第3部 第25話
「またコレか」
食事を終え、ドリンクバーのジュースを飲みながら、
師匠は私が差し出した袋を見て顔をしかめた。
「うん。しかも、今度はメイド・イン・バングラディッシュ」
「バングラディッシュ土産だと思えば、それなりに価値があるな。
でも、バングラディッシュで温泉の元なんか作ってるんだな・・・初めて知った」
「私も」
師匠がお姉ちゃんのお土産である温泉の元の袋に鼻を近づけて、
クンクンと匂いを嗅ぐ。
「バングラディッシュの匂いがする」
「師匠って匂いに敏感だよね」
「うん。俺、匂いフェチ。マユミの匂いも好き」
「・・・やめてよ、それ。なんか変態っぽい」
「あはは」
本当に私の匂いが好きなのか、単なる嫌がらせなのか、
師匠はテーブルに身を乗り出すと、
向かいに座っている私の髪を持って、匂いを嗅いだ。
「これは・・・わかった。ヴィダルサスーンのトリートメントだ。
でも、シャンプーは何か別のやつ使ってるだろ?
銘柄揃えろよ。その方が効果あるぞ。それにしても案外庶民的なの使ってるんだな」
・・・どうやら本当に匂いフェチらしい。
私は思わず、本当に匂いだけでトリートメントの銘柄まで分かるものなのかと、
自分の髪を指に取った。
その時、師匠の手から私の髪がハラハラとこぼれた。
離したというより、落ちたという感じだ。
どうしたのかと思い師匠を見ると、
師匠はもう私の顔も髪も見ていなかった。
テーブルに身を乗り出した格好のまま、
強張った表情で窓の外を凝視している。
私も窓の外に目を移す。
別段、変わった様子はない。
すっかり春めいた服を着ている女の子達や、
カップル、家族連れなんかが、普通に歩いているだけだ。
でも、師匠の目はある一点を見つめていて、そこから動かない。
通行人を目で追っている訳じゃなさそうだ。
すると突然師匠が椅子から立ち上がった。
その拍子に椅子がひっくり返ったけど、師匠はお構い無しに店の外へと飛び出していく。
え!?
何!?
何なの!?
一瞬あっけに取られた私も、すぐに師匠の後を追って走る。
お店を出る時に、会計のところにいる店員さんに「すみません、ちょっと・・・」と言うのが、
精一杯だった。
重いガラス扉を押し開けると、
目の前に師匠が立っていた。
その目は、相変わらず同じ一点を見つめている。
その視線は、
道路の向こう側にあるホテルのエントランスに、
その前に止まっている黒塗りの車に向けられていた。
うちにも2台くらいしかない、超高級車だ。
ただ、今、ホテルの前に止まっている車は、
同じ車種なのにうちの車とは随分雰囲気が違う。
フルスモークって言うのかな?
窓が真っ黒だ。
それになんだか、人を寄せ付けない雰囲気を持っている。
通行人もチラチラとその車を盗み見るものの、
決して近づこうとはしない。
と、ちょうど運転席の扉が開き、
中から男の人が出てきた。
私達からは運転席側しか見えないけど、
どうやら助手席からも誰かが降りたようだ。
2人とも・・・ガラが悪い。
「ヤクザです」というプラカードを首からかけてるみたいだ。
え?ヤクザ?
まさか・・・
私は師匠を見た。
師匠は睨みつけるようにして、
車と、その後部座席を見ている。
男達が助手席の後ろの扉を開いた。
車のルーフの下から、綺麗にセットされた茶色い長い髪が現れる。
スラッと背の高い女の人だ。
それも、極上の美女。
その美女に続いて車から出てきたのは、
全体的に「黒い」男の人だった。
とは言っても、黒いのは髪だけ。
肌の色は普通だし、着ている物もパリッとした垢抜けたスーツ。
それでいて、どこか黒く重々しいオーラを身にまとっている。
そうか。
もしかして彼が・・・
男の人が車から降りると、
美女がその腕に手を絡ませて、2人はホテルの中へと消えて行った。
「・・・師匠。レストランの中に戻ろうよ」
私が腕を引くと、師匠はゆっくりと車から目を逸らし、
私の顔を見た。
あの時の顔だ。
私を真冬の公園で抱いた、あの時の。
私は1人でレストランの中に入ると、
師匠と私の荷物を取り、会計を済ませて師匠の元へ走って戻った。
「あーあ・・・」
師匠がけばけばしい装飾の天井を見上げて呟いた。
私は師匠の横で目を閉じたままその声を聞く。
「またやっちゃったな」
「・・・何を?」
「こんな風にヤッちゃった、ってこと」
「ああ」
私は目を瞑ったまま口元だけ微笑んだ。
とにかく早く師匠を落ち着けたくて、
さっきの2人が入った豪華なホテルとは比べ物にならない陳腐なラブホテルに入ったけど、
せめてもう少し趣味のいい部屋にすればよかった。
でも、私の思惑通り、
師匠がいつもの師匠に戻ったからいいや。
それに、何故か私も楽しめた。
前、うちで抱かれた時はただ罪悪感しか感じなかったけど、
今日は、師匠を落ち着かせる、という大義名分があったからか、
自分の行為を正当化でき、楽しむことができたのだろう。
でも、こんな風でしか楽しめないなんて、最低だ。
「・・・いいよ。私が引っ張ってきたんだし」
「俺のためにそうしてくれたんだろ?」
「そういう訳じゃ・・・」
「分かってるって。ありがとう」
師匠が私の方を向き、私を抱き締める。
「さっきの男の人が・・・」
「うん。前に話した『二ィちゃん』。一緒にいたのが浮気相手だと思う。俺も初めて見た」
「・・・綺麗な人だったね」
「そうだな。ネェちゃんとは全然タイプが違う」
師匠の腕に力が入る。
「元々、あの人はああいう女ばっかりだったんだ。
でも、何故か全然違うタイプのネェちゃんのことを好きになった。
だけどやっぱり、ああいう女の方がよかったんだな。
最初っからネェちゃんに手を出すべきじゃなかったんだ」
腕の力がますます強くなる。
でも、私が息苦しいのはそのせいばかりじゃない。
「・・・違うよ」
「え?」
師匠が腕の力を緩めて私の顔を見た。
「あの人はきっと、本当に師匠のネェちゃんのことが好きなんだよ。
でも、どうしようもなくあの女の人のことも好きになっちゃったんだよ・・・きっと・・・」
「・・・それって自分のこと言ってんの?」
・・・え?
師匠の声が、目が、急に冷たくなる。
私はその目に射抜かれたように動けなくなった。
師匠はベッドからガバッと起き上がると、
服を着だした。
「マユミも早く着ろよ。出ようぜ」
「・・・うん」
私は、自分がどうやって服を着たのか分からないまま、
ホテルの外へ出た。