全な傍観者で、観客だ。
しばらくの沈黙のあと、シエヴィアと名乗った少女はルフトに問う。
「ピアノは弾けますか?」
「昔教わってよく弾いたよ」
「今、弾いてもらえますか?」
「見て分かると思うけど、僕には左手しかないんだ」
「構いません」
仕方ないね、と苦笑する。
へレイがこのピアノについて話をしていた時、確かに言っていた言葉を思い出した。これはうちに来た時から、初めから音が出ないガラクタだったと。
ルフトも分かっているはずなのに、優雅に左手を持ち上げて鍵盤の上に置く。演奏直前のピアニストらしい動作に、本能のように目を吸い寄せられて離せない。
彼は奏で始めた。
踊るように、流れるように左手だけが踊る。白鍵の上を滑らかに、黒鍵の上は少し荒々しく。
やはり音は鳴らない。ピアノの内部で弦を叩こうとハンマーが動く鈍い音が響いているが、響くはずのそれはなかった。
鍵が押される音、戻る音、ハンマーの音、指が触れる音だけで演奏される音階のない音楽が、終わるまで奏でられる。
やがて彼が息を吐いて緩やかに手を止めると、一瞬だけ項垂れて、シエヴィアを仰ぎ見た。
「とても、良い音楽でした」
「下手でごめんね」
「いいえ、そんな事はありません」
私を演奏したのはあなたが初めてです。
確かに少女はそう言った。
「君は自分をピアノだと思っていたりするの?」
「いいえ、私はピアノです」
当たり前だと言いたげに断言する。
「作られて初めて演奏してもらいました。もう、思い残す事はありません」
まるでこれから死ぬかのような物言いに、ルフトが眉をひそめる。
「私を作った人は、私に言いました。いつか奏でられる時が来たなら、それが終わりの時なのだと。演奏された私は私から離れ、どこまでも自由に生きるのだと」
もうここに座っていなくてもいいということです、と黒々とした蓋を撫でて呟く。
「自由にしてもいいということです。私は身体を捨て、どこまでも自由に歩ける」
もしも少女が豊かな感情を持っていたなら、微笑んでいたかもしれない。
そうかと頷いて、白髪の青年が代わりに微笑んだ。
「それで、自由になったシエヴィアは何がしたい?」
「私は……」
彼女は答える。
「私を作った人の、墓参りに行きたい」
「……その、作ってくれた人は死んでしまったのかい」
「はい、確かにこの目で見届けました」
「そうか……」
ルフトが少し肩を落とす。
「それは残念だ。ちなみに、その人の名前は?」
「分かりません。ただ、お父さんと呼ぶように私に言いました。私はお父さんの墓参りに行きたいです」
シエヴィアが白魚のような指を伸ばして、鍵盤の端を差す。
「その、蓋との隙間を見てください」
言われるとおりに探ったルフトは、程なくしてそこから一枚の写真を引っ張り出した。
「……イルファ、近くにおいで」
「うん」
やっと呼ばれたイルファが小走りで青年の傍に立ち、写真を覗き込む。
黄ばんで古びてしまったそれに、ひとりの少女が写っている。
「その方がシエヴィアです。私は、お父さんの娘である彼女の姿をモデルに形成され、名前を受け継ぎました。手がかりはそれだけ」
ルフト、と黒髪の少女は呼びかける。
「私をどうか連れて行って。身体を置いて自由になった私を、どこかへ」
「……いいだろう」
君を連れていく、と青年は答えた。
「いつか、ピアノである君を父親の元へ連れていける日が来るようにね。僕が君を連れていってあげる」
彼は椅子から立ち上がると少女の正面に立ち、左腕を彼女の背に這わせて抱きしめるようにした。そのまま抱えて、そっと地面に下ろす。
立たせてみると小さくて、イルファの胸のあたりまでしか身長がない。ほっそりとしたその姿は酷く頼りなかった。
「この子はイルファ。僕の弟子だからね、仲良くするんだよ」
初めてイルファに真っ黒な目を向けたシエヴィアは、微笑みもせずに頭を下げた。
「初めまして、イルファ。私をどうかよろしくお願いします」
奇妙な言い方にちょっと笑うと、イルファは緊張しながらも笑顔を見せた。
「これから、たくさんよろしくね」
夜に紛れて納屋に戻ると、ルフトとイルファは少しだけ眠る。シエヴィアは部屋の隅に座って、夜が明けるまでじっと、扉の方から漏れてくる微かな光を見ていた。
やがて空が白んでくると、ルフトはひとり納屋を出て、料理の下準備に終われる宿の厨房へ挨拶に行った。三人分の朝食と日持ちのする食料を調達し、世話になった礼を言って帰ってくると、時間をかけて食事をとる。シエヴィアは驚くほど不器用で、パンを千切ることにすら指を震わせていた。
「まあゆっくり慣れればいいよ。一日で三度も機会があるんだからさ」
「こうして見ると、本当に慣れていないんだね」
「ピアノですから。すみません、私は迷惑をかけます」
どこかズレたような会話をした。
村が徐々に目を覚ます頃、三人は納屋を出て西へと歩き出した。
もうすっかり見慣れた桜の森をゆく。村は背後へ遠ざかり、全てが終わってしまったことのよう。結局自分への疑いは半永久的に残るのだろう、とイルファは心の中で呟く。へレイが今生きているのかは分からない。
「ピアノに命を込める、なんて聞いたことがないけどね、もしそれが可能だとしたら凄いことだよ」
道中、ルフトが熱心になってシエヴィアに話しかけている。
「でもルフトくん、東の野で出会ったお爺さんも、操術で作ったんだよね」
「ああ、記憶を元に再現したんだろう。しかし僕としては、どうにも違和感を拭えない。あの御老人とシエヴィアでは何かが違うように感じるんだよ」
シエヴィアは魔法的なんだ、とまたよく分からないことを言った。
三人になった奇妙な旅人たちは、西へ向かう。
途中ですれ違った観光客に、首都へ向かうなら少し待った方がいいと声をかけられた。
「聞いたか、この先で怪物が出たってさ。そんなことを言われたらますます楽しみになっちゃうよねぇ」
化物、ゴーストの次は怪物だってさとルフトが笑う。また道の先が不穏になるのに、空は驚くほど晴れていた。
やがて桜の森の終わりが見えた。やけに長く咲いていた薄紅色の花も、葉を茂らせてごく普通の森のように振る舞うのだろう。
またゴーストのことを考える。
何度も、何度も。
命を桜と共に散らしてなお木の根元に座りながら、ただひたすらに盲信し続けるゴーストのこと。
愛した人は、今日も死の淵を彷徨っているだろう。そんな彼をいつまでも苛む彼女の愛は。
姿形も見えない。そこには無いようにして存在する、質量のない魔法。