第1話 「異なる道への一歩」
「ここは――どこだ?」
九十九が瞼を開くと、そこはしんと静まり返った広大な森の中だった。
高さ8メートルほどはあるだろう木々が壁の様になって囲まれた僅かな空間に九十九は立っていた。
「ここが異世界、なのか?」
その疑問に答えるものは誰もいない。ただ、ゆったりと吹く風が木々を僅かに揺らす音がする。
九十九に取って、森は所詮森でしかない。専門の知識がある人間ならば植生の違いや地形、或いは臭い等からさえ情報を引き出すことが出来るかも知れない。だが、九条 九十九というこの男は、ただの子悪党――空き巣に過ぎない。
「分からない。だが、いつの間にかこんな場所に居る、それは確かだ」
無意識の内に移動したという事実は間違いはない。
片足を上げるとべちゃりと湿った音と共に、ぬかるんだ地面に靴跡が残っていた。次いで後ろを向き、周囲の地面を見回す。だが、何処にも靴跡は見当たらない。
「意識を失った状態で歩いて来たという訳じゃない。それに意識を失った状態でここに運ばれた可能性もない」
空を見上げる。今立つ場所は確かに開けた場所ではるが、木々の葉が広がっていて、開けた空間は思いのほか狭い。例えばペリコプター等でここに九十九を降ろそうとなれば、出来なくはないが、難しいものとなるだろう。
「やはり、ここが異世界なのか? こんな何もない場所が俺の新しい人生の第一歩だというのか?」
九十九は途方に暮れた気分になっていた。
どこを向いても立ち塞がる木々の壁。道もなく、標もない。
「ああ、だが――」
そうだった。俺の人生はいつもこんなものだった。道に迷い、判断に誤り、途方に暮れる。
「――いつものことじゃないか」
一つ大きく息を吐くと、気を取り直して自らの身に着けているものを確認する。携帯電話と車のキー、それといつも持ち歩いているピッキングナイフ。
「あとは、これだけか……」
先程手に入れた指輪――仙谷 楼賀の手記によれば『異界転移の指輪』なるものがいつの間にか、左手の人差し指に嵌められていた。そこで九十九は思い出す。
「そう言えば――」
手記にはこの指輪によって世界を渡ったものには何らかの恩恵が与えられると書かれていた。だが、それらしきものは何もない。
「畜生ッ!!」
騙された、そう思うと人に騙された時に味わう、じわりとした不快な感覚が全身を覆って行くのを感じた。
いや、騙された人間が悪いのだ。自分の愚かさが頭にくる。
九十九は嘘が嫌いだ。いや、極端に苦手というのが正しい表現かも知れない。幼い頃、人の心を読むのに長けた血の繋がらない家族により、嘘の悉くを見破られたのが影響していた。
「はぁ……」
溜息を付くと、地面から生えた苔むした岩に腰を下ろした。
最悪だ。こんな事ならば、向こうから何かを持ち込む準備でもするべきだった。いや、そもそものところ、何故自分は何の準備もせずに世界を渡るなとというリスクの高い行いをしたのだろうか。
いつもの自分であれば、ある程度の計画なしには動こうとは思わなかったはずだ。
「それほどまでに俺は何かを求めていた、ということか」
状況から自分の感情を知る。余りにも遠回りなその解析方法は、九十九という破綻者を端的に表しているといえるだろう。僅か二十数年。数字としては決して長くない人生だが、九十九の生きて来た環境に於いて、その精神を歪ませるには十分な時間だった。
「自己分析なんてしている場合じゃなかった、早く行動を起こさなくては……」
ここが異世界であろうと、なかろうと、森の中であることは変わらない。
食料も水も無く、救助の見込みの無い状況だ。日の明るい内に森を抜けなければ、何が潜むか分からない森の中で一夜を過ごさなくてはならない。それはあまりにも危険だ。
「さて、どの方角へ行けば――」
九十九が周囲を見回した時、その異常に気付く。木々の高さと同程度の位置に巨大な顔があることを。
グルォォオオオオオオッッ!!!!
視線が合わさったその瞬間、巨大から衝撃を伴う程の雄叫びが上がった。
森の静寂が破られ、木々から一斉に数百もの鳥たちが飛び立って行く。。
「っっ――――!!!!」
九十九は声も上げることが出来ずにそれを見上げた。それは一見して二本の脚で立ち上がる熊だった。しかし、九十九の記憶の中にある熊の情報とその姿には大きな齟齬があり、否定された。
二本脚で立ち上がった高さが木々と同等の約8メートル。これだけでも十分に異常だというのに、全身が毛ではなく、青黒い甲羅の様なもので覆われている。
「バケ、モノ」
その無意識に出た言葉こそ、その存在を端的に表している。その巨体。形態のいずれも、地球上に存在しえないものだ。
雄叫びを終えると、ゆっくりと前脚を地面につけ、四足の姿勢になる。それでも相当に大きい。4メートル近い高さがある。
周囲の木々を前脚で容易く叩き折り、九十九の方へとゆったりと近づいて来る。
「う、ぁ」
熊相手なら寝たフリをすれば良いのか、いやそれはダメだったはずだ。目を合わせてゆっくりと下がる? だが、それは熊との不慮の遭遇の時か。獲物と見ている以上、見逃しくれるとは思えない。いや、そもそもあれを熊と同じ判断で対処して良いのか?
唐突な状況に思考がまとまらない。ただ、恐怖に駆られ本能的に立ち上がると、後ろを後退る。
熊の化け物はゆっくりと近づいてくる。その歩幅は大きく、距離は瞬く間に縮んで行く。
「ひっ、ひひッ……」
九十九は恐怖のあまり、口の端を引き攣らせて嗤った。
恐怖で停止した思考とは別に、生存本能が身体を動かし、後ろへと後退していく――が。
「ッ、あッ!!」
地面から突き出た石に踵を引っ掛けた勢いで、尻餅を付く。
それを見た熊の化け物は、絶好の機会と勢いよく迫って来る。
「クソッ!! クソ、クソッ!! 誰か、助けてくれ、こんなところで終わるなんて、何も手にしていないのに。何も、何も」
誰に向けた言葉でもない。不満、怒り、絶望が口から洩れ出たものに過ぎない。ただ、それ故に純粋な願望も溢れ出る。
「武器をッ!! 武器をくれ!! こいつを殺せる武器を寄越せえぇぇぇぇッ!!!!」
『要求性能に適合する武器の携帯を許可します』
瞬間、九十九の右手に得たいの知れないものが握られていた。
「うおぁあああああッ!!!!」
それが何かも碌に判別もつかぬまま、熊の化け物にそれを向け、我武者羅に指に掛かるトリガーを繰り返し引き続けた。