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君の証明を、誰ができる?
木の葉を隠すなら森の中に隠した。
嘘をひとつ隠すには、一体いくつの嘘をつけばいいのだろう。
そんなことを考えているうちに、僕は、僕ではなくなってしまったのかもしれない。僕ではない何かに変化してしまったのかもしれない。
失敗は取り返せばいい。それが出来る。
でも、嘘だけは取り返すことが出来ない。放たれたそれは世界を変えて。
呪いとなって帰ってくる。
無限の花びらが風に舞い上がる。
走れども走れども、景色に変化はなかった。桜の木が視界を覆って、どこまでも延々と続いている。終わりは見えない。
長く咲き続けた花も散り始めて、風が吹く度に進路を阻む。地面に積もったそれは足を滑らせる要因だった。
脳が麻痺していく。
自分がどこを走っているのか、もう分からない。
ただ、ただイルファは走っていた。肺が痛むことも、足がもつれることも気を遣っていられない。
後ろから彼女に迫る複数の足音と怒声から、逃げなくてはならないからだ。
どれくらい走っただろう、突然、桜の木のずっと向こうに緋色のものがちらりと見えた。
「ルフトくん!」
彼が驚いたように振り向いた。最後の力を振り絞って駆け寄ると、左腕に縋るようにして立ち止まる。
「どうしたんだい、今はまだバイトの時間だろう?」
頭の奥が焼けるように痛い。足りない酸素を補うために、少女は喘ぐような呼吸を繰り返した。
「イルファ? どうしたの」
彼女が質問に答える前に、二人の旅人の周りを村人が取り囲んだ。男ばかりで、10人ほどだろうか、それぞれ斧や鉈を手にしている。
「……物騒だなぁ。僕、こういうのあんまり好きじゃないんだけど」
左腕で弟子の肩をしっかり抱えると、ルフトが不機嫌そうに眉をひそめる。
「何?僕の弟子を武器片手に追いかけ回していたわけ?」
「その女を匿うつもりなら、容赦はできない」
匿う?とルフトが首を傾げてちろりと視線を落とすと「何かやっちゃった?」と問う。
イルファは息を整えながら強く首を振った。
「ほら、やってないってさ。勘違いなんじゃない?」
「そんなわけがあるか、そもそも操者という時点で怪しかったんだ……!」
叫んだ村人の言葉に、ルフトの金色の瞳がすぅっと冷えていく。
「それで?」
見上げたルフトの白髪が風に揺れている。
「僕の弟子が、何をしたって?」
彼らは差別という悪の認識を持たず、常に正義によって動いている。それに裏付けが存在するのかどうかというのは二の次なのかも知れない。
認識しなさい、とルフトは何度も言った。
認識は、その人が持つ世界のすべてだから。
「ルフトくん、あのね」
彼らは彼らの認識を持っている。ルフトはルフトの認識を持っている。
では、イルファの認識はあるのか?
「私、殺人犯なんだって」
少女が牢屋に入れられていたのは、彼女が悪魔であるという周囲の認識によるものではない。彼女が右手の小指を切り落とした人間だからだ。
自らの肉体を己の意思によって切り落とすことで、神はその人間に、人間を超えた、ひいては物理法則を超えた力を与えるという。
彼女が操者になったからだ。
自分達を害する存在であると、認識されたからだ。
「殺人犯?イルファ、君は人を殺したの?」
「そ、そんな事しないよ。でもこうやって、みんな私を殺人犯だって」
「誰がそう言ったんだ?」
ルフトが底冷えするような声で問うと、村人のひとりが声を張り上げて答えた。
「その女をこちらに引き渡せ! いいや、お前もどうせ共犯なんだろう?」
「お前は言葉を理解出来ているのか?」
誰がそう言ったのかと聞いている。
「威勢がいいのは全然、問題ないけどねえ、せめて言葉は通じるようにして欲しいよ。一応人間なんだからさぁ?」
煽るような物言いだったけれど、不思議と彼らは怖気付いたように口ごもる。奇妙な空気が流れ始めた。
「へ、へレイだ」
「へレイ?聞いたことのある名前だ」
この前イルファが言っていた人だったかな、と呑気に言う。
そうだ。
イルファに隠し物の捜索を依頼した人間である。
あの話が来てから丁度一週間が経っていた。まあなんとか探してみるよというルフトの言葉を最後に、それ以来二人の話題にはのぼらなかったけれど、へレイが決めた約束の日を過ぎようとしていた。
「一応探したんだけどね、見つからなかったよ」
周囲の人間に聞こえないよう、そっとイルファに耳打ちをする。
「へレイの婚約者が二週間前に亡くなった。今思えば、彼女の死はあまりにも急すぎたんだ……みんなおかしいと思っていた」
「そんなの、今知ったんだけど」
「へレイはお前達が殺したと言っている」
「証拠は?」
「へレイが言ったんだ!」
村人のひとりが声を振り絞るように叫んだ。
「この、化物が!」
ごう、と風が吹く。
ルフトの白髪がさらさらと流れる。緋色の外套が風を孕んではためく。
本来右腕があるべき空間には、何も無い。中身を失った服の袖がなびいた。バランスを失った彼の身体は、常に不安定に傾いている。
村人達は特に操者を嫌う。彼らにとって、腕のない人間は化物だ。
人間ではない。
口々に彼らは糾弾する。
熱が高まっていく。
その時だった。
木々の間から風と花びらを切って、一筋の鋭い矢が放たれた。
もう誰が放ったとか、その人間に罪の意識があったのかとか、そんなことは分かる術もないことだが、青年と少女を殺害すべく、余所者の殺人犯を排除すべく、それは一瞬にして迫った。空気を深く切り込み、我武者羅に人の手を離れた重い造りの矢は何もかもを置き去りにして、時すら止めるような速度で、真っ直ぐに2人へ伸びた軌跡の後に甲高い音を残して飛んだ。
誰かが息を飲んだ。
考える間もないその一瞬、達成感に似た何かが村人達を支配する。
これでもう安心だ。
これでもう操者は消える。
これで、もう。
「大丈夫だよ」
はっとして矢を見たイルファの耳元で、青年の声が聞こえた気がした。勿論そんな時間は無いはずなのに。
「君なら出来る。君は、僕の弟子だから」
時は動いているはずなのに、少女の恐るべき集中力が彼女の中で、世界の速度を停滞させていく。
「出来るよ」
先端に輝く鋭い輝きが網膜に焼き付いた気がした。耳の奥、脳を震わすように空気が切り裂かれる音が響いている。何枚かの花びらがその矢に当たられて千切れ、そうしてそれは2人に迫る。脳の最奥部が締めつけられるように痛み、音にならない甲高い音が少女の世界を支配する。
風の音が何もかもを奪って、そして。
矢は空中で突如として炎に包まれ、同時に勢いを奪われて落下した。
残ったのは木で出来たそれが爆ぜる音と、風と、村人達のざわめきだけ。
「なんだ、凄いじゃないか」
唇を震わせて青年を振り返った彼女は、ほんの少しだけ、その言葉に照れたように笑った。
「わ、私、ルフトくんの弟子だから」
「そうだね、凄いよ。びっくりした。一体どこであんなのを覚えたんだい?」
「バイトでね、料理を任されて火を使った時。その時に覚えたせいでうっかり焦がしちゃって、お陰で店長には料理下手だって思われちゃったんだよ」
「へぇ。でも、それでこんな凄いことが出来るようになるなんてね」
すっかり怯えてしまったのか、少し武器を下げて後ずさりをしている村人達を見回して、ルフトは不敵に笑う。イルファはその傲慢な表情に満足感を得るのだけれど、一方彼らは、追い詰めているはずの犯人に追い詰められているような気持ちで落ち着かないに違いない。
「やっぱり僕の弟子は最高だ」
「ありがとうルフトくん」
「僕は何にもしてないよ。君に助けられてしまった」
へレイに会わなければならないね、と彼は言う。
「呪われて死ぬかと思ったんだけど、ちょっとこれは予想していなかった」
少女の耳には、矢が燃え爆ぜる音が残っている。いつまでも、いつまでも繰り返すそれは、やがて過去の記憶と癒着を始める。
あの燃えるような夜を思い出す。
心に火を灯して。
燃えるように。




