第一章:寂れた街と消えた人々
日本海から吹き付ける湿った風が、古いアーケードの錆びたトタン屋根をカタカタと揺らす。私の生まれ育った街、湊市は、海と繋がる大きな潟湖――地元では「内海」と呼んでいる――を抱くようにして広がっている。その内海を見下ろす小高い丘には、かつてこの地を治めた武将の城があったとされる城址公園があり、その麓には県立湊大学、そしてかつては街の中心だった商店街が、今は寂れた姿を晒している。
「またシャッター増えたね」
帰り道、幼馴染のミカが、まるで天気の話でもするように呟いた。彼女の視線の先には、シャッターが固く閉ざされた元呉服店の、色褪せた看板があった。ここ二十年ほどで、この中央商店街は見る影もなく衰退した。かつては賑わいを見せていたというアーケードも、今ではほんの十メートルほどを残すのみで、その先は雨風に晒され、アスファルトのひび割れから雑草が顔を覗かせている。
私たちの日常は、この寂れた風景と共にある。高校二年生。代わり映えのしない毎日。刺激を求めれば、国道まで自転車を飛ばし、そこからさらに数キロ先のアニオンモールへ行くしかない。家族連れや、車の免許を取ったばかりの少し年上の先輩たちが、週末の時間を潰す場所。私たちは、まだそのどちらでもない。
「ていうかさ、この街、マジで終わってない?」
私は、ミカの言葉に同意するように、大きく息を吐いた。手にしたスマホの画面には、東京の華やかな街並みが映し出されている。神戸、大阪、東京、神奈川。大学は、絶対にこの息苦しい街を抜け出して、大都市のどこかへ進学する。そして、一人暮らしをする。それが、今の私の唯一にして最大の目標だった。
私たちは、県立湊東高校の生物部に所属している。とは言っても、それは名ばかりで、活動らしい活動はほとんどない。顧問の先生も放任主義で、部員も私とミカ、そしてたまに顔を出す男子が一人いるだけの、事実上の帰宅部だ。だから、平日の放課後は、こうしてミカと二人、シャッター街をぶらついたり、どちらかの家でスマホをいじったり、流行りの動画を見たりして過ごすのが常だった。外で遊ぶったって、この街にはろくな場所がない。移動手段も自転車かバスくらい。自然と、インドアな遊びが増える。
そんな退屈な日常に、突如として異変が起きたのは、二週間ほど前のことだった。
同じ高校の生徒二名と、教員一名が、忽然と姿を消したのだ。
失踪したのは、一年生の物静かな男子生徒と、三年生の活発な女子生徒、そして現代国語を担当する若い男性教諭。学年も性格も全く異なる三人。学校内では、彼らに共通する接点など、誰も見つけ出すことができなかった。
警察の捜査も難航しているらしかった。唯一の手がかりとして、失踪当日、三人一緒に城址公園の方へ歩いていく姿を見た、という近所の住民の曖昧な目撃証言があるだけだ、という噂がまことしやかに流れていた。
城址公園。その名前を聞いた時、私の胸の奥に、長い間忘れかけていた記憶の断片が、ふっと蘇ってきた。
あれは確か、小学校低学年の頃の遠足だったと思う。クラスのみんなで城址公園へ行き、頂上にある石垣の周りで遊んだ。その時、私は偶然、石垣の裏手、鬱蒼とした木々に隠れるようにして存在する、小さな洞穴を見つけたのだ。中は暗くて、少し不気味だったけれど、子供心に冒険心をくすぐられ、ほんの少しだけ中を覗いてみた。奥はどこまでも続いているように見えた。
後日、その洞穴のことを大人たちに話しても、誰も信じてくれなかった。「そんなもの、城址にはないよ」「気のせいじゃないか」と、一笑に付された。自分でも、本当に見たのかどうか自信がなくなり、いつしかその記憶は曖昧になっていた。
小学校高学年になり、行動範囲が広がってから、何度か一人で城址公園へ行き、記憶を頼りに洞穴を探したことがあった。だが、いくら探しても、石垣の裏手には、木々と下草が生い茂っているだけで、洞穴らしきものは影も形も見当たらなかった。やはり、あれは子供の頃の空想だったのかもしれない。そう思うようになっていた。
今回の失踪事件と、あの洞穴の記憶。直接的な繋がりがあるのかどうかは、全く分からない。だが、なぜか無性に気になって仕方がなかった。あの時、確かに見たはずの洞穴。それは一体何だったのだろうか。
「ミカ、明日、城址公園に行ってみない?」
いつものようにミカの部屋で、特に意味もなくスマホをスクロールしていた時、私は唐突にそう切り出した。
「え? 城址? なんでまた急に。あそこ、最近なんか雰囲気悪いじゃん。失踪事件のせいか知らないけど」
ミカは、訝しげな顔で私を見た。彼女は、どちらかというと怖がりで、オカルトめいた話は苦手なタイプだ。
「うん、ちょっと確かめたいことがあって」
私は、子供の頃に見た洞穴の話をミカに聞かせた。もちろん、彼女も「そんなのあったっけ?」という反応だった。
「気味が悪いよ、やめようよ。もし本当に何かあったらどうするの」
ミカは明らかに乗り気ではなかった。だが、私は一度興味を持ってしまうと、どうしても確かめずにはいられない性格だ。そして、ミカも、そんな私の性格をよく理解してくれていた。
「……はぁ。まあ、アンタがそう言うなら、付き合うけどさ。でも、危ないと思ったら、すぐに帰るからね」
結局、ミカは渋々ながらも、私の提案を受け入れてくれた。
翌日の放課後。私たちは制服のまま、自転車で城址公園の麓にある駐輪場まで行き、そこから石段を登り始めた。初夏の生暖かい風が、汗ばんだ額を撫でていく。城址公園は、平日の夕方ということもあってか、人影はまばらだった。鬱蒼と茂る木々が太陽の光を遮り、昼間だというのにどこか薄暗く、静まり返っている。失踪事件の影響もあってか、普段よりもさらに人気がなく、不気味な雰囲気が漂っていた。
「やっぱり、なんか嫌な感じする……」
ミカが、私の腕にそっとしがみつくようにして呟いた。私も、子供の頃に遠足で来た時の賑やかな記憶とは全く違う、重苦しい空気を感じていた。
記憶を頼りに、石垣の裏手へと回り込む。昔、洞穴があったはずの場所。だが、やはりそこには、木々と下草が生い茂っているだけだった。念入りに周囲を探してみたが、洞穴の入り口どころか、それらしき痕跡すら見当たらない。
「ほら、やっぱり何もないじゃん。昔の記憶違いだよ、きっと」
ミカが、少し安心したような、それでいて呆れたような声で言った。
「……うん。そうみたいだね」
私も、少しがっかりしながら頷いた。やはり、あれは子供の頃の夢か、あるいは何かを見間違えただけだったのかもしれない。
「せっかくだから、上まで登ってみようよ。夕日、綺麗に見えるかも」
手ぶらで帰るのも何だったので、私はそう提案した。ミカも、特に反対はしなかった。
私たちは、整備されているとは言い難い、苔むした石段をさらに登り、やがて城址の頂上、かつて天守閣があったとされる場所に辿り着いた。そこは、少し開けた広場になっており、崩れかけた石垣が、わずかに往時の面影を留めている。
広場の端に立つと、眼下に湊市の市街地が一望できた。とは言っても、高い建物などほとんどない、見慣れた田舎の風景だ。左手には、内海が夕日に照らされて、キラキラとオレンジ色に輝いている。その水面は鏡のように空を映し、穏やかで、どこか幻想的な美しさだった。
「わぁ……綺麗……」
ミカが、思わず感嘆の声を漏らした。私も、その美しさにしばし言葉を忘れ、見入っていた。この寂れた街にも、こんなに美しい瞬間があるのだな、と。
その、ほんの一瞬だった。
夕日の美しさに心を奪われていた私の足元が、ぐらり、と揺れた。いや、揺れたというよりも、まるで地面が突然消え失せたかのような、強烈な浮遊感。
「え……?」
声にならない声が漏れた。次の瞬間、私の身体は、抵抗する間もなく、真っ逆さまに落下していくような感覚に襲われた。目の前の美しい夕景が、急速に遠ざかっていく。ミカの驚愕の表情が、スローモーションのように見えた。
何が起こっているのか、全く理解できなかった。ただ、強烈な落下感と、内臓が持ち上がるような不快感だけが、現実のものとして私を支配していた。
(落ちる……!?)
だが、地面に叩きつけられる衝撃は、いつまで経ってもやってこない。それどころか、落下しているという感覚そのものが、徐々に薄れていく。代わりに、全身が何かに包み込まれるような、奇妙な圧迫感。そして、意識が急速に薄れていくのを感じた。最後に見たのは、真っ暗な闇の中に、無数の光の点が、まるで星空のように瞬いている、そんな光景だった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
ふと、意識が浮上した。身体のあちこちが鈍く痛む。特に頭が重く、ガンガンと脈打っている。
「……ん……」
ゆっくりと目を開けると、そこは、真っ暗ではなかった。ぼんやりとした、青白い光が周囲を照らしている。私は、硬い石のような床の上に、うつ伏せに倒れていた。
「……ここは……?」
身体を起こし、周囲を見回す。そこは、明らかに自然の洞窟ではなかった。壁も、天井も、床も、滑らかに研磨された、黒曜石のような光沢を持つ未知の金属、あるいは石材のようなもので覆われている。そして、その壁面には、複雑な幾何学模様が、まるで血管のように、青白い光を放ちながら刻まれている。その光が、この空間の唯一の光源らしかった。
空気はひんやりとしていて、どこか金属的な匂いが微かに漂っている。音は、全くしない。まるで、世界の全ての音が消え失せてしまったかのような、絶対的な静寂。
(城址の頂上から……落ちたはず……。でも、ここは……?)
混乱する頭で、必死に状況を理解しようとする。落下したはずなのに、怪我らしい怪我は、打撲程度で済んでいるようだ。そして何より、この空間。明らかに人工的な構造物。だが、こんなものが、あの城址の地下に存在するなど、聞いたこともない。
「ミカ……? ミカはどこ!?」
友人の名前を叫びながら、立ち上がろうとした。その時、すぐ足元に、何かが転がっているのに気づいた。
ミカのスマホだった。画面は割れていないが、電源は落ちている。そして、その少し先には、見慣れた制服のスカートと、投げ出されたように横たわるミカの姿があった。
「ミカっ!!」
私は、慌てて駆け寄り、彼女の肩を揺さぶった。
「ミカ! 大丈夫!? しっかりして!」
ミカは、うめき声を上げながら、ゆっくりと目を開けた。その目は焦点が合わず、状況を理解できていない様子だった。
「……あれ……? あたし……どうしたんだっけ……? さっきまで、夕日見てて……」
「私たち、落ちたみたいなんだ。城址の頂上から。でも、どうしてこんなところに……」
言いながら、私は改めて周囲を見回した。やはり、ここは異常だ。壁に刻まれた幾何学模様は、見たこともない、明らかに人間以外の文明によって作られたものだと直感的に感じた。そして、この空間には、出口らしきものはどこにも見当たらない。まるで、巨大な箱の中に閉じ込められてしまったかのようだった。
「……人が……いない……」
ミカが、怯えたような声で呟いた。その通りだった。これほど巨大で精緻な構造物を作った存在がいるはずなのに、その気配は全く感じられない。ただ、冷たい静寂と、青白い光だけが、私たち二人を取り囲んでいた。
私たちは、明らかに異質な文明の構造物の中に、迷い込んでしまったのだ。そして、ここが、あの失踪事件と何か関係があるのかもしれないという、漠然とした、しかし強烈な予感が、私の胸を支配し始めていた。