第二章:青白い回廊と静寂の恐怖
「……ねえ、ここ、どこなの……? 怖いよ……」
ミカの声は震え、その大きな瞳には明らかな恐怖の色が浮かんでいた。無理もない。さっきまで見慣れた城址公園の頂上にいたはずなのに、今は訳の分からない、不気味な光を放つ構造物の中にいるのだ。状況を飲み込め、という方が無理な話だ。
「落ち着いて、ミカ。パニックになったらダメだ」
私は、自分自身に言い聞かせるように、努めて冷静な声を出した。だが、内心では、ミカと同じように、得体の知れない恐怖と不安で押しつぶされそうになっていた。
まず、現状を把握しなければならない。私たちは、おそらく何らかの地下空間にいる。落下したという感覚は確かだったが、どれくらいの距離を落ちたのか、そしてどうやってこの場所に辿り着いたのかは全く分からない。怪我は、幸いなことに打撲程度で済んでいるようだ。ミカも、少し頭を打ったようだが、意識ははっきりしている。
「スマホは……ダメか」
ミカのスマホも、私のスマホも、完全に電源が落ちていた。充電切れというわけではない。まるで、強力な磁場か何かで、電子機器が機能を停止させられたかのようだった。外部との連絡手段は絶たれた。
「……出口を探そう。じっとしていても仕方ない」
私はミカの手を取り、立ち上がらせた。彼女はまだ少しふらついていたが、私の言葉にこくりと頷いた。
私たちが最初にいたのは、比較的広い、ドーム状の空間だった。壁一面に青白い光を放つ幾何学模様が刻まれ、まるで生きているかのように、ゆっくりと明滅を繰り返している。その模様は、どの文化にも属さない、完全に異質なデザインだった。
「こっちに行ってみよう」
ドーム状の空間には、いくつかの通路らしきものが繋がっているように見えた。私たちは、その中で最も幅の広い、そして奥から微かに風の流れを感じる通路を選んで、慎重に足を踏み入れた。
通路もまた、同じ黒曜石のような素材でできており、壁には同様の幾何学模様が続いている。天井は高く、私たちの足音だけが、不気味なほど静かな空間に吸い込まれていく。光源は壁の模様そのものであり、影というものがほとんど存在しない。それが、かえって方向感覚を狂わせ、不安を増幅させた。
「ねえ、これ、本当に人間が作ったものなのかな……」
ミカが、小声で囁いた。
「……分からない。でも、私たちの知っている文明のものじゃないことだけは確かだね」
通路は、まるで迷路のように複雑に入り組んでいた。私たちは、壁に目印をつけながら(幸い、ポケットにチョークの欠片が入っていた)、できるだけ同じ場所をぐるぐる回らないように気を付けて進んだ。だが、どこまで行っても景色は変わらず、人の気配は全く感じられない。あるのは、ひたすら続く青白い回廊と、耳鳴りのような静寂だけだった。
(失踪した三人も、もしかしたら、この場所に迷い込んでしまったのかもしれない。そして、今もどこかを彷徨っているか、あるいは……)
不吉な考えが頭をよぎる。だが、今はそれを振り払うしかなかった。
どれくらい歩いただろうか。数時間か、あるいは半日か。時間の感覚も曖昧になっていた。疲労と空腹、そして何よりも精神的な消耗が、私たちを襲い始めていた。
「もう……歩けないよ……」
ミカが、ついにその場に座り込んでしまった。彼女の顔は蒼白で、目には涙が滲んでいる。
「ごめん、ミカ。もう少しだけ頑張ろう。きっとどこかに出口があるはずだから」
励ます言葉も、だんだんと空虚に響き始める。私自身、この永遠に続くかのような回廊に、絶望感を抱き始めていた。
その時だった。
ふと、遠くから、微かに何かの音が聞こえてきたような気がした。
「……今の、何……?」
ミカも、その音に気づいたようだった。私たちは顔を見合わせ、息を殺して耳を澄ます。
それは、音というよりも、振動に近いものだった。規則的な、低い唸りのような……何かが動いているような、そんな気配。
「行ってみよう」
疲労も忘れ、私たちは音のする方へと慎重に進んだ。音は、徐々に大きくなっていく。そして、いくつかの角を曲がった先、私たちは信じられない光景を目の当たりにした。
そこは、これまで通ってきた回廊よりも、さらに巨大な空間だった。体育館ほどの広さだろうか。そして、その中央には、巨大な、まるで機械の心臓部のような装置が、ゆっくりと回転しながら、青白い光と低い唸り声を発していた。装置の表面には、無数のパイプやケーブルのようなものが複雑に絡み合い、壁の幾何学模様と繋がっているように見える。
(これは……何かの動力源? それとも、この施設全体の制御システム……?)
その巨大な装置の威圧感と、そこから発せられる得体の知れないエネルギーの波動に、私たちはただ立ち尽くすしかなかった。
そして、その装置の周囲に、私たちは「それ」を見つけた。
「……あれ……何……?」
ミカの声が、恐怖に引きつっていた。
装置の周囲の床に、いくつかの人影のようなものが、横たわっていたのだ。いや、人影ではない。それは、まるでマネキンのように滑らかな質感で、しかし手足や頭部といった、明らかに人間に似た形状をしている。だが、その体表は、壁と同じ黒曜石のような光沢を持ち、関節部分は奇妙な球体で繋がっている。そして何より、顔にあたる部分には、目も鼻も口も、一切の造作がなかった。のっぺらぼうの、無機質な「何か」。
それらは、一体一体が、まるで充電でもするかのように、装置から伸びる細いケーブルで繋がれ、微動だにしていない。
「……まさか……あれが、この施設を作った……?」
私の口から、思わずそんな言葉が漏れた。地球外生命体。人間とは全く異なる形態を持つ、未知の知的存在。その可能性が、脳裏をよぎる。
だが、次の瞬間、その「何か」の一体が、ゆっくりと動き始めた。
ギギギ……という、金属が擦れるような、不快な音を立てながら、その黒いマネキンのような体が起き上がる。そして、のっぺらぼうの顔が、ゆっくりと、私たちの方へと向けられた。
「……ひっ……!」
ミカが、短い悲鳴を上げた。私も、全身の血が凍りつくような恐怖を感じていた。あれは、生きている。そして、明らかに私たちを認識した。
その「何か」は、音もなく、滑るように私たちの方へと近づいてくる。その動きは、どこかぎこちないようでいて、しかし無駄がなく、機械的だった。
逃げなければ。本能がそう告げていた。
「ミカ、走るよ!」
私はミカの手を掴み、今来た通路へと全力で駆け出した。後ろからは、あの「何か」が、無音で追いかけてくる気配がする。振り返る余裕などなかった。
私たちは、必死で走った。息が切れ、足がもつれそうになる。だが、止まるわけにはいかない。あの「何か」に捕まれば、どうなるか分からない。
迷路のような通路を、がむしゃらに走り続ける。どこをどう走っているのか、もう分からなかった。ただ、あの「何か」から逃れることだけを考えて。
やがて、前方に、微かな光が見えた。それは、これまで見てきた青白い光とは違う、もっと自然な、太陽の光に近い色合いだった。
(出口……!?)
最後の力を振り絞り、私たちはその光へと向かって走った。そして、光の中に飛び込んだ瞬間、再び強烈な浮遊感と、意識が遠のいていく感覚に襲われた。
次に気がついた時、私たちは、見慣れた城址公園の、石垣の近くの草むらの上に倒れていた。夕日は既に沈み、空には一番星が輝き始めている。
「……夢……?」
ミカが、呆然とした表情で呟いた。私も、何が起こったのか、すぐには理解できなかった。服は泥と草で汚れ、身体のあちこちが痛む。だが、あの青白い回廊も、巨大な装置も、黒いマネキンのような「何か」も、どこにも見当たらない。まるで、全てが悪夢だったかのように。
しかし、私の手の中には、確かにあの時拾った、ミカのスマホが握られていた。そして、ポケットを探ると、壁に目印をつけたチョークの欠片も、確かに入っていた。
あれは、夢じゃなかった。
私たちは、確かに、あの異質な空間にいたのだ。
「……帰ろう、ミカ」
私は、まだ混乱しているミカの手を取り、立ち上がらせた。何があったのか、今は説明できない。だが、一刻も早く、この場所から離れたかった。
私たちは、ふらつく足取りで山を下り、麓の駐輪場へと向かった。自転車に跨り、家路を急ぐ。振り返ると、城址公園のシルエットが、夕闇の中に黒々と浮かび上がっていた。あの場所の地下に、本当にあんなものが存在するのだろうか。
そして、失踪した三人は、一体どこへ……?
その夜、私は高熱を出し、うなされた。夢の中では、青白い回廊と、無機質な「何か」が、私を追いかけ続けていた。