7
先に伸びる道は仄暗く。
嵐が過ぎ去って平穏な夜が訪れた。
誰もいなくなった大きな家の二階にのぼった二人の旅人は、そこの寝室のひとつを借りて並んで微睡む。
「私には……よく分かりません」
「イルファ、敬語」
指摘されて「分からないよ」と言い直すと、少女はルフトの言葉を待った。
「何が分からない?御老人の存在自体かな、それとも色の話か、はたまた」
「全部、全部だけど……」
「イルファは世の中のことを知らないしねぇ、仕方が無いよ」
大体の事は説明したけれど、とルフトは笑った。
「むしろ僕が君に質問したいよ。君は、御老人のことをどう思う? あれは人間ではない。操者が作ったよく出来たハリボテみたいなものだよ。記憶の中にしかいない人間を、その力を持って具現化したのだ」
「信じられないっていうのが正直なところ……だって人間だった、間違いなく人間だと思ったの。その存在を疑ったりしなかった。今でも」
「分かるよ」
出来が良ければ区別なんてつかないとルフトは言った。人間のように話し、行動し、感情があるかのように振る舞う。
「じゃあ……一体何で見分ければいい? 何が人間と違うの」
「喉を掻き切れば血も出ない。死ねば、死体は残らない出来が悪ければ、例えば操者にしか見えなかったり、姿や感情が歪であったりするだろう」
「出来がよければ?」
「殺せばわかるよ、イルファ。見てわからぬうちは殺せばいい。君が操術に慣れてきたならいずれ、目に映すだけで見抜けるようになるだろう」
それは、人殺しとは違うのか?
「明確な線引きは常に存在する。それが誰の目にも映るかどうかは、その者の力によるんだ。いいかいイルファ、見抜ける人間になるんだ。気付ける人間になるんだよ。それが君の世界を変えるから」
うん、と少女は頷く。
「いずれ分かるだろうが、今、世界は本質を見失いかけている」
人間に見えるものが、実は操術による作り物であったりする。本質はより深いところに隠されている。
「見抜くんだ、イルファ。君なら必ずできる」
キイ、と窓の外から小さく鳥の声が聞こえた。あの、姿が見えない家畜の声だ。彼らもまた、本質を持たない存在なのだろうか?
分からない、とイルファは思う。この世界で何が起こっているのか、何も。
「もう眠らないと。今日は疲れたね」
「うん……ああでも、待って。もうひとつ分からないことがあるの」
「なんだい」
暗闇で目を閉じると、あの時視界を覆った影の姿が蘇る。
「グエルさんは、どうして私の背中を押したんだろう」
ああそれか、とルフトはため息とともに笑った。面倒臭がっているのか面白がっているのか、曖昧な反応である。
「御老人は随分君を可愛がっていたね。僕らを家に入れたのも、まあ化物退治を頼もうという魂胆があったのはもちろんだが、表向きはイルファを雨に曝さないためだ。僕はそのオマケ」
師匠に自らをオマケ呼ばわりさせることに、罪悪感が募る。
「イルファ、君は傍から見れば誰でも分かるくらいに怯えていて、しかも無知だ。僕じゃなくても分かるんだよ、あんなハリボテの老人に見抜かれるほどだ。君は弱い。何も、知らない」
そう、少女は何も知らない。
「愛さえね。御老人が……いいや、あのハリボテを作り出した中央に住んでいるらしい操者が、器官を残留させるほど苦しがっていたそれすら知らないのさ。羨ましい程に、憎たらしい程に」
「そんなに……明らかですか?」
「ああ。君はこうして理由のない恨みを買うだろう」
暗闇の中で、ルフトはゆっくりとした瞬きを繰り返す。
「悩んでいるとね、その悩みを知らぬ者を同じ沼へ突き落として、引きずり込んでやりたくなるのさ。御老人が君の背を押し、影が迎え入れたように」
でもイルファは、影が見せた自分の記憶に苦しまなかった。
「僕は分かっていたよ、君ならあの化物の攻撃さえ効かないだろうと。いやあ、御老人が二階に逃げてしまった時はちょっと不安だったけどね、君のおかげでハリボテと影、きっちり揃えることが出来てよかった」
驚かせてしまったかな、ごめんねと彼は言った。
しかし少女はその謝罪を受け取らない。自分がどれだけ未熟で、無知で、今までの記憶に価値がなかったかを知ることが出来たからだ。
私もいつか、痛みを知って。
この美しい青年と同じように酷く悲しく、笑うことが出来るだろうか?
少女は己の未来を夢見る。それは、すこし大人になった自分が待っているかのような幻を見せるのだ。
「さ、もう寝るよ」
「うん……おやすみなさい」
すぐにルフトは彼女に背を向ける。
色んなことを見て、知って、傷ついて、イルファが大人になる頃まで、ルフトが望む弟子になる頃まで、彼はこうして隣にいてくれるのだろうか?
本当はいつ見捨てられても、おかしくないのだ。
朝が来ると、ルフトは家にあるものを自由に使って食事を作った。多少の保存がきくようなものばかりが揃っていたため、幾つか拝借すると、いつもは外套の下に隠している薄汚れた麻袋のようなものに突っ込んだ。生まれたての赤ん坊がひとり入るくらいの大きさで、広く取ったあけ口に太い紐を通して肩にかけられるようにしてある。
ルフトは食材や小さなナイフから着替えまで、構わずその袋に入れては、外から見えないように肩から下げて外套に隠してしまうのだが、いくら入れても膨らまない奇妙な代物である。
「よし、これで桜の森まで大丈夫だろう。もう少しだから心配はいらないけどね」
「出発する?」
「ああ……いやちょっと待って」
ルフトは部屋をぐるりと見回して、窓辺に置いてあった写真立てに注目した。近付くと手に取り、ほんのり積もっている埃を指先で拭う。
「ご覧、イルファ」
真ん中で笑っているのは、血のように深い赤髪の少年だった。彼を挟むようにして立っているのは母親と父親だろうか。父親らしき人は、今は玄関の近くに置いてある大きな笛を抱えていた。
「ふふ、撮影したのはお婆さんかな。仲睦まじい家族って感じだね」
「はい……」
イルファに、こんな温かい家族はいない。
もう何年も姿を見ていない母親、酷い仕打ちをした父親、死んだ姉のことを思い出す。同時に、出来るだけ忘れようと心の中で囁いた。意味なんてないのだ、何一つ。
「おや、写真の隅に文字が書かれているよ。マリウス、かな。ちょっと読みにくいけど」
「子供の字かな……真ん中の人のかも」
「男の字には間違いあるまい。子供、と言ってもこの赤髪くん、今じゃ首都への旅をするまでに成長したんだ」
感慨深いねえなんて、全く思ってなさそうな声で彼は笑った。
「とりあえず覚えておこう。僕達よりちょっと先に首都へ向かったんだろう?どこかで会うかもしれないしね。旅には面白みがないといけない」
マリウスという名の、赤髪の人物。
「ひとつ屋根の下、操術によって生成されたハリボテと化物との、長い間の共同生活かぁ。一体どんな人間になったのかな、楽しみだね」
もう誰もいない家にぞっとする言葉を残してルフトは立ち去った。もう一度だけ振り返って、相変わらず人の気配がない家の中を目に焼き付けて、イルファはその後を追う。
誰もいない広い家は、東の野に立ち続けている。
旅人は既に、旅立ってしまったのだ。
「さて、あと数日で桜の森だ。しばらくはそこに滞在するから旅はお休みかな。イルファも疲れただろう?少し足を休めるといい……そこで路銀を稼いで、ついでに面白い風習もあるようだから調べたい」
「面白い風習……?」
そうだよ、とルフトが頷く。
「あそこら辺にはやけに珍しい、独特の風習が多いんだ。その中でも特に気になるものがあってね」
何でも桜の森のど真ん中にある村にしか無い風習で、村人達はそれを守りながら生きている。
「まあそういうのはよくあるんだけどね、気になっているのは風習そのものではない。どうやら、そいつを破ると死んでしまうらしいんだ」
「だれかに殺されちゃう、とか……?」
「いいや」
きらきらと金色の瞳が輝いている。
「呪われて死ぬんだ。死に至る魔法だよ」
森へ、森へと旅人は進む。
野はどこまでも広がっていた。
「ルフトくん、見て。可愛い」
「ニワトリだね。イルファは鳥が好きかい?」
「動物はみんな好きだよ……!」
少女の足元に擦り寄ってきたニワトリを見て、彼らは楽しそうに語り合う。飛べない鳥は、野の至るところで地面をつついていた。
「ああ、僕も鳥は嫌いじゃない。いつかペットにするのも悪くないなぁなんて思うんだよ」
西へ向かう旅人を見送ったニワトリが、キイ、と奇妙な声を発した。




