空の青をひとつずつ飛んだ
雨宿りをすることにした。
大学へと向かう途中で雨がぽつぽつと降ってきて、直ぐにも本格的な大雨となってしまったからだ。
小降りのうちは頑張って走っていたけれど、かなりの雨量が空から降ってきたため、途中で断念し、諦めた。
「あーあ。せっかくお気に入りのスカート履いてきたのにな」
近くの古着屋で見つけ、萌葱色の柔らかい色味に惹かれて、衝動買いをしたスカートだ。
「と、雨が……強くなってきた……」
慌てて足を止め、まだOpen前でシャッターの降りている金谷商店(金物屋らしい)の軒下へと入らせてもらう。大学のキャンパスまではまだ10分ほどあるので、どうしようかと逡巡する。
すると。
向こうから大きくて黒い影が走ってくるのが見えた。
(なんだろう……雨宿りかな)
その黒い影はこちらへ向かって一直線に、どんどんと近づいてくる。すると、その正体が明らかに。それは人間ほどの背丈のある、巨大なゴキブリだった。たくさん足があるにも関わらず、なぜか二足歩行だ。カサカサカサとこちらに向かってきては、私の隣、1人分をあけて軒先へと入ってきた。
ここで、ゴキブリと表現するとあちこちで悲鳴が上がりそうなので、可愛らしくGonちゃんと名前を変換することにする。Gちゃんだと、爺ちゃんと間違えそうなので、この方が良いだろう。これなら、ちょっとキャラクターっぽいって言うか、ゆるキャラ寄りになって、現実を想像しにくくなるかと思う。
Gonちゃんは、「ふわあ、参った参った。降られました〜」と私に話し掛けるでもなく、独り言のようにつぶやいた。
その言葉を聞いて私も、
「予報では……晴れマークついてたんだけどな」と、呼応するようにつぶやいていた。
すると、Gonちゃんがこちらを向いたのが、視界のすみの方で見えた。
「こんな風に突然の雨だと、仕方ないですかねえ。天気予報ってのは、当たるようで当たらないし、当たらないようで当たるんですよね。だから、判断が難しい」
「ですね」
会話が成り立ってしまった。相手はGonちゃんだと言うのに。
さらに会話が進む。
「ボク本当に湿気が苦手で。濡れるとGになってしまう呪詛をかけられているから、こういう突然の雨はほんと困るんですよね」
自分で、Gと言ったことに驚いた。明らかにこの信じがたい現実を認めて、受け入れているようだ。
なるほど。
とは思ったが、『呪詛』? がどういうことなのか?
そこのところが特に気になった。問いかけたい。
けれど、敢えて問わなかった。見かけをディスるのは良くないと、小さな頃から両親に教えられてきたからだ。
ただ、そんな良識ある人だった両親とも、あることをきっかけに、1年ほど前から疎遠になりつつある。
Gonちゃんが、はあーあと深くため息をついた。
湿気が嫌すぎるのか、それとも私と同じようにこの世を厭い、人生に対して投げやりになっているのか。ままならない何かを、そのため息の中に内包している気がして、私はどこかしら共感してしまう。
「苦労しますね」
「わかってくれる人がここに」
私はこの曇天を見る。
「雨かあ。目的地の前で足を止めざるを得なくなるって、だるいですよね」
「はい。あとちょっとで図書館の入り口だったのに」
「図書館ですか。あと一歩のところでしたね。私は大学です。まだ10分ほど先だから、このままここで雨宿りしてると、まあ遅刻かな。あーあ。いつもは折りたたみ持ってるのに」
「ボクもです。けど、今日に限って、忘れてきちゃって。ボク、昨日の夜、カバンの中を整理しちゃったんですよ」
「あらら」
「なんでボク、カバンなんか整理しちまったんだろ。全部出して、なーんかわかんないんですけど色々と片付け始めちゃって。その時に折りたたみを棚に戻したんですよね」
「学生さんですか? もしかして、今テスト週間とか?」
「ああ。ありますよね。テスト前になると、やたら掃除とか片付けがしたくなるやつ」
「あるあるです」
「ははは」
和やかな雰囲気で会話が弾む。そのうち、雨も小雨になってきて、地面を打つ雨も弱々しく変化していく。
ふと、横を見る。
あれ?
私がGーーっと見つめているのに気がついたのか、Gonちゃんが、こちらを見てくる。
さっきまで、Gonちゃんだったはずなのに、夢か現か、まるで人間候になっていた。男性で背が高く、しかもイケメンだ。
「濡れた身体が乾いてきたみたい」
ふ、と微笑。柔らかな笑顔、長いまつ毛、高い鼻筋、薄い唇、そして青く深く美しい青色の瞳。緩やかなウェーブの金髪。輝く王冠でも見えるかのごとく、なんとも外国のお城が似合うような、王子様だ。
なんで王子様がGに?
呪詛とか言ってたが。
ただ、下半身はまだGのまま。なるほど。
「雨の日は変身してしまうんですね」
「はい。一時は諦めたんです。生きていくことを」
Gonちゃんは空を見上げた。私もその視線につられて、空を見る。いつの間にか、さっきまで曇天だった雲の切れ間から一筋、太陽の光がさしていた。
彼はその一筋の光を、じっと見つめていた。
「でも……あなたは生きている……?」
「はい、その通りです」
と、横を見ると、笑顔を向けてきて。その笑った顔がとても美しいと思った。ブルーの瞳が、宝石のようにキラキラと輝いている。
確かにこの世は生きにくい。
私もGonちゃんと同様に、服装など揶揄われたことがあるし、自分っていったい何者なんだろうって思い詰めたこともある。
「こんな世界、地球温暖化とか隕石落下とかで、滅亡してしまえばいいって思ったこともある」
私がそう言うと、Gonちゃんはブルーの瞳を大きく見開き、私を見た。驚きを隠せないとでもいうように。とてもわかりやすい人(G)なんだな。
「ボクと一緒です」
「それでも生きるのはなぜ?」
「良いこともあるから……ですかね」
「良いこと? そんなことそうそう無い」
「ありますよ。こうしてあなたと出会えたこと。雨に降られて絶望もしたけど、それが今日イチ良いことでしたよ」
口元が緩んでいくのがわかった。Gonちゃんの? ううん、私の。
「そうですか……なんかありがとうございます」
こんな私と出会えたことを、喜んでくれるだなんて。少しくすぐったい。
雨が小降りになり、空は所々に晴れ間を作っていく。地面にできた水たまりに、その空の青が映っていて、鏡みたいだなと思った。
「応援してくださいよ。もっと頑張れるように」
「応援?」
「はい。ボクも。あなた自身も。お互い頑張って生きましょうよ」
そうだね。こんな私だから生きててもしょうがないって思ったこともあったけれど。これからは胸を張って生きることができるだろうか。
ぐずぐずと後ろ向きだった自分。この目で真っ直ぐに、前を見据えることはできるだろうか。
私は背筋をピンと伸ばしてみた。
そして完全に雨が上がり、曇天から晴天へと変化していく空へ向かって、金谷商店の軒先から大声で叫んだ。
「フレーフレーーーGonちゃん!! フレーフレーーーわたしぃーー!!」
すると、「えっっ」
隣でGonちゃんが声を上げた。
「……ど、どうしてあなた……」
驚きで、青い瞳がくわっと目一杯に開かれている。まん丸のビー玉みたい。その美しさに一瞬、見惚れてしまう。
私が惚けてしまい、喋らないでいると。
「どうしてボクにかかっている呪詛の、解放ワードを知っているんですかっっ!!」
「え?」
一瞬の静寂。
そして、ぱあぁぁぁあああっと、太陽のそれとは違った柔らかな光がGonちゃんを包み込んだ。
「ふ、れーふれーが?」
私の応援が、それであったとは、まったく知らずに。
「ありがとうっありがとうっ」
あっと言う間に、Gだった下半身は人間へと戻り、そしてGonちゃんから、Gであった痕跡は、跡形もなく消え失せた。
けれど不思議なことに、ちゃんと服も着ているし、スニーカーも履いている。
Gだったのは、果たして夢だったのかと思うくらいに、普通に人間だ。
ゆるやかなウェーブの金髪が、すでにこの世界を力強く照らしている太陽の光に、キラキラと輝いている。
「わあ、かっこいい方だったんですね……」
思わず呟いてしまうほどの、イケメンぶり。
「僕を救ってくれて、ありがとう! あなたは僕の恩人です!! あなたはなんて……心の美しい人なんだ」
うっとりとした青い瞳で見つめてくる。
「そんな……でもあなたが救われて良かったし、私も……救われた気がします。なんだかこれからも生きていけそうですから」
「良かったら連絡先を交換してもらえませんか?」
すちゃっとスマホをポケットから出した。その様子を見て、私は狼狽えてしまった。
「あ、いや、えっ……と……」
途端に王子様の顔が曇っていく。
「……ダメですか……?」
「そ、それがその……」
「良かったら一緒にごはんでもどうかなって。お礼をさせてください」
「…………」
私は完全に黙り込んでしまった。自分に自信がないのもある。それは1年ほど前に、両親にカムアウトした時から、そうだった。
「私……その……こんなナリをしてますけど、実は……男、なんです」
両親はたいそう驚いて、カムアウト後、よそよそしくなってしまった。それが現実。辛かったのか、悔しかったのか、悲しかったのかはわからないけれど、私はその時、一生分くらい泣いて泣いて泣いた。1年経った今でさえ、胸の痛みとともに、つんと鼻の奥が痛む。
けれど、それでも強烈に願う。
ああ、私、こんなにも女の子になりたかったんだ、と。
すでに雨は上がっていた。
私は空を見上げて振り切るようにして、踵を返した。
「驚かせてすみませんっ。でも私、もう乗り越えたんです。だから大丈夫。私、もう行かなきゃ!! それじゃあ!!」
自分に言い聞かせるようにして早口で捲し立てると、その拍子に目尻に溜まっていた涙が、ほろっと落ちた。
私はその場に居たくなかった。ぐっと足に力を入れ、駆け出した。
さっきまで、これからも頑張って生きようと、高揚すらしていたのに。今では空気が抜けてペチャンコになった風船のように、気持ちは萎んでしまっていた。
けれどその時、突然。
「フレーーー!! フレーーーあなたーー!!」
背中に声が掛かった。
足を止めて振り返ると、王子様が両手を口元にあてて叫んでいる。
じわっと目に涙が溜まる。
「人は人だし、僕は僕だっ!! そんでもって、あなたはあなただっ!!」
そのイケメン顔でそれやられると、民衆の前で演説する王子様の決起集会みたいだけど……私は手の甲で涙をぐいっと、ぬぐった。そして、晴れた空のもと、大きく手を振った。
「わたしはわたしねーー!! ありがとーー!!」
「僕の方こそ、ありがとう!!」
そして振り返って大学へと歩き出す。
私は私。
今。お気に入りのスカートを履いているのも、私。
すると、萌葱色のスカートが、軽い足取りに合わせるかのように、ゆらゆらひらりと揺れた。
まだ湿っている雨上がりの空気を、胸一杯に吸う。じめじめした重い空気であるはずなのに、なぜか息がしやすかった。
一面に広がってゆく晴天の空の下、地面の水溜りに映る青をひとつずつ飛んでいく。
軽く。
どこまでも軽く。
これからだって飛んでいく。お気に入りのスカートを履いた私のままで。