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魔法病とセカイシンドローム  作者: Ria
プロローグ 過去に灯火
2/42

前編

 暗い、暗い夜だった。


 天井に近いところにある小さな窓から、弱々しい光が差し込んでいる。冷たい石の壁に背を預けて、少女は肉体に溜まった疲労を持て余した。座っているベッドは簡素なもので、とても寝心地が良いとは言えず、何より両足に嵌められた重厚な鉄の枷が、彼女を立ち上がらせるのを億劫にさせる。手を伸ばしても届かないところに置かれた水差しが、とてもとても遠かった。



 ここは牢屋。



 窓にはもちろん、扉も鉄格子が嵌められていて、外に出る事は叶わない。縛り付けられてはいないけれど、足枷が何より少女から気力を奪う。

 彼女は届きもしないのに、水差しに右手を伸ばす。



 飾りもない簡素な水差しは、ゆっくりと宙に浮いた。そのまま空を滑るように移動して、伸ばした手に収まる。


 水を、飲む。



 この行動に何の祈りも、思いもなかった。水が飲みたいから手を伸ばしただけ、水差しを呼び寄せて、また元の場所へ返しただけ。少女にとって難しいことでもなければ、特別意識を割かねばならぬことでもない。


 彼女は目を閉じる。辛うじて聞こえる虫の声が、静寂で耳を痛めるのを避けてくれていた。







 どのくらい経っただろう、遠くから何かが落ちる、カラカラという甲高い音が響いてきた。続いて陶器の割れる音、悲鳴、足音。


 何?


「水を持ってこい!」

「急げ、旦那様はどこだ!」

 使用人たちが慌ただしく屋敷へ走ってゆく音がする。離れの牢屋には誰も意識を向けない。水と言っていたが、もしや火事だろうか。だとしても、少女にとってそれは何の意味もない事象だ。家が燃えようと、使用人が死のうと、父はまた家を建て直すし新しく人を雇う。それだけだ。

 少女は変わらず牢屋の中。それだけ。


 月の光が差し込む牢屋は酷く色褪せていて、鮮やかさなど程遠い、ただの記憶の残滓にすぎない。



 しばらくはこの変わった音を聞いていようと、ますます耳を澄ますために目を閉じた彼女は、慌ただしい空気の中で唯一ゆったりと歩く者の足音に気付く。それは他よりずっと近く、この離れの中を移動する音だった。この牢屋の並ぶ退屈な建物の中を誰かがのんびりと歩いている。やがて近づき、暗くて見えはしないが、しかし目の前で止まった。

 少女の牢の前だ。


 空の雲が裂け、月の光が強くなったのだろう。白白と簡素な室内が照らされて、しっかりと錠がかけられた鉄格子の向こうの人影を浮かび上がらせた。


「こんばんは」



 少女に久しぶりの挨拶をしたのは、男性だった。聞いたことのない声。使用人ではない。


「こ、こんばんは」

「今日はいい月夜なのに、どうしてこんなところにいるの?」

 鉄格子の向こうまでは、ぎりぎり月光の手は届かない。影は見えても顔までは確認出来ない。背の高い、若い男性であろうということだけは分かるが、少女にそれ以上の情報は与えられない。

「好きで入っているわけでは、ない、です」

「そう?つらい?」

「多分……」

「慣れた?」

「はい」


 もうここで暮らして何年が経っただろう。


「ちょっと失礼するね、ここじゃ話しにくいし」



 失礼?と疑問に思ったのも束の間、男性が左手で少し錠前を弄ると、ガシャンと思ったより大きな音を立てて呆気なく外れた。続いて鉄格子の扉についている鍵も簡単に外すと、まるで友達の家にお邪魔するような気軽さで、失礼しますと扉を開いた。

「え、?え?」

「どんな気分で牢屋の中にいるのかって、実際入ってみなきゃ分かんないよねぇ。思ったより狭いし圧迫感がある。しかも冬は凍えるだろう」



 やっぱり背が高かった。ひょろりと線が細くて、北国で身につけるような緋色の厚い外套を引っ掛けている。月明かりの元に姿を現したその人は年若いのに眩いばかりの白髪で、驚くほど綺麗な顔をしていた。作り物のように整った顔に、もう何年も前に見上げた夜空に浮かんでいた月のような、金色の瞳が煌めいている。

 そして何より。

「あなた……う、腕が、」

「ああそう、これね」



 青年の右腕は、肩のすぐ下から先がなかった。服の袖だけがだらりと垂れ下がっているだけだった。



 青年はにこりと微笑んで、君の右手もなかなかだと言った。

 少女の右手の小指は、数年前、少女自身の手によって切り落とされてから存在しない。

「なかなかだ、なんて、冗談はやめてください。私はこの手のせいで、こ、こんなところに」

「君は操者なんだね」

 ソウシャ、という単語には聞き覚えがある。

「一般人には出来ないことを、手も触れず行えるもののことだ。自身の意思で体の一部を欠損させてその力を得た者を、外の世界では操者と呼ぶ」

「じゃ、じゃああなたも、ソウシャなんですか。さっき鍵を触るだけで開けていたし、」

「ははは、触っていただろう?あれはちょっと弄れば開くような簡素なものだったからね、操術なんて誰だっていらないよ。僕は確かに操者的ではあるが、操者ではない」



 確かに彼の右腕はないのだ。自ら腕を切り落とすことが可能かはさておき、多くの人が青年のことを操者だと思うだろう。

 しかし彼は微笑んで、律儀に訂正をして、突拍子もないことを堂々と口にするのだ。



「僕はね、魔法使いだ」






 昔、枕元で両親が読んでくれた絵本は、わるい魔法使いの物語だった。魔法使いは主人公を騙そうと、様々な罠を仕掛ける。

 でも。

 少女が最後まで魔法使いを悪人だと思わなかったのには、理由があった。



「魔法使い……?」

「ああ、そうだよ。僕は魔法使いだ」

「悪い人、ですか?」

「どうだろうね」

 彼はゆっくりとしゃがんで、だらしなく四肢を投げ出した少女に視線を合わせた。

「僕に教えて。どうしてこんなところにいるの?」

 遠くから次第に大きくなる悲鳴が聞こえる。その向こうに、何かが爆ぜる音が絶え間なく響いている気がした。












 少女の双子の姉が病死したあの日から、彼女は忌むべき存在として与えられたひとり部屋に閉じ込められることになった。



 双子、という存在は気味の悪いものとして疎まれることが多い。



「双子が生まれる時、後から出てきた妹の方は、姉の背後を追ってきた悪魔だと言われるんです。昔からここら辺の地域には、そういう伝承があった」



 姉が死んだのは少女のせいであると誰も口にはしなかったはずなのに、まるで最初から決まっていたようだった。屋敷の隅に与えられた小さな部屋が世界のすべてになり、彼女は本を読むことでこの世の隅々までと言葉を交わした。


 窓の外からは、限られた景色。

 流れてくるのは同じピアノ曲。


 本棚いっぱいに与えられた本は読み尽くしてしまった。どれもつまらない経済書や、子供向けの幼い物語ばかり。双子の片方が悪魔だという、少女の部屋に置いておくのはあまりに酷な伝承をベースにした小説もあった。



「ある日のことです。本の中に、姉が好んで読んでいた古い絵本を見つけました」

「それが人生を変えたのかい?」

「強い魔法使いの話でした。お話の中の彼女は自分の指を切り落とし、得た力で人生を切り拓いたんです……私はもう限界でした。何か、何でもいいから変化を起こしたかった。変えたかった」



 隙を突いて部屋を抜け出し、厨房から包丁を盗み出した。指を、切り落とした。



「どうだった?」

「三日間も寝込みました。酷い熱で浮かされて、部屋のベッドで眠っていました。やっと落ち着いて目が覚めた時、焼けるように喉が渇いて、水が欲しかった。動かない手を何とか持ち上げて、水差しを呼んだんです。私は水が飲みたかった」

 水差しは少し離れた棚に置かれていたのに、気が付いたらその手の中にあったのだ。



 そこまで話して、少女は初めて少し笑った。

「お父さんが部屋に入ってきたんです。やっぱりかって、私に言った。連れていた3人の使用人は私を無理矢理立たせて、離れの牢へ連れていった。朦朧としていたのに……よく覚えています」

「そうか。それから何年経ったんだい。誰か助けてくれなかったのかい?たかが操者になったくらいで人権が無視されるなんて、普通じゃないだろう」

「魔法使いさんがどこから来たのか知りませんが……ここら辺では、その、操者っていうのは恐ろしい悪魔みたいなものです。本当は殺されてもおかしくなかった」


 しかし少女は一帯の地主の娘であったから、ただ狭い牢に押し込められるだけで済んだと、そういうことらしく。



 時折少女の幼馴染みが無理を言って牢の前まで来て、彼女を何時間も慰めてくれた。夕方になれば帰って行ってしまうけれど、それでも心の支えだった。



「幼馴染みか。その人は君をここから出してくれなかったんだね」


 魔法使いは穏やかに、優しく少女に語りかけた。


「うちの父は村の中じゃ権力者ですから……仕方ないんです、彼はここから出してくれなかったけど、でも、私が少しでも救われるように色んな話をしてくれた……」

「さっきも言ったけれど、牢の鍵を開けるのは難しくなんてない。彼は他の人間に睨まれるのが怖くて君を助けなかったんだ」

「そ、そんな……そんなことは」

「僕は君の牢に入った」



 逸らしかけていた目は、また美しい魔法使いの目に吸い寄せられる。

「君の痛みは、君の世界に入らなければ分からない。僕以外に誰が君の牢屋の中にまで入った?誰が鉄格子を介さずに語りかけた?」



 もう目を逸らす事は出来なかった。聞いているだけで心が静まるような穏やかな声が、少女の心の奥で凍りついていた長年の孤独にヒビを入れていく。


 そこには月がある。

 高い窓から光を少し分けてくれる、姿の見えない星じゃない。確かな二つの月がある。



「今日の昼間、村で君を見かけた。君は遠方からの積荷が届くと手に縄をかけて引かれ、外に出されて、積荷を荷車や馬車に乗せる仕事をさせられていた。君は物を浮かせたり移動させるのが得意だ。重いものを動かすのは造作もなかろう。しかしね、外を歩く時も外されない重い足枷は、流石に辛そうだったね。どうしてその鉄の枷を浮かせないんだい?」

「……う、うまくできないんです。遠くにあるものは浮かせられても、自分の近くにあるものだとうまく距離感が掴めなくて、」

「ああ、さぞ苦しかろう。折角の外の世界も苦痛に変わるくらいだ。君は傍目から見て哀れだった。それなのに誰も救わないのはなぜだ?操者だからって奴隷のように扱ってもいいのか?」

 違うだろう、と少女の肩を優しく掴む。



「僕は君を助けるためにここへ来た」



「私を……助ける?」

「外に出してあげる。こんな村を出て、広い世界を教えてあげよう。足枷も外してあげる」

「本当に?」

「本当じゃなければ、牢の中にまで入らないよ」



 生まれてこの方、少女は誰に目をかけられる事もなく生きてきた。それだけじゃない、何もしていないのに疎まれるばかりだった。唯一味方をしてくれた幼馴染みの彼だって、この魔法使いの言う通り、少女を外に出してくれない。



「僕はね、君を見かけた時に思ったんだ。君と一緒に旅をしたいって。僕には君が必要だと。ねえ、分かるかい?」



 遠くで何かが崩れる音がした。火事は酷くなっているのかもしれない。悲鳴の数はどんどん増えていく。



「僕だけだよ、君を求めたのは。そして僕には、君が必要だ。誰より君が必要だ」



「で、でも私は、何も出来ない。何も出来ないんです」

「構わないよ。僕が出来るようにしてあげるからだ。この世界のことをなんでも教えてあげる。生きていけるようにしてあげる。満足に扱えない操術も、僕が使い方を教えてあげよう。君には才能がある。昔読んだ絵本のように強くなれる」

「どうしてそんなこと……分かるんですか」

「僕が魔法使いだからだ。君に光と、色をあげよう。心と希望、音楽と祈りも、すべて。すべてだ」



 双子の妹は悪魔だと嫌われ、操者は化物だと恐れられる。

 魔法使いなんて御伽噺の存在だと、笑われる。馬鹿なことを言うな、ふざけるなと。でもこの人は自ら堂々と名乗るのだ、まるで誇らしいことのように。



「僕の弟子にならないか。君が必要なんだ」



 月明かりが一瞬だけ強くなり、薄い雲に阻まれたのか、また弱々しく翳っていく。牢は暗闇に沈んでいくのに、魔法使いの眩い白髪と瞳は少女の目の前に浮かび上がる。





「わ、私でいいなら、もしいいなら、ここから出してください。あなたについていきます……頑張るので、だから」

「よく言ったね。偉いよ」


 暗くてよく見えなかったけれど、彼はその左手で足枷に触れた。すると大きな金属音とともに鉄の枷が魔法のように外れる。

 足にはなんの重りもない。


「君は自由だ。僕についておいで、ずっと君を見ていてあげる。間違ったことをしたら正してあげるし、正しいことをしたら褒めてあげる。僕に分かることならなんでも教えてあげる。強くしてあげるよ」



 名前を教えて、と魔法使いに言われて少女は背筋を伸ばした。

「イルファです。私の名前は、イルファです」

「そう、よろしくねイルファ。僕はルフトだ」



 ルフト、と名乗った青年は立ち上がると左手を伸ばし、続いて少女を力強く引っ張って立ち上がらせた。

「村から出なくてはならない。ちょっと疲れるだろうけど少しの辛抱だ。出来るね?」

「は、はい」

「よし、偉い」

 手を繋いだまま、イルファは彼に導かれるまま歩き出した。足が驚くほど軽い。身体は弱って引き摺るようなのに、不思議とどこまでも走っていける気がする。


 光が少女を見つめる。彼が色を与える。

 遠くで歌が聞こえた気がした。酷く胸が痛む。希望と祈りはまだ無いけれど。

 この世界を、どこまでも。

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