第5部 第8話
見慣れない番号から電話がかかってきたのは、
青信号の電話から2日後の学校帰りのことだった。
出るかどうか迷ったけど、
「マユミ、だよな?この番号であってたよな?」という声を聞いた瞬間、
出て良かったと心底安堵した。
「今、どこ?」
「学校から帰ってるところ」
そう言いながら後部座席からバックミラーを見ると、
運転手の原田さんと目が合った。
原田さんは何も言わずに車を道の脇に寄せて止める。
「えっと・・・Hっていうビルの前」
「分かった。そこで待ってろ」
携帯をブレザーのポケットに入れて左胸を見ると、
制服の上からでも分かる、
ような気がするくらい心臓がドキドキと激しく音を立てて動いているのが分かった。
「お待ちしておいた方がよろしいでしょうか」
「そうね・・・やっぱり、先に戻ってて。私は電車で帰るわ」
「かしこまりました。お気をつけて」
私を降ろすと車は静かに道へ戻って行った。
この次にあの車に乗る時、私はどんな気持ちでいるんだろう・・・
早くその時が訪れて欲しいような、欲しくないような、
不思議な気分で車を見送った。
聖がここに来るのを、
聖から話を聞くのを、
胸が張り裂けそうな思いで待っていたのに。
ポケットに手を突っ込んだまま小走りに私の所へ向かってくる聖の顔を見た瞬間、
全てが分かってしまった。
「よお」
「聖・・・」
私はビルの入り口の階段から腰を浮かせると、
聖の前に真っ直ぐ立った。
「こまわりに戻るのね?」
「ああ。反対してる奴もいるから、契約社員みたいなもんだけど」
「契約社員?」
「次の劇で結構大きな役をくれるらしい。それで客を呼べたら復帰を認めるけど、
呼べなかったらクビ、だってさ」
「・・・」
聖が客を呼べない訳がない。
これはきっと、聖を復帰させるための都築さんの案なんだろう。
私は心の中で都築さんに感謝した。
「おめでとう」
「マユミのお陰だよ」
「ううん・・・頑張ってね」
「ああ。奥さんも、応援してくれてるんだ」
そう言って聖はポケットから左手を取り出し、
照れくさそうに鼻の上を掻いた。
その左指には、相変わらず金の指輪が光っている。
・・・応援?
桜子さんが?
私は一瞬、聖が何を言っているのか分からなかった。
「・・・聖のお家は?」
「激怒してる。今度こそ絶縁だーってさ。ま、仕方ない」
「・・・だよね」
「でも、奥さんの実家は応援してくれててさ。
生活費も援助してくれるって言ってくれたけど、さすがにそれは遠慮した。
奥さんはまだ大学生なんだけど、大学行きながら俺と一緒にバイトするって言ってくれてるしな。
あ、結婚してたらバイトって言わないのか?パート?オバサン臭いよなー」
興奮しているのか、いつになく口数が多い聖。
心も身体もスーツを脱ぎ捨てて、
以前のような明るさと自由を取り戻したように見える。
これでいいじゃない。
これが私の望みだったじゃない。
私は聖に気付かれないよう、
スカートのプリーツの影でキュッと手を握り締めた。
「・・・よかったね」
「よかったかどうかは、まだ分かんねーなあ。今から早速バイトの面接だよ。
これで俺も立派にフリーターだ」
聖は、私がまだ聖のことを好きだって分かってる。
だから敢えてそこのことには触れないんだ。
だから敢えて当たり前のように「奥さん」の話をするんだ。
もし、私が桜子さんのことを知らなかったら、
聖を責めていたかもしれない。
聖を責める資格も権利もないのに、自分を押さえられずに責めていたかもしれない。
だけど、自由の女神の前で見た桜子さんの幸せそうな笑顔が私を思いとどまらせた。
「じゃあね、聖。演劇もバイトも頑張って。・・・応援してるから」
「ああ。ありがとな」
私達は手を振り合って、別々の方向へと歩き出した。
真っ直ぐ家に帰る気なれなかった私は、
何故か学校へ戻ってきた。
もうほとんどの生徒は帰宅していて、
学校にいるのは部活で残っている生徒だけだ。
校庭にある花壇のレンガに腰を降ろし、
スカートごと足を抱える。
遠くに陸上部の人たちの掛け声が聞こえた。
私、何を勘違いしてたんだろう。
聖に会いに伴野建設へ行ったのは、
聖に聖らしさが残っているかもしれない、と思ったからだ。
私にそう思わせたのは、桜子さんだ。
桜子さんも私みたいに聖らしい聖を好きなのかもしれない、
桜子さんが聖といて幸せだということは、聖にはまだ聖らしさが残っているからかもしれない、
そう思ったからだ。
だったら、聖が完全に聖らしさを取り戻し、
演劇を再び始めることを桜子さんが喜ばないはずがない。
桜子さんの実家も、さすが「桜子さんの実家」だ。
だけど・・・
足を抱える腕に力を入れる。
私、聖が演劇を取るってことは、私を取るってことだと思ってた。
会社=実家と桜子さん、
演劇=私、
そう思ってた。
でも、違った。
聖は会社より演劇を選んだけど、
私より桜子さんを選んだ。
どうして?
結婚してるから?
ううん、聖はそんなことには縛られる人じゃない。
桜子さんと結婚しても、私といたいなら私を選ぶに違いない。
つまり・・・
聖が今一緒にいたいのは、私ではなく桜子さんなんだ。
聖は、私より桜子さんを好きなんだ。
聖には今まで散々酷い目にあわされてきた。
ノエルさんの振りして私を騙したり、
勝手にいなくなっちゃったり、
突然現れたと思ったら結婚してたり・・・
だけど、聖は私のことをずっと好きなんだと思ってた。
色んな事情で一緒にいられなくても、
例え他の人と結婚していても、
聖は私を好きなんだと思ってた。
それが私を支えていた。
だから、何度落ち込んでも私は頑張れることができた。
でも今はもう・・・
聖がいなくなった日に、私の中の積み木は一つを残して全てなくなってしまった。
だけど周りの人達のお陰で、少しずつ積み木を増やすことができた。
聖は今も私を好きでいてくれている、という想いの上に私はこつこつと積み木を置いていった。
だけどその「想い」は砂だった。
私はそれに気付かないまま、積み木を置き続け・・・
今、砂が流れてしまった。
積み木はまた全て消えた。
しかも土台と一緒に。
そのくせ、やっぱりあの1つの積み木は残っている。
土台も他の積み木もないくせに、まだ1人で頑張っている。
いい加減、諦めてあんたも消えたら?
私は恨みにも似た思いを込めて最後の積み木にそう声をかけるけど、
積み木は「絶対動かないもん」と言わんばかりにしっかりと居座っている。
私を幸せにも不幸にもできるこの積み木。
一体、いつまでそこにいるつもりなんだろう。