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若日島

若日島わかひじま

2011.01.05 (Wed) 9:30 AM – 11:30 AM

小野富大

 帰ってきたら、父さんがいなかった。どこにも。

「父さん?」と呼ぶ声が、古い家屋にさびしく響く。

 玄関から入ってすぐの部屋のテーブルの上に、一枚の紙が置いてあった。漆黒の木目に対して、白い小さな紙は痛いほど目立った。

 紙に丁寧に細い文字で筆書きされていたのは、たったの二文。

(カイ)、ゴメン。父さんは若日島に行ってくる」

 一瞬、現実から切り離されたような気持ちになる。頭がくらりとし、耳が周りの音を聞かなくなる。立っているのでやっとだ。

 とりあえず走り出した。フェリーがある港のほうへ。そして、鼓動も一拍遅れて走り出す。不安さが体を毒していく。頭の中で父さんの姿が駆け巡っていく。縁起でもない。

 若日島は自殺の名所なのだ。



 父さんの様子がおかしくなったのは、二日前のことだった。

 もともとおとなしいひとで、特に際立った様子を表すことでさえ稀だったが、二日前からは明らかに違った。少し遊んでて遅くなり、父さんを起こさないように合鍵を使って家に入ってくると、あの毎日十時に寝て五時には起きている判を押したような生活を送っている父さんが、午前零時、まだ起きていた。居間で電気もつけずに机に向かってなにやら難しい顔をして、ブツブツ言っていた。テーブルの父さんの目に前のおいてあるのは、どうやら預金通帳のようだ。カイが帰ってきたことには気づいてない。

 すると、父さんの呟きがハッキリと聞こえてきた。

「ダメだ……考えれば考えるほど……」 

 何のことだ? とカイが思っていると、また父さんは呟いた。

「もう……いいかげん無理なんだよ……」

 カイはなんだか怖くなって、気づかれないように二階に上がって布団に入った。

 次の日、学校で友達に、父さんの奇妙な様子について話してみた。

「やっぱり、預金通帳を見てたってことはお金の問題とか?」と、ムックが言った。

「うーん、もっと何か違うことのような……」と、ミナは返した。

 ムックとミナ。「ムック」は赤井幸男で、「ミナ」は淵田美奈。二人とも小さいころからなんとなく一緒にいる、一番大事にしている友達だ。漁師の息子で、ガサツで、ぶっきらぼうなムックと、美人で、おせっかいで、怒ればムック以上に男勝りなミナ、そして最後に物静かなカイだが、不思議と三人でとても仲良くやっていける。別にカイが他の二人の分静かにしているというわけではない。特に話すことがないときは話さないだけなのだ。

 本土とは違い、ここらへんの学校は生徒数も数多いわけではないので、幼馴染とは自然と仲良くなるというものだ。他に付き合う相手がほとんどいないのだから。

「そういえば、確か昨日、うちの近くでカイの父さん、見たぞ」と、ムックが思い出したように言った。 

 ムックの家の近くといえば、港だ。港というよりは、船着場って言ったほうがおあつらえの小さめのものだが。ムックの親が営む魚屋は、船着場から入る商店街の端っこにあるから、港に出入りしている船や人が何気なく見える。

「どこに行ってたのかしら」

「さぁ……あの時間帯じゃあ、大したフェリーも出てないしな。あの『若日島』ってところぐらいだ。絶景は絶景だが、毎年自殺者があとを絶たないっていう近くの島。それに、別にフェリーに乗ろうとしてるようには見えなかったしな。誰かを待ってるようだったぜ」

「誰かを港で待って、そしてその日に預金通帳を見て落ち込む……何か関係あってもよさそうね」

「借金の取立て屋だったりしてな。カイ、お前んちって借金抱えてたりすんのか?」と、ムックが訊いた。

 カイは首を横に振った。父さんは慎ましく生活してるけど、何も金がないからそういう生活をしているわけじゃない。むしろ金は十分にあるハズだ。母さんが病気で死んでしまってから十五年、酒もタバコも何もなしに、寂しさを紛らわすためにがむしゃらに働いて仕事に打ち込んできたような人だから。本業の作家という仕事にも、カイの学校のPTAにも、そしてその他の地域の行事にも。機会があれば一生懸命打ち込む人なのだ。地元の商店街や学校にも大いに寄付してきたような人だ。

「となると……なんだろうな。コレとか?」と、ムックは小指を突き出した。

 カイは激しく首を横に振った。恋人や愛人もあり得ない。母さんと結婚するときだって相当ウブで、つき合うようにさせるのに一苦労したのだと、親戚が集まるたびに両家の家族から聞かされてきた。そんな器用な人でもないように思えた。

「まぁ、なんにしろ、心配だよなぁ」と、ムック。

「そうよね。カイ、せっかくあんなに素敵なお父さんがいるんだから大事にしなさいよね」ミナは言った。

 素敵? と思ったが、ミナからすればそうなのかもしれない。ミナの父さんは借金とまだ赤ん坊だったミナをミナの母親に背負わせて女作って消えたというトンデモ親父なのだから。ミナのお母さんはおかげで子育てをしながらも小学校の教師という仕事を休まずに続けてこなければならなかった。今日も下町のほうの小学校で一生懸命働いているのだろう。

「明日は父の日なんだから、ちゃんとお父さんの悩みも聞いて、一緒に色々考えてあげるのは、ってどう?」と、ミナが言った。

「そうだそうだ、俺なんてしっかりと親父の趣味に一日中つきあわされるんだぞ……」と、ムックは暗い顔をして言った。「この暑いのによ」

 ミナのおせっかいにしちゃ珍しく面倒だと思わなかった。そうだ。明日は日曜日、父の日だ。父さんが何で悩んでいるのか知らないけど、悩みを聞いてあげることぐらい出来るんじゃないか、とカイは思った。

「それより、カイ、ミナに話があったんじゃないか?」と、ムックがカイの肩を叩いた。

 そうだ。この一週間、ムックに手伝ってもらっていたのだ。ミナと、どうしたらもっと仲良くなれるか。まず第一歩として、デートに誘うのであった。

「そうだ、ミナ……えっと、今度の……休み……」と、カイは思いついたように切り出した。

「なぁに?」ミナが聞き返す。

「うん、いや、何でもない……」

「変なの」ミナは不思議そうな目でカイを見た。

 やっぱり誘えなかった。外で早とちりに鳴き始めたセミの声が聞こえる。



 勢いよく、坂を下る。自転車を持ってくればよかったと思ったが、もう遅い。思うよりも先に体が走り出してしまっていたのだから。

 日差しが強い。照りつくような暑さが肌に当たってくる。汗が噴き出て、喉が渇いてくる。

 家のある坂の上から、学校がある辺りの坂の下に着くまで十分ぐらいかかった。商店街に入る前に踏切があり、それがちょうど閉じていたのでカイは足を少し休めた。既に潮の匂いがする。

 すると、柔らかい手がカイの肩を叩いた。カイは振り向いた。

「カイじゃない! どうしたの?」と、そこにはミナが立っていた。私服でかわいい。手にはお弁当みたいなのを持っている。

 ミナは……? と返すのがとりあえず精一杯だった。

「あたしはね、ママの弁当を小学校に届けにいくところ」と、ミナは手の弁当をつきだした。「カイは?」

 切れ切れの息で、ミナに置手紙のことを話した。ミナの顔から血の気が失せた。

「それ、もしかしたらリアルにやばいじゃん!」

 カイは黙っていた。

 電車が通り過ぎ、踏切が開いた。カイは先に行こうとすると、ミナに止められた。

「待って」ミナは言った。「あたしも行く」

 二人で船着場へと急いだ。

 商店街を駆け抜け、船着場に着いてみると、フェリーは既に出た後で次の便は一時間ほど来ないということになっていた。 踏み切りで待っているうちに、出てしまったのだろうか。いくつかの場所を巡回するフェリーだから、もうしばらくは来ない。

「そんなに待てないよね……どうする?」と、ミナが訊いた。

 走っている間は止まっていた心が、足が止まったことで走り始めた。父さん、そんなに悩みがあったようには見えなかったのに……しかし、そういう自分はよく父さんを見ていたわけではない。子供のころからあまり話す機会はなく、小さいころはよく遊んでくれたがそのうち帰ってきても仕事をするだけで晩飯のときにだけ顔を合わせて話をするぐらいになっていた。

 爽やかな風が吹く、波が勢いよくぶつかる切り立った岸壁の下の岩場に父さんの死体がある姿が頭に飛び込んできた。心臓がとたんに小さくなり、苦しくなった。寒気がした。頭からイメージを拭おうとしてもできなかった。

 そのとき、後ろから声がした。

「おーい! お前ら何してんだよー! デートか!? 俺がさびしいじゃねぇか!」

 聞き慣れた声に振り向いてみると、そこにはムックがいた。漁船に乗っている。

「ムック! その船は!?」と、カイがいえる前にミナが訊いた。

「おいおい、なんでそんな真剣になってんだよ……からかっちゃ悪かったか? これは親父の漁船だよ。今、釣りに付き合わされてきたところだ。幸い、今回は一日中はかからなかったがな」と、ムックは言った。

「お願い! その船で『若日島』まで連れて行って! カイのお父さんが大変なの!」

「え?」

 カイとミナはムックに事情を説明した。

 ムックは自分の親父を呼びに跳んでいって、店の裏で楽しそうに魚を捌いていた親父さんを引っ張ってきた。ムックの親父さんは事情を聞くとすぐに船を出してくれた。小さな漁船が勢いよく港を飛び出した。

 潮の風が目に痛い。カイは自分の力ではどうにもならないとも思いながら、ただただ自分の予想が外れているのだということを切に願った。



 若日島に着いたのは午後一時過ぎだった。ムックの親父さんが船を留めないうちに、カイとミナとムックは船を飛び降りた。

 この炎天下、島の観光客は皆無であり、森の中の道はとても空いていた。

 崖に着いた。

 崖のそばに、父さんの靴が丁寧にそろえてあった。

 全身の血が凍りついた。

 自分を支える力が抜け、倒れそうになったのをムックがあわてて助けた。ムックは黙っている。ミナの目が涙ぐむ。ミナはカイを抱きしめる。

 カイは、何も感じられなかった。目の前の光景が、いやに冷めて見えた。自分のことも、周りのことも、まるで小説を楽しむかのような、冷めた目で見えた。自分の中から何かがスゥーっと消えていく。何も動かなくなった。


 そのとき。


「おお! カイじゃないか!」と、後ろから声がした。

 カイは勢いよく振り向いた。

 崖からもっと離れた木陰に、父さんが寝そべっている。傍らには見慣れない、しかしどこか見たことあるような、普段から知っているような女性がいる。

「え……?」と、ミナとムックは思わず言った。

 カイは無言で、ただ木陰の父さんを見据えた。驚きで開いた口は閉まらない。

 すると、ミナが言った。

「ママ、なんでここに……!?」

 父さんは、少し起き上がった。

「いやいや、すまん、もっと早く帰るつもりが軽いぎっくり腰になってしまって。そうしたらフェリーの時間を逃してしまったので、ちょっと休んでいたわけだ」

 カイは深いため息をついた。全身の力が、さっきとは違う風に抜けていく。安堵で抜けていくのだ。あんな置手紙を残すから、自殺するのかと思ったよ……と、カイは言った。

「なるほど、それでそんなに急いでいたのか。その心配はないぞ、このとおりピンピンとはいかないが元気にしてる」と、父さんは笑って言った。

 ひとの気も知らないで……。

「でも、なんでミナのおふくろさんとカイの親父さんが一緒に?」と、ムックは訊いた。

 ミナはムックのわき腹にひじをいれた。そして、「やっぱり、最近ママ少し様子が変わったと思ったのよね……まさか交際相手がカイのお父さんだとは思わなかったけど」と言った。

 ミナのお母さんはにっこり笑った。笑顔が、ミナに大変似ている。なるほど、自分の父さんなら惚れるのも仕方ないや、とカイは思った。

 お父さんは言った。「もと、交際相手、だな、ミナちゃん」

「え?」ミナとカイとムックの三人は言った。

 お父さんは、ミナのお母さんの右手を持ち上げた。その手は、木漏れ日の中でもまぶしく輝いた。薬指に、新品の金色の指輪がはめてあったのだ。

「今日から、家族だ」

 沈黙があった。

 そして、カイとミナとムックは心の底から叫んだ。

「ええええええええええええええ!?」




 帰りの船で聞いた話だと、カイの父さんとミナのママは、カイの父さんの寄付活動を通して知り合ったのだそうだ。カイの父さんがミナのママが勤務する小学校へ寄付を持ってくると、いつも受け付けるのはいろんな役を買って出るミナのママだった。それ以前にミナのママにしばらくカイら三人は小学校時代教わっていたのだし。知り合った二人は、それぞれの子供に内緒で交際を始め、そして、今日ついに、カイの父さんがミナのママにプロポーズしたのであった。デートを暇さえあれば毎日のように重ねたのもあるが、相性的にも、惹かれあうものがあったのだという。

 では、あの夜の預金通帳を広げての落ち込みようはなんだったのか、と尋ねてみると、ああ、あれは預金通帳は結納やいろいろやる資金があるかどうか確認していたので、暗くなっていたのは告白を前にしてものすごくネガティブになっていたのだけだという。

 置手紙は、待ち合わせに遅れそうだったので急いでそこらへんにあるもので書いたのがたまたま細い筆ペンであったというわけで、特にシリアスな感じを意識したわけではないという。それにしては出来すぎだと思った。文字が綺麗だったのは、まぁ、普通に文字が綺麗だったからだ。

 と、いうわけで、カイは夏の季節を思わぬ形で迎えることになった。

「まぁ、考えてみれば、好きな子が家の中に住むってことじゃん?? それってかなりチャンスじゃね?」と、ムックはひとごとだと思いニヤニヤ言っていた。ミナに聞こえないように。「今日、あんなのの中だったけど、抱きつかれたりしていい感じになってたじゃないかー」

 本当に、ひとごとだと思いやがって……。

 カイは喜んでいいのかどうなのか、いまいちわからなかった。


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