19話 紫の空の下で1
完全な暗闇を抜けた先は、紫色の空が広がっていた。
「……ここ、どこだよ」
呟きに答えてくれる人はいない。気付いた時には苔が生えた石階段の上で立ち尽くしていた。
階段は大きな螺旋状になっていた。階段が描く円の直径は200メートルくらいだろうか。円は上にいくほど大きく、下にいくほど小さくなっている。現在地からは底が全く見えないので、ここはかなり縦に長いエリアのようだ。
空を見上げて目に入るのは紫色の空と白い月、そしてそれを囲む螺旋階段。このエリアはまるで逆さにした円錐のような地形になっていて、その形に沿うように螺旋階段が設けられているのだ。
「うわ……危ないな」
螺旋階段の横幅は3メートルほど。内側には手すりなど存在せず、ただの崖になっている。真下に見えている階段との落差は100メートル以上はありそうで、落ちてしまえば無事では済まないだろう。
螺旋階段の外側には10メートルほどの空間がある。階段の外側をなぞる様にレンガの壁が設けられていて、その外側には石造りの家屋がずらりと並び立っていた。
レンガの壁はまるで長年放置された後のようにボロボロで、所々穴が開いている。家屋は今にも崩れそうなほど朽ちていて、窓らしき穴から中を覗き込むとボロボロの家具や樽が静かに埃を被っていた。
いくつかの家を見て回ったが人の気配は感じられない。それどころか生物の気配も感じられず、空気は淀んでいて重苦しい。巨大ゴブリンと戦ったあの空間と似ているような気がした。
「ここ、どこなんだよ」
二度目の呟きにも答えはない。紫色の空に浮かんでいる満月は静かに俺を見下ろしている。
どうしたものかと無意識にゲームメニューを開いた俺は、そこでようやく地図の存在を思い出した。
焦る心を落ち着けて現在地を表示させる。しかし、オートマッピングの筈なのに地図表示は一切無く、画面にはただ【ここへ堕ちた者は一切の希望を捨てよ】とだけ書かれていた。
「……何だ、これ」
これはクエストなのだろうか。だったら、俺はここで何をすればいいのだろうか。
漠然とした不安と焦燥が心を支配していく。この場所を当てもなく歩くだけでどれだけの時間を消費してしまうのか想像もつかない。
「とにかく、この階段を上ってみよう」
自分に言い聞かせるように呟く。下に向かうという選択はしたくなかった。まるで奈落の底に自ら落ちていくようでゾッとする。
高所から見渡せば新しい発見があるかもしれない……というのは楽観が過ぎるだろうか。理想はこのクエスト(だと思う)の目的が明確になることだが、それは望みすぎかな――
――踏み出そうとした足が止まる。
気のせいだと断じられるような幽かな違和感。そよ風で散ってしまいそうなそれが、妙に俺の心をかき乱した。
目を閉じて意識を集中する。深く、深く、意識を集中する。
階段もレンガ壁も家屋も見えなくなった空間で何かが動いている。ゆっくりとした動きが段々速くなりながら、一直線に近づいてきている。
「……階段の下?」
疑問を含んだ呟きと、足元に光の円が出現したのはほぼ同時。
直感に従って即座に飛びのく。地面から伸びた爪が空を裂いたのはその数瞬後だった。
* * *
集中していたのが幸いだった。違和感を無視していたら間違いなく刺されていただろう。
即座に取り出した武器を構えると、襲撃者は体を低くして唸り声を響かせた。
灰色の毛に覆われた屈強な体。
大きな手に宿る凶悪な爪。
鉄すら食い千切りそうな牙。
満月の夜に獲物を食らう半人半狼の魔獣――ワーウルフだ。
「話せばわかる……ような相手じゃないよな」
爛々と光る魔獣の瞳孔が大きくなる。月光を受けて牙が鈍く光る。毛むくじゃらの体がゆらりと前傾姿勢になり、一呼吸の後にグンと爪が伸びてきた。
落ち着け。相手の動きをよく見ろ。
師匠の言葉を思い出す。右頬を裂こうとする爪に武器を当てれば、
「ッ、やっぱ難しいな」
失敗。強烈な攻撃を受け流しきれずに頬を削られる。練習不足を反省する間もなく追撃の脚が伸びてきた。
両腕を交差させたガードごと吹き飛ばされる。壁に叩きつけられた衝撃は大きく、今の一連だけで体力を大きく減らされてしまった。
《残り体力が50%を下回りました。残り体力が50%を下回りました――》
システムボイスに淡々と警告される。
今すぐ回復したいところだが、アイテムの取り出しと使用する動作は必ず1秒ずつ消費してしまう。そして、その間に他の動作は一切できない。至近距離で敵と睨みあうこの状況で無事に回復するのは難しいだろう。
そのことを理解しているのか、ワーウルフは俺を監視しながらにじり寄ってくる。このまま一気に勝負を決めるつもりらしい。大きく口を開き、跳躍して一気に距離を詰めてきた。
俺を食い殺そうとする、その凶暴な姿を焼き付けて目を閉じる。
相手の姿が鮮明に見える。
月に照らされた牙が緩やかな速度で向かってくる。
最小の動きで逃げられる道を探して即座に体を投げ出した。
――ギャン!?
壁に激突した獣が小さく悲鳴を上げ、その隙に双葉草を口に放り込む。苦い味と共に体がじわりと暖かくなって体力が8割まで回復した。
当座の危機を脱して小さく安堵の息を吐く。
ある程度覚悟はしていたが、やはり草原のモンスターとは比較にならない強さだった。パワーもスピードも、ステータスは俺より遥かに上だろう。
強烈な攻撃はパリイが難しい上に、ガードの上からでも大きなダメージを通してくる。まともに力比べをして倒せるような相手だとは思えない。
こうなったら、早速使うしかなさそうだ。
取り出したのは酒場で譲ってもらったロープ。先端に錘をつけておいたそれを振り回すと風きり音が周囲に飛び散る。耳をヒクつかせたワーウルフが半歩下がり、警戒の唸りを大きくした。
「どうした、来いよ」
安い挑発なんて通じないだろうか。狼男なんだから人間の声が理解できても不思議じゃないと思うが――
――オオオオオオオン!!
黒い鼻を天に向け獣が吼える。怒りに満ちた叫びが終わると同時に体が沈み、爆発的な勢いで突進してきた。
とっさに右へ動いて爪を避ける。その直後に放たれた蹴りは予想できたので避けられた。そして都合のいいことに、その後の行動までが一緒だった。
チャンスだ。
「捕まえろ!」
【メイク ア リボン】を発動したと同時に投げたロープが意思を持つ。先端が2つに分離して、跳躍したワーウルフの両足を拘束する。そして、そのままハンマー投げをするように力を込めて振り回した。
なかなか重かったが、100キログラムのアレに比べたらまだ軽い。
「よいしょおっ!」
力任せにブン投げた先は螺旋階段の内側。仕上げに拘束を解除してやると、ワーウルフは悲鳴と共に落下していった。
* * *
ワーウルフを強制退場させてから20秒後。
《レベルアップしました。おめでとうございます、アキト様》
落下ダメージが体力を全て削ったらしく、懐かしいアナウンスが聞こえてきた。
当たり前のことだけれど少しだけ安心する。まだゲームは続行しているらしい。
少々難易度が高すぎる気がするけれど。
たった一匹倒しただけでレベルアップするのだから、あのワーウルフとは相当のレベル差があったのだろう。このエリアにはあんなモンスターがウロウロしているのだろうか。だとしたら、ここから生還することは相当難しいように思える。今回は一対一だったから何とか勝てたが、複数に囲まれてしまったらもう笑うしかない。
「……怖いけれど、思い切って死んじゃうか?」
この場で何をすべきかが全く不明なのだ。モンスターから逃げ続けて時間を浪費するくらいなら、一度死んで中央広場に戻った方が良いかもしれない。
そんな考えが過ぎったが、即座に自分で否定した。戦闘不能になるとレベルが2つも下がってしまうのだ。元のレベルに戻すだけでもそれなりに時間がかかる。安易な選択をする前に冷静になるべきだろう。
「この状況はチャンス……なんだよな?」
予定とは全然違うものの、この環境は悪くない。強敵と戦って一気にレベルアップできれば今後の進行がかなり有利になるはずだ。
階段の続く先を見渡す。頂上まで結構な距離がありそうだが文句を言っても始まらない。まずは一番上まで登ってみよう。
そう結論付けて、改めて階段を上ろうとしたところで、
「そちらは行き止まりですよ、お兄様」
俺の全身がチキン肌になった。




