休息
三月下旬。現在日本の学校の多くは春休みに突入している。黒月浩輝や日元奏太、森崎百合花が所属する常空中学校や、藤宮彼海が所属する常空第一高校もその例に漏れていない。春休み三日目にして宿題を全て終わらせた黒月浩輝は、特にやりたい事も無いため、取り合えず勉強をしていた。彼は四月からは中学三年生、つまり受験生である。彼が住む県の県立高校ではトップである常空第一高校に入るため、努力は惜しまない。これも全て、現在彼の生活費を稼いでいる姉に恩返しをするためである。
(そろそろ疲れたな……。休憩するか)
浩輝は椅子に座りながら小さく体を伸ばし、立ち上がる。すると、そのタイミングで彼のスマートフォンが鳴る。彼の上司のような存在である高橋翠から電話がかけられていた。彼は面倒だと思いながらも電話を取る。
「……もしもし」
「やっほー、浩輝君。春休みは友達と遊んでるー?」
高橋の陽気な声に、浩輝は電話を切りたいという衝動にかられるが、我慢して話を促す。
「それで、用件は何ですか?」
「つれないわねー、どうせ暇なんでしょ? せっかくだから無駄話でもしましょうよ」
「お断りします。僕は受験生ですので」
「浩輝君ならちょっとくらいサボったって何処にでも受かるでしょ? 学年成績一位なんだし」
「何でそれを……っていうのは無駄な疑問ですね。それは良いとして、毎日ちゃんと勉強してきたからこその成績です。それに、僕が一位になれたのは、毎回一位だった人が学校に来なかったからです」
浩輝は今まで、学年の成績は二位にしかなれなかった。それは彼のクラスメイトである森崎百合花が常に一位を取っていたからだ。しかし彼女は、二ヶ月前の一件により心に傷を負ってから、家に閉じ籠る様になった。その原因の一端は浩輝に有るのだが。
「受験なんてまだまだ先じゃない。少しくらいハメを外したって何とかなるわよ」
「そもそも、やりたいことが無いんですよ。勉強か、ゴエティアでウィルシオンの操縦訓練くらいしか」
「寂しい人生ね。せっかくの長い休みなんだから旅行とか行かないの?」
「姉には悪いですが、うちにそんな余裕は有りませんよ。経済的に」
浩輝の姉の遥は高卒で社会人一年目である。二人分の生活費を稼ぐのがいっぱいいっぱいで、彼女の給料ではとても贅沢な事は出来ない。浩輝の言葉を聞くと、高橋は得意気に笑う。
「何ですか?」
「いやあ、お金が有れば旅行にでも行きたい?」
「そうですね。姉を温泉旅行にでも連れて行きたいです」
「温泉ね……例えば熱海とか」
高橋の言葉に含みが有ることを浩輝は感じる。
「何を企んでいるのです?」
「ふふっ、いつも頑張ってる大事な部下にささやかなプレゼントをしたいだけよ。姉弟水入らずの熱海旅行をね」
「熱海に何が有るんです? いや、何かが有るとしてなぜ姉を……」
浩輝は秘密結社ファントムの一員として活動しているが、その事は遥には明かしていない。つまり、熱海にと共に行ってしまえば、何か有ったとき、遥にファントムの一員であることが発覚してしまう恐れがある。実際には遥も把握しているのだが、浩輝はそれを知らず、遥もそれを明かすつもりはない。
「何も無いわよ。安心して」
そんなことを言われようとも、浩輝は電話の向こうにいる悪魔の言葉を鵜呑みには出来ない。だが同時に、これを断るという選択肢が無いことを悟る。
「分かりました。姉には話しておきます。ところで、何時行けばよろしいでしょうか?」
「今週の土曜日よ。一泊二日ならお姉さんの仕事にも差し支え無いでしょう?」
「その次の日の仕事が地獄のように感じるでしょうけどね」
「ふふっ、そうかもね。とにかく、今から浩輝くん家にチケットを持っていくわ。福引で偶然当てたっていう設定のね。バス代も支給するわ」
「話が上手すぎ……っていうのは言っても無駄ですよね」
「本当に何もないから、ゆっくり楽しんでね」
高橋は優しく笑い、浩輝はそこに邪悪を見出だす。
「これだけは聞いておきたいのですが、本当に、姉の安全は確保されているのですよね?」
「さあ、交通事故が起こらないとも限らないし……」
「……」
「冗談よ。楽しんでいらっしゃい。それじゃあ今から行くわ」
電話は切れた。浩輝としてはまだ聞きたいことは有ったが、それは高橋が家に訪れた時で良いと考える。
☆
「熱海に温泉旅行?」
福音軍基地日本支部のとある部屋。森崎修治は、目の前の上官の言葉を怪訝に思う。
「ああ、傷心の百合花ちゃんに元気を取り戻して欲しい、という上からの気遣いだそうだ」
「はあ、それはまたどうして熱海に……」
「我々のいる常空市から遠すぎず、近すぎない所だそうだ」
常空市は関東地方のとある県に属する太平洋に面した市である。静岡県熱海市へはバスで三時間程で行ける。
「しかし、いつファントムや禁忌獣が出現するのか分かりませんよ。私が行くわけにはいきません」
「日本ではアメリカのドレイパー大尉に待機して貰う。本来の彼女の日本への配属は四月からだが、致し方ない。それに、彼女には父親であるお前が付いているのが一番だ」
「ですが……」
「これは命令だ、中佐。熱海には君と君の妻と娘、そしてコールリッジ少尉と倉島中尉に行って貰うそうだ」
「春川曹長は来ないのでしょうか? 彼女こそ百合花に親しい人物でしょう?」
「彼女には別の任務が与えられるそうだ」
修治としては色々と納得の行かない部分が有るが、命令ならば従わずにはいられない。彼は腹をくくる。
「分かりました。ご配慮感謝します」
「配慮したのは上だけどな。バスは今週の土曜に予約しているそうだ。君自身、良い休日になるだろう」
修治は頭を下げ、部屋を出る。そして、部屋の外で待っていた倉島大和とセントにその旨を伝えた。
☆
「温泉旅行、私も行きたかったけど……」
ファントム基地・ゴエティア。高橋翠こと宇宙人リードはそこの自室で少しだけ悔しそうに呟く。本日やるべき事を全て終えた彼女は、ワインのグラスに口をつける。
「私にもやることが有るのよね……」
百合花も熱海に行くように命令したのは福音軍の裏のトップでも有る彼女である。つまり、浩輝達と百合花達を熱海に行かせた訳だが、熱海という場所自体には特に意味は無い。ただ、彼らを同じ場所に行かせた、という事実が重要なのだ。
「まあ、敵しかいないっていう状況は浩輝君も安らげないでしょうし、そこは考えといてあげといたわ」
誰に言うでもなく、高橋は呟き、ワインのグラスに更に口をつける。グラスにはその笑みが写る。




