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魔法病とセカイシンドローム  作者: Ria
第一章 残留する器官
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彼は迷いなく心を殺す。

 愛はひとつの器官である。



 人間の中にある、ひとつの器官である。













「グエル老人は、もう随分前に死んでいたんじゃあないかな。操者である息子がまだ小さい時に、とかさ。お婆さん、息子、その嫁、孫と四人で仲良く暮らしていた。数年前、お婆さんと嫁が死んだ。息子は記憶の中のグエルを操術で作り出した。いいかいイルファ、操者っていうのはね、自分が鮮明に思い描けるものしか作ることが出来ない」


 首都から遠く離れた東の野に、実家がある。そこには老いた父親と、自分の息子が住んでいる。懐かしい風景が変わらずに。



「わかるような気がするよ。帰る場所があるように錯覚するだろう?しかも自分は、死んだ嫁のことを思い出さないでいられる。自分の可愛い息子を自力で育てている気にもなれる」



 グエルの首にぱっくりと傷が見えたけれど、ルフトが返り血を浴びることは無かった。ゆっくり、ゆっくり老人は薄れていく。姿が消えていく。


「見なよ、これが化物の証だ。死体一つ残らない」


 同時に影も消えていく。目をぐるぐると動かして、苦しそうにルフトへ手を伸ばしながら。



 やがて何もかも消えて、二人の旅人だけが残された。イルファは何も言うことが出来ない。

 人間だと思った。人間にしか見えなかった。

 だが、違った。あれはなんだ?



「赤髪の息子は父親に会うため旅に出た。作り物のグエルは用済みだった。だから僕に、化物退治を頼んだのかもしれない。やめ時というか、死に時を考えていた、とも思える」

「どうして……」

「どうして死に時なんて考えるかって?苦しいからだろう。苦しいと死にたくなるだろう」



 暗い部屋のどこにも、影の姿はない。ルフトは、あの影こそ苦しみの権化だと言った。


 部屋にこもったまま出てこない引きこもりの化物は、入ってきた人間を襲って色を失わせるらしい。



「もう帰ってこない、愛していた妻。一緒に過ごした部屋から出てこない影。あれは愛だ。愛なんだよ、イルファ」




 グエルは精巧に作られた操術による作品だということらしいが、人間が行動すればゴミが出るように、操術が働けばそのカスのようなものが空間に溜まっていくという。

 それはやがて吹き溜まりに寄せ集められ、不完全な形を成し、押し込められた感情を本能的に宿して生きる。


 愛は残留する。


 愛した人に、愛した場所に。



 本質は常に、影にあった。



 短剣を仕舞うと、ルフトは部屋の中を見回した。暗くて、空気は酷く澱んでいる。どこもかしこも埃だらけだった。もう何年も放ったらかしにされていたのだろう、傷んでいて人間の気配がない。


「まだ君には分からないだろうけどね、イルファ。愛というのは、心臓や脳とおなじ、ひとつの器官だ。どこかに置いてきたままにすれば、死ぬほど苦しかろう」

 その言葉にはっとする。そういえば、イルファは影に飲み込まれたというのに色を失っていない。どれも鮮明に見えるし、ルフトの瞳は相変わらず美しい金色ではないか。

 そう問うと、ルフトは柔らかく微笑んだ。


「それはね、君がまだ器官を失うことを知らないからだ。残留する器官の痛みを、愛する者を失った時の貫くような喪失感を知らないからだよ。いいかい、まるで世界から色が失われたような、そんな気になる。世界が変わる」



 影に飲まれた時、イルファが見たのはファセットの姿だった。あれは、器官を残留しかける瞬間だったのだろうか?

 しかし少女は色を見失わない。彼女はファセットに器官を残留させてはいないし、世界は美しかった。あまりに鮮やかな、色で満ちていた。


 その後に一瞬だけ見えたのはルフトだったが、あれは彼の記憶だろうか?



「ふふ、影を君から離れさせる時につい焦ってしまった。片足を突っ込んでしまったよ」



 ルフトが照れたように笑う。あれは彼が愛をその身から引き剥がし、どこかに残留させた痛みの瞬間だったのかも知れない。



「化物退治は終わった。さあ、こんな埃っぽい部屋にいることはないだろう。戻るよ」


 彼に背を押されて、少女は明るい部屋に戻る。大きな木のテーブルに、椅子が四つ。きっとお婆さんと、お父さん、お母さん、息子の四人分だ。


「お茶を淹れてあげよう。疲れただろう?座って待っていなさい」



 まるで自分の家のように、ルフトは台所へ消えていく。椅子に座ったイルファの前には、化物が淹れてくれたお茶が少しだけ残っていた。

 彼の背を見つめると、今はない右腕を抱いて泣き叫ぶ姿が重なった。


 あれがもし、愛がその身体から引き剥がされる瞬間なら?

 今、ルフトの目に色が映っていないなら?



 そのことを思うと、今はそこにないかも知れない、残留する器官に酷く胸が痛んだ。彼の心には空洞があって、世界は姿を変える。悲痛な愛を蘇らせる影の化物が誘発した病は、記憶が僅かにでも風化するまでルフトを苛むのだろうか。


 色を失わなかったイルファは、まだ誰かを失うことを知らない。何かを手にしているのかもわからない、と彼女は思った。自分の手に、果たして失うだけのものがあるのか?



 少女はルフトを見つめている。

 得体の知れない痛みが、イルファを苦しめ始める。


 それが一体どんな名前を持ち、どれだけの価値があるのか、彼女にはまだ分からない。

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