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疎まれるくらいなら。
不安な朝が来るたび、不思議と生きている感じがした。
朝日に目を開けると、窓がなくて薄暗い納屋の景色が目に入る。腹が酷く重くて、眠りながら泣いたせいか頭痛もあった。
誰もいない隣の布団をぼんやりと見つめている。
眠っただけで抜け殻になって、何もかも置いてきたみたいな喪失感に苛まれていた。今日も悪夢は終わらないというのに。
しばらく呆然としていると、ルフトが戻ってきた。軽い朝食を宿から持ってきてくれたらしく、イルファを見て微笑む。
「おはよう、イルファ」
「……おはよ、ごめんね」
「朝から謝らないでおくれ。君は疲れている」
もっと寝ていても良かったくらいだ、なんて言うのだ。
「今日も少しアルツ先生のところに行くよ。昨夜の話は覚えているね?婚約者が生前、よく彷徨いていたところを聞こうと思うんだ」
「ご、ごめん……」
「何度も言うけど、君はひとつも悪いことなんてしていないんだ。謝るのはもうやめよう……君は今日どうする?」
誰にも会いたくなかった。それなら納屋に籠っていればいいわけだし、ルフトはそれを咎めないだろう。
本当はそうするべきだった。でも出来なかった。
何もしないことで、さらに彼が失望するのではないかという恐怖に苛まれる。罪悪感と自己嫌悪に死んでしまいそうなのだ。
結局、イルファは俯くだけで何も言えなかった。考えるほどに言葉を失っていく。
「……じゃあ、イルファには仕事を頼もうかな」
珍しくルフトがそう言う。
「昨日、女性に会ったと言っていたね?女の子の母親かもしれないって。その人に、へレイやその婚約者について何か知っていないか聞いてもらえないかな。どうだろう?」
「や、やるよ。任せて」
「ひとりで大丈夫かい?」
「大丈夫だよ、ほんと、大丈夫……」
じゃあ任せたよと言い残して、早々にルフトは家を出ていった。
大丈夫だ。
へレイのの家は村の一番外れにある。
大丈夫だ。
桜はその日も美しかった。花びらが散り続けて雨のように、降り注いでは少女の髪の毛に絡みつく。
歩く途中で振り払うことも諦めて、イルファは先を急いだ。これは任された仕事なのだ。何もかもうまく行かない現状を打破するチャンスなのだと、彼女は確信していた。
木の根につまずかないように気をつけながら黙々と道をゆくと、次第にその場所は近づいてきた。
あの木の根元に、女性がぐったりと座っている。背と頭を幹に預けて、微かに上を見つめるようにして。
「こ、こんにちは」
身構えて震えた声で呼びかけると、女性は瞳だけを動かしてイルファを見た。
「昨日の。こんにちは」
お話しましょう。
また向かい合うように木にもたれて座ると、女性を見つめた。
美しい人。髪は乱れているけど、それすらも色っぽく見える。投げ出した四肢に桜の花びらが乗っていた。
「わ、私……昨日あなたに言われたことをやってみようとしたんです」
「大切な人と、しっかり話し合おうとした?」
「そう、そうです」
ルフトに聞こうとしたのだ、自分の価値を。本当はどう思っているかを。
でも、出来なかった。
「難しいですね、こわいですね。もし本当は私なんて要らないと言われたらどうすればいいか分からないし、勇気がないんです。認識、したくないんです」
女性は無言でイルファの話を聞いている。
「聞こうと思っても声が出ませんでした。簡単なことじゃない……私はまだ、自分の価値を知らないままです」
だからもう一度お話したくなっちゃって、と一気に話した。
反応を見る。女性はやっと微笑んで、もっと教えてと呟く。
「教えて。大丈夫よ、聞けば分かるというそれだけのことなのだから。確かなにか失敗してしまったのよね」
「はい……自分が上手く動けなかったせいでやってもいないことを疑われて、そのせいで優しくしてくれる人にも迷惑かけてしまって」
「そういえば、どんな失敗をしたのか聞いていなかったわ」
少女がすっと背筋を伸ばす。
彼女が殺人犯だと思っていない村人は貴重だった。知らないというのならずっとそのままでいて欲しいというのが、本音であることに間違いないのだが。
それでもイルファは手を握りしめて、口を開く。
「殺人犯だと、疑われているんです」
女性の目が大きく見開かれる。
「でも、違うんです。私は本当にやってない。言いがかりなんです……それなのにこの村の人たちは、嘘を信じて私を糾弾した」
石を投げた。追い出そうとした。
「みんな根拠の無い嘘を信じてしまったんです。でも、私がもっとうまくやっていたら、こんな疑いもかけられなかったかもしれない。そう悔やんで仕方ないんです」
「そう」
そうなの、と呟く女性の声が震えている。
やっぱり何か知っているのではないか?それとも、殺人の疑いがかけられている人間と話していることが恐ろしいだけだろうか。
「教えて……誰が、誰がそんなことを言ったの?誰があなたに、人殺しだと」
殺していない。
自分に言い聞かせて、イルファは真っ直ぐに女性を見た。
「へレイ、という人です」
風の音がいやにはっきり聞こえた。
「へレ、イ?へレイがそんなことを?」
驚いたのはイルファの方だった。女性の目から涙が零れている。
「嘘よ、そんなはずない」
「確かなんです。すぐ近くに住んでいる、へレイさんがそう言ったんです」
「そう……そうなのね」
やっぱりこの人はへレイのことをよく知っているのだ。もしかしたら重要な情報が得られるかもしれない。
そう思った。
「じゃ、あなた人殺しね」
一瞬何を言われたのか分からなかった。
「あなた人殺しね。酷いわ」
「ま、待って、私」
「酷いわ」
彼女は笑っている。口から零れた息が、顔に乱れてかかった髪を震わせる。
「昨日ね、あなたを迎えに来た人を見たわ。いい人じゃない、あなた、大事にされているわ。それなのに人殺しなんて酷いのね」
「違う、」
「聞いてみればいいのよ、自分の価値をあの人に。邪魔だ、お荷物だと思われていないか。本当はいなくても同じじゃないか。もし自分がいなくなったら次の日は泣いてくれるかもしれない。一週間は喪失感があるかもしれない。その後は絶対に元通りよ。人殺しの疑いを持ってくるような人間がいなくなってせいせいしたって、そう思われて終わり。いなくなったらそれで終わり」
そうじゃないと信じたかった。
「教えてあげる。相手にとって本当に価値のない自分が、どうなってしまうか」
初めて女性が、自分のことを教えてくれた。
「殺されるのよ、私のようにね」
身体が壊れてしまいそうなのに、走ることをやめられない。誰かに助けて欲しいのに、誰も味方なんてしてくれない。生まれた時からそうだった。今は知らない人間について行って、知らない土地に来てしまった。
走っている。
逃げている。
嘲るように笑った女性から逃げて、宿の方へ。誰にも見つからないところでただうずくまっていたかったのに。
いたぞ、と誰かが叫ぶ。偶然通りかかった村人がイルファの目の前に立ちはだかり、指を差す。
石を投げる。
両手で顔を庇って、足を一瞬だけ止めた。来た道を戻ることは出来ない。前に進むことも出来ない。
イルファは道を逸れて、また知らぬ方向へ迷い込むのだ。
進む度に彼女を追う怒号が増えていく気がする。肩に鈍い痛みが走った。石が当たったらしい。
土と木の根ばかりだった地面は、突如、整った石畳に変わった。村に入ってしまったと思ってももう遅く、走り抜ける道に立ち並ぶ家々から、人が顔を覗かせる。
少女を見ている。
目から絶え間なく涙を零しながら、それを拭うことも出来ず、声を上げて泣く事も出来ず、ただ喘ぐように呼吸をしながら辿り着いたのは広場のような開けた場所だった。
行き交う人が多くて、走ることすら出来ずにとうとう立ち止まる。全てが壁のように見えた。
「人殺しだ」
「どうしてここに」
騒ぎは大きくなっていく。イルファを遠巻きに眺める人は絶え間なく増え続け、彼女は完全に退路を絶たれてしまった。
震えを抑えることが出来ない。
みんなが自分を疎んでいる。
「わ、私じゃない、私じゃない」
「黙れ!お前がやったんだ」
違うと言っているのに。
誰も信じてくれない。助けてくれないのはどうしてなのだろう?
その時、彼女は空を見上げた。ちょうど頭上にあったベランダに人影が見えて、次の瞬間、その人は植木鉢をイルファ目掛けて落とした。
「私は、私はやっていない!」
彼女にぶつかるその瞬間、植木鉢が粉々に砕け散る。溢れ出すように土が降りかかるが、流石に操術では避けきれなかった。
「じゃあ誰がやったと言うんだ! ええ? お前以外の、誰が!」
「そ、それは」
「言え! 誰がやった!」
頭が真っ白になって、酷く熱い。目を開いているのにぼやけている。
立っているのに、足の感覚がない。
遠くで少女を呼ぶ声がする。
イルファはゆっくりとその右手を上げ、人差し指を向けた。
人を掻き分けてやっと少女を見つけた、ルフトに。
「わた、私じゃない。その人が、やりました」
彼はどんな顔をしていた?
それを確かめる間もなく、イルファの背後に立っていた村人が、手にしていた木の棒で彼女の頭を殴った。視界は暗転して、全て遠ざかっていく。
その手から、零れ落ちていく。




