8歳の天使に恋をしたので母親と結婚して幸せにする
【1章 出会い前夜】
北斗総合病院の精神科勤務医。それが私の職業だ。
西之園公親、公家か何かみたいな名前だけどごく普通の家庭に生まれて成績優秀だったので医者になった。それだけの男である。
大学の医学部に在籍中に自分の医師としての根本的な欠陥に気付いた。
いつまでたっても血に慣れることがない。採血の実習をするたびに気を失って倒れていた私に指導教員は冷たい一言を投げかけた。
「君、医者に向いてないよ」
……高校まで優秀でこの成績なら医者になるのがいいと言われ、親の期待、学校の期待を背負って受験戦争を戦い抜いて結果がこれか……
そもそも、18歳という高校生に自分の将来の職業に責任などとれるはずがない。
絶望に打ちひしがれる私は仕方なく、精神科医という道を選んだ。
精神科は現在の社会情勢からこれからも患者の数が増えていくだろうし、扱う病が限られているために私のようなものでも救急や外科や内科よりは安定して働けると踏んだからだ。
医局人事で配属された私に与えられた仕事は、入院病棟で患者の診察を行うことだった。しかし私はそこでも他人とまともに接することもできずに失意の底にいた。
精神科の診察とは患者の話を黙って聞くというイメージが先行しているがそうではない。確かに患者が話したいことを話すというのは重要なことでもあるが、一番大切なのは聞きたいことをはっきり聞きだすスキルを持つということだ。
患者に喋らすだけ喋らせたならそれはコミュニケーションとは言えない。しかし私にはそれすら出来なかった。
「今日、何してましたか?」「何か変わったことはありましたか?」「最近何か心配なことはありますか?」
……私はこれらの質問が苦手だった。
「何か変わったこと」とは何だ?
「心配なこと」とは何だ? それを聞きたいのは私のほうだ! そんな不毛な質問をするくらいなら黙って患者の話でも聞いていた方がまだマシと思ってしまうのである。
しかし、精神科の医師はそれでは成り立たないのだ。
大学では同情的で優しかった同期の仲間たちもやがて私の無能さに失望し去っていった。私は本当の意味で居場所を失った。
***
***
私の恋愛もひどいものだった。
「私も最初はお医者さんになりたかったの、でも公親ほど頭が良くないから」
高校3年生の頃に出来た初めての恋人の香は、別の進路《学部》に進んでいった。それでも最初のうちは私の将来への期待で付き合いは続いた。
大学2年生になって解剖学や採決の実習が始まった頃の話だ。青い顔をしている私を見た香は言った。
「公親、本当に医者になれるの?」
「あ……うん」
「アンタみたいなダメ男が医者になって誰かを救えるなんて思えないけど……」
「そうかもしれないけど……」
「ま、医者になるっていうなら待ってあげるけど」
待つといった香は結局スポーツのできる一般商社マンと付き合って結婚したらしい。
らしいというのは私がすでに疎遠で彼女がどうなったかを詳しくは知らないからだ……唯一知っていることは彼女が私と付き合っていた頃からその男と体を重ねていたということ。
「西之園くん、香……浮気してるよ」
北村さんという香と私の友人が教えてくれた。医学部5年で始まった病棟実習。実際に患者さんの診察の真似事をし始めると、改めてわかった、私は患者さんとコミュニケーションが取れない。
本当に医者になれるのか、不安を抱えながらも山のような実習の課題に追われて、目の回る日々を送る中に告げられた浮気の事実。
香はその男に寝取られていた。
北村さんは『結局立派なものを持ってても自信がない男はダメだって。あ~あ、せっかく彼氏が医学部に入ったから期待してたのに』という香の言葉をこっそり録音して私に聞かせてくれた。
今でも北村さんがなぜそんなことをしたのかは分からない。彼女が私に好意を抱いていないのは分かっている。
多分、彼女は香の幸せが許せなかったのだ。それでも香は最終的に幸せになってしまったのだが。
「西之園くんならもっとまともな女と付き合えるよ」
そんな言葉を残して北村さんも私の前から姿を消した。
しかし、私には香を責める資格などない。理由を付けて、ただ香に逃げていただけなのだから。
そうして私は自分自身が鬱々としながら精神科医の道を歩むことになった。
***
***
いろいろなことを諦め、精神的にも腐りながらも他に出来ることもない私は精神科医を続けている。
大学を卒業して、地元を離れ就職できた北斗総合病院。
入院病棟の患者の診療と合わせ、外来の診察では年配の患者から愚痴のような話を聞かされる毎日。
私の人生は灯りの無いトンネルを歩き続けるようなもの……あと何年こうして生きていくのだろう。
そんな日々は唐突に終わりを告げる。
私の目の前に天使が舞い降りたのだ。
海老名真尋。8歳。
無表情だがビスクドールのように整ったその顔。とにかく美しく、それでいてその奥に繊細で気高い魂が宿っているのを感じた。
しかし、その魂は今は傷つき壊れてしまっている。
彼女は私の診療室にやってきた患者だった。
事実を一言で語るなら彼女は交通遺児だ。父親の海老名伊周を交通事故で失い、事故を目撃したことでPTSDを発症。
私の目の前に連れて来られることになった。診察室の蛍光灯の下、彼女のセミロングの黒髪に出来ている光の反射が天使の輪のように見えた。
こうして私は天使と出会った。
【2章 天使の声】
(回想)
「真尋っ! 危ないッっ!」
ドンッ
鈍い音がして伊周の体が転がる。その体は手足が曲がってはいけない方向に曲がり、折れた肋骨か肺を突き破ったのか口からどくどくと血を溢れさせていた。
「ま……ゴフッ……」
何か言おうとするが肺に血が溜まり一言も発することができないまま伊周は痙攣するように震えてそれを最後に動かなくなった。
小学2年生の参観日。父親と母親が揃って見に来てくれた授業参観の帰り道。
風で飛ばされた黄色い帽子を追いかけて車道に飛び出した真尋は赤い乗用車に撥ねられかけた。
間一髪、父親の伊周が飛び出し真尋を突き飛ばした。
転がるように反対の歩道に尻もちをついた真尋はその瞬間を目の当たりにする。
父親が自分の代わりに赤い自動車に撥ねられる瞬間を。
ガシャンッ! プゥゥゥゥーーーーー
父親を轢いた車がハンドル操作を誤ってそのまま電柱に激突。エアバッグが開いてドライバーの男性を受け止める。
クラクションが鳴り続ける中、真尋の母親は目の前で轢かれてしまった夫に駆け寄る抱き起こす。
「あなた、あなたッ……」
何度呼び掛けても彼が再び答えることはない。その目は見開いたまま虚空を見つめ続け、妻は子供がその姿を見ていることにも気付かずに夫にすがり続けた。
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(現在)
「私が悪かったのでしょうか?」
真尋の母親が俯いたまま私に質問する。それに答えるのは精神科医である私の仕事ではない。
その後の話は母親から聞かされた。
真尋の父親を轢いた車は自賠責保険が期限切れで、任意保険への加入がされていなかったために保険金を受け取れなかったこと。
真尋が飛び出し、それを庇った伊周が事故に遭ったため加害者側が賠償に関して裁判で争う姿勢を見せており、仮に請求しても生活保護を受けている運転者からは十分な賠償を受けられそうにないことなどを聞かされた。
信じられないほどありえない運転手であり不運であった。
「ほんとうはずっと真尋についていてあげたいのです……ですが、生活費にも事欠く状況で……」
やつれた表情をした母親はこのまま放っておくと最悪の選択さえも選びかねないのではないかと思えた。
実家は資産家なのだが夫である伊周と結婚する際に絶縁するように飛び出しているため、伊周が死んだからと言って帰ることができないと思っているようだ。
無理心中……彼女は責任感が強い上に、伊周を愛し過ぎていた。そして彼を失った今、孤独で追い詰められていたのだ。
やつれてなお美しい彼女は体を売るか、金持ちの愛人にでもなるか、受け入れがたくてもなまじ選択肢があるだけにその可能性は彼女を苛むのだろう。
私が精神科医としてやるべき仕事は何なのか。私は何をしたいのか。私は私の天使に何ができるのか。
「私がお子さんの面倒を見ましょうか? あくまでも入院という形ですが今のあなたが抱えるには真尋ちゃんは重すぎる」
母親はその時初めて私の顔を見た。その疲れ切った空虚な表情に光が少しだけ宿ったような気がしたのは気のせいだろうか?
「どういうことでしょうか?」
「私は真尋さんの主治医です。お子さんを診させて頂けないでしょうか?」
母親にとって私の提案は渡りに船だったのかもしれない。
しかし、彼女の心には別の思惑も混ざっていたと私は思う。それは母親としての責任から逃れたいということだ。
きっと彼女は夫を亡くした時から死ぬことばかりを考えていたのだろう。
私は自分がそんな不幸な状況に置かれたならそう望むかもしれないと思った。そしてそんな母娘の境遇はとても切なくて不憫だとも思えたのだ。
私は提案が受け入れられるとすぐに入院手続きを進めた。そして私の天使を入院させることができた。
私は精神科の医師なのだ。
これまで以上に文献に当たり先輩医師にアドバイスを貰い、人生で初めてと言っていい情熱で治療にむかい看護師たちを指導した。
父親が死んで翼が折れてもなお、天使は無垢で美しいままだった。
私はこの天使が再び飛べるようにすることに自分の医師としての全てをささげようと思った。
母親から引き離された真尋は一旦はますますふさぎ込んだ。夜明け前が一番暗いという言葉を信じ、私は院内での空き時間を全て真尋の元へ通った。
朝は真尋が起床するより早く通勤し、誰よりも遅く病院を後にした。
「おはよう」
真尋が目覚める瞬間に挨拶をする権利は誰にも渡さない。
「…………ょぅ」
その日、私は初めて天使の声を聴いた。
【3章 天使の笑顔】
治療は順調とは言えず、一進一退の様相を見せていた。
落ち着き、心神喪失状態でなくなることによって逆にフラッシュバックを起こすことが増えた。
そういう時、真尋は「お父さん、お父さん」と大きな声を上げて取り乱すので私が出て行って彼女が落ち着くまで抱き締め続けた。
本来ならPTSDの治療としてEMDR療法など、心的外傷を引き起こした事件や事故を想起させる治療法が存在するが、まだ幼い真尋には酷だと判断した。
特に真尋にとっては、自分が原因で父親の伊周が死んだという強い思い込みが出来上がってしまっているためにその思い込みを解かない限りは治療が進まない状況だった。
私は真尋が落ち着いている時は彼女を病室から連れ出して院内のプレイルームで遊ばせた。
「先生、お人形さん」
「うん、そうだね。可愛いね」
「うん」
「そのお人形さん、ちょっと持ってて」
「うん」
「じゃあ、今からパパがこのお人形さんを魔法にかけてあげるね。見ててごらん」
私はそう言ってお人形さんに魔法をかけた。ごく簡単なことで手品でよく使われる手法である。
種自体は人形に仕込んであり手に仕込んである磁石で表情を変えることができるのだ。
「はい、このお人形さん、笑ってるでしょ?」
「え? 笑ってないよ」
「そう? じゃあ、もう一度魔法をかけるよ」
私は彼女の前で手をすっとお人形さんの顔の前に滑らせると魔法をかけた。
「あ、笑ってる!」
「ね? 笑ったでしょ?」
私はそうやって真尋に笑顔を取り戻してもらうことに専念した。
しかし、それは同時に私が私の天使の笑顔を見る方法でもあった。
私はその笑顔を見るたびに胸が熱くなり、その笑顔を自分のものにしたいと思うようになった。
しかし、彼女はあくまでも伊周という父親のことを忘れることができず、彼女を入院させて距離を取っている母親を求めていた。
真尋の母親は毎日真尋に会いに来た。会わないことによる罪悪感に耐えられないのだろう。何かにとりつかれたように毎日会いに来る。
ある日、私が真尋の病室に向かうと母親が面会に来ていたのであいさつした。
「こんばんは、この後少しお話をさせていただいてよろしかったですか?」
「こんばんは、いつもお世話になっております。はい、私の方も先生から真尋の様子を聞かせていただければと思っていました」
彼女は寝付いた真尋の頭を優しくなでている。そこには一時の切羽詰まった空気はずいぶんと薄れていた。
本来は真尋の母親もしっかりとした治療を受けなくてはならないのだが、今はどうにかありついた職場で慣れない登録事務の仕事を覚えることに追われていた。
真尋の治療費も負担になっているはずだ。いつか問題になるかもしれないが、私は真尋のカルテを治療費が1円でも安くなるように改ざんしていた。
病院にバレると困ったことになるだろうが、投薬治療がほとんど行われていない真尋に関しては私の診療次第ということになるので露見しにくいだろうと思う。
「本来は貴女にも治療を受けていただきたいのですが……」
「そう言っていただけるのは嬉しいですが、私の方は問題なく生活できていますので……」
キーパッドでドアのロックを解除して一緒に入ったカンファレンスルームで彼女に切り出す。
「私はこれから真尋ちゃんに催眠療法を導入していこうかと思っています」
「催眠療法ですか……それは大丈夫なのでしょうか?」
母親は不安そうな表情を浮かべている。
「真尋ちゃんはずいぶん落ち着いて精神的に回復して私の前では笑顔を見せることも増えてきました」
「笑顔ですか……もうどれだけあの子の笑顔を見ることが出来ていないか……」
私がこっそりと録画しておいた私の天使の笑顔をスマホで出して彼女に見せる。
「ああっ……ああああっ」
その動画を見て彼女は号泣する。私は彼女が泣き止むまで彼女の背中をさすり続ける。
【4章 私の天使】
「ううぅ、ひっくっ……」
彼女の肩を抱くようにして背中をさすり続けていると、少し彼女が落ち着いてくる。
「真尋ちゃんはこういう風に笑うことが増えてもふとした拍子に事故の記憶はフラッシュバックします。それはテレビで赤い自動車を見た瞬間だったり、遠くでブレーキの音がした時だったり、看護師が押しているカートがベッドにぶつかった瞬間だったりします。その度に彼女の脳はあの瞬間を追体験し、彼女の心は父親が自分のせいで死んだのだと繰り返し自分自身を責めてしまうのです」
「あの時、私が死んだ夫ではなく生きている娘を抱きしめることができていれば……そう思えてならないのです」
「そうできていれば違う現在があったかもしれないことは否定しません。それでも真尋ちゃんは今の状態からこれから先の彼女自身の人生を歩んでいかなくてはならないのです」
「そのための手段が催眠療法ということですか?」
「そうなります。一旦クッションとして家族がこれからも続いていくと信じられれば……彼女にとっての父親が今もいると思えれば、時間をかけて乗り越えていく未来が見えてくると思うのです」
二人でしばらく黙り込む。
「ぶしつけですが、お一人でこの娘さんの面倒を見るのは大変では? 配偶者を無くされたばかりの貴女に聞くべきことでないのは分かっていますが再婚のご予定はありますか?」
「ありません。あの子には父親を喪ってしまっているので私が一人でも側にいて支えてあげないといけないと考えてます」
「お気持ちは分かります。ですが、このままでは貴女が一人で頑張ること自体が父親の不在を強調し、真尋ちゃんのトラウマを刺激するという悪循環になってしまうのです」
「そんなことを言われても! 私はどうすればいいんですか!!」
彼女が声を荒げる。それはそうだろう、自分だって良識を疑う話を今からするのだ。
「偽装家族でもいい、偽物でもいいので真尋ちゃんにお父さんを作ってあげることを検討して貰えませんか?」
「そんな、私は彼を……夫を愛しています。忘れることなんてできません」
「だからこその提案です。偽装でいいのです。私が真尋ちゃんの父親に、パパになることを許してもらえませんか?」
言ってしまった……もう後戻りはできない。
「……私はもう自分のことはどうでもいいのです。ただ娘の……真尋の未来に影を落とさないのであれば……」
「それであれば、私が彼女の主治医として、そして貴女のご家族となり……貴女と真尋ちゃんを治療する上で必要なことです。どうか、私に貴女と真尋ちゃんの人生をお任せいただけないでしょうか?」
「分かりました……先生、どうかあの子をよろしくお願いします」
「違います。貴方のことも大切にしますから……」
私は彼女の手を握り正面から目を見つめる。
「そ、そんな風に言わないでください……先生のことは本当に立派な方だと思っています。ただ、私にはまだあの人を……伊周を忘れることなんてできません」
ここが……今がこれから先、私が自分の天使とずっと一緒にいられるかの勝負所《瀬戸際》だと私の裏切られてきた人生の傷が教えてくれた。相手を最後まで騙し切ればそれは真実の愛だ。
私は彼女の手を握る。
「あなたを幸せにしたいんです。あなたの娘だから……真尋ちゃんのことをどうにかしようと頑張ってきました。あなたの荷物を一緒に背負わせて下さい」
彼女の目が潤んでいる。
「西之園先生……」
泣いている彼女の背中を撫でるために隣に座って背中に手を回していた。その手をぎゅっと抱きしめるようにして彼女の腰に回す。強く、強く抱きしめる。
「すみません……医者としては失格かもしれないですけど……好きです」
そうして私たちの影は一つになった。
…
……
………
「パパ、急がないと遅刻しちゃうよ!」
中学生になった真尋は健康で美しく育った。
今ではあの頃の暗さはみじんも感じられない。妻の実家との関係も私と妻が結婚したことで改善し、祖父母からも可愛がられている。
長い黒髪を一つにまとめてポニーテールにして今日もテニス部の朝練に行くのだという。
「真尋、そんなに引っ張ったら転んじゃうって」
「もう、精神科医っていっつも座りっぱなしだからそんな風になっちゃうんだよ。今度一緒にテニスしよう。私が天国に連れていってあげるから……たっぷり搾ってあげる」
「ひぇっ、勘弁してよ。もう若くないんだから」
「もう、いつまでも若いパパでいてよね」
中学生になった私の天使との朝の日常。
「あらあら、仲が良いんだから……はい、二人ともお弁当」
美しい妻と天使のようにかわいい義娘。
私は幸せに包まれていた。この一瞬のために生きているのだと思えるほどの充実感と幸福感が私を満たしている。
そして、私の天使には絶対に幸せな人生を送らせてあげたいと思うのだ。
(完)
追記 こちらの作品は木沢 真流様に医療監修していただいております。
ありがとうございました。
https://kakuyomu.jp/works/16818093077151693564/episodes/16818093077491729468
なお、この作品は文章の一部に「にほんご文章・小説AI AIのべりすとβ2.0」を使用しております。
https://ai-novel.com/
作品に関する責任は全て著者であるみどりのの責任です。