迷宮への招待
僕は、また歩いていた。どこに向かうのか、正確にはわからない。ただ、足が自然に前へと進む。止まる理由もなければ、立ち止まる理由もない。ただ、歩くことだけが、僕にとっての存在の証のように思えた。歩くことで、自分がまだここにいることを、世界に示している気がするのだ。
街も村も、もう何度も通り過ぎた。古びた石畳の町、木々に囲まれた小さな集落、川沿いの水車小屋――それらは一瞬、目に映っただけで、やがて後ろに流れ去る。人々の生活の匂い、笑い声、泣き声――すべてが遠く、どこかぼやけてしまう。忘れたのかもしれない。いや、忘れること自体が、僕の体質なのだ。何百年も生き続ける僕に、過去の断片を抱えることは許されないらしい。記憶は迷宮の中に沈み、気づけば跡形もなく消えていた。
今日も、荒れ果てた森の中を歩いていた。枯れ葉の匂い、湿った土の感触、枝が肩に触れる軽い痛み――そんな些細な感覚だけが、僕が今ここにいることを確かめさせてくれる。木々の間を吹き抜ける風は、冷たく湿っていて、耳元で小さなささやきを繰り返す。足元の小石が踏みつけられるたび、森全体が微かに振動しているように感じる。
森の奥深くで、異様な静寂に包まれた空間を見つけた。空気の密度が変わり、時間が止まったかのように感じられる。木々の間に、光がほのかに揺れる門が現れた。石造りの大きな扉。古代の紋章のような模様が、長い時の重みを帯びて刻まれている。
なぜか、僕はその扉に吸い寄せられるように近づいた。手を触れると、ひんやりと冷たい感触が指先に伝わる。扉に刻まれた文字は、見覚えがあるようで、ない。読むことはできないのに、意味だけが心に響く──「迷宮の扉」。古いけれど、どこか懐かしい感覚が胸をくすぐる。
その瞬間、背後から声が響いた。
「ようこそ、旅人。」
振り返ると、そこに彼女はいた。青白い光をまとった女性――半透明の体に、霧のような羽が漂っている。瞳は深く澄み、こちらの心の奥まで見透かすようだった。光に照らされた彼女の輪郭は、現実と幻想の境界にいるような存在感を放っている。
「……誰だ?」
「私はセレナ。迷宮の案内者です」
言葉の端々に威圧感はない。むしろ柔らかく、優しい。しかし、その声の重みは、どこか遠い時空から響いてくるようで、僕の胸を締め付ける。
「迷宮……?」
「そう。あなたが歩む道は、忘却の迷宮。過去を失い、未来を求める者のための場所です」
僕は眉をひそめた。忘却?未来?それは僕にとって、日常そのものではないか。
「……俺は、ただ歩いているだけだ」
「いいえ、あなたは求めています。忘れた記憶を、失われた時間を。だからここに導かれたのです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが震えた。覚えていない何かを思い出そうとしているような感覚。しかし、頭の中は空っぽだ。思い出せない。だが、心の奥で、確かな感情が残っている──孤独、そして微かな期待。
セレナは微笑んだように見えた。
「扉を開ける覚悟はありますか?」
迷った。いや、迷う必要もない。ここで立ち止まることは、もう選択肢にない。足は自然に扉を押していた。
扉がゆっくり開く。ひんやりとした風が僕を包む。中は闇……いや、闇ではない。光と影が交錯し、空間がねじれるように広がっていた。床は石造りだが、踏むたびに微かに振動する。壁は無限に連なるかのようで、天井は霧に溶けて形を失っていた。
その瞬間、僕は感じた。ここは――生きている。迷宮自体が呼吸している。僕の足音、心臓の鼓動、すべてを吸い込み、変化させる。
「ここが、あなたの旅の始まりです」
セレナの声が、迷宮の奥深くから響く。
歩き始める。視界の端で、壁の模様がゆらりと揺れる。罠か、それとも幻か。僕には判断できない。ただ、進むしかない。
その時、遠くからかすかな声が聞こえた。
「ねえ、そっち?」
振り返ると、若い女の子が立っていた。肩までの栗色の髪、緑がかった瞳。軽装の冒険者服を身にまとい、小型の弓を背負っている。目は驚きよりも好奇心に満ちていた。
「君は……?」
「私はリアナ。探検家です。迷宮を突破したくて来たんだけど……あなたも旅人?」
無意識に、僕は少し微笑んだ。仲間か……。長い孤独の旅に、久しぶりに誰かが加わる感覚。
「そうだ」
「じゃあ、一緒に進もうよ!」
迷宮は僕の理解を超えている。何が待ち受けているかもわからない。しかし、リアナの存在が、僕の足を軽くする。孤独ではない。少なくとも、今は。
そして、闇の中で、僕は初めて迷宮の壁に耳を澄ませた。微かに、何かが囁いている。
「試されるのは、あなたの心です」
迷宮は、ただの空間ではない。僕の記憶、感情、選択――すべてを映し出す生き物。僕はまだ、その全貌を知らない。
だが、歩き続ける。孤独を抱えながらも、希望を胸に抱き、僕は迷宮の奥へと進む。
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