8.八陽湖のほとり
拉致された鸞の身は⁉︎
激しい頭痛と共に、鸞はゆっくりと瞼を上げた。
何処の部屋か、内装は非常に洗練されており、陽が燦々と降り注ぐ南側は全面ガラス張りになっている。ガラス張りの窓と並行に置かれたベッドの上で、鸞はボクサーショーツ1枚だけの姿で怠い体を南の陽光へと反転させた。
「わぁ……」
その陽光に煌めく窓の向こうには、濃紺に染まる雄大な湖が広がっていた。
思わず起き上がり、鸞はベッドから下りて窓に手をつき、その絵画のような美しい気色に見入った。
「ここは、私の別荘の中でも特に気に入っている場所でね。この景色を、君と一緒に見たかった」
ベッドの足元に立っていたレイモンドが、ゆっくりと近寄ってきた。何故か、無体はされないような気がして、鸞は動かずにレイモンドが隣に立つのを待った。スーツを脱いだ彼は、Vネックの白いシャツに細身のチノパン。シャワーを浴びたのか、髪は無造作に散っている。資料では42歳の筈だが、30代前半にも見える程若々しいのは、鎧を脱いでいるからか。
「ここは、 太湖? 」
「いや、八陽湖だ。南昌市にほど近い。南昌は知っているか? ヨーロッパの街並みを思わせる美しい大都市だ」
「南昌、か……」
呟く鸞の瞳からは、最早景色への驚嘆は失せていた。代わりに、達観したかのような凪いだ黒目がじっと静かに湖面を見つめている。
「美しいだろう」
「本当に……死に場所には最高」
レイモンドが驚いて鸞の横顔を凝視した。
「何、を……」
「身体が怠い。薬漬けにして、僕を好きにしたんだろ? 他人には触れさせないと、命を懸けて約束した人がいる。僕はもう、あの人の腕の中には帰れない」
「レディ」
「鸞、僕の名は鸞。君達が良く知っている、霊鳥の」
「鸞……君に相応しい名だ。私の事は、レイ、と」
白い頸から続く女のような華奢な肩の線。儚げな程に細身の体が、尚更陽炎のようにぼやけて見えるかのようで、レイモンドは胸の奥に痛みが走るのを感じた。何に動揺しているのか、学生のように狼狽える己にレイモンド自身驚いている。惜しむ、そんな感情を自分以外の誰かに抱いた事は無かった。
「鸞、あの人とは、例の、あにうえ、か」
離陸の時に鸞が思わず口にした言葉を、レイモンドが真似た。鸞が微かに頷いた。その瞳から、涙が一筋、零れ落ちた。
鸞の背中に回り、レイモンドはその白い裸身が消えてしまうのを留めるかのように、しっかりと抱きしめた。香りに、しっとりとした肌の感触に、ああ、まだ鸞はここにいる、と安堵していた。
「君を死なせない」
「無理だよ。僕はもう、生への執着はない」
レイモンドが鸞の華奢な肩に顔を埋めた。
「言った筈だ、ディナーに付き合えと」
「僕も、合うドレスは持っていない、って言ったよ」
「頼む、そんな哀しい眼でこの景色を見つめないでくれ……私は君に、何もしていない」
「うそ……」
「誓う。本当は抱きたかった。だが、君は決して私の名を叫んで哭く事は無いだろう。その内股の、脇腹の、可愛い尻の赤痣、あにうえが付けたのだろう」
あ、と喘ぐような声を漏らして、鸞が自分を抱きしめた。その痣から、あの優しい唇の感触が蘇る。
「兄上……」
「憎らしいな。この身体を気が済むまで攻めさいなんでやりたかったのに……生憎、人の手垢のついた男を抱いて喜ぶ趣味は無い。少なくとも、そのくらいのプライドは私にもある、たとえマフィアでも」
ぎゅうっと、レイモンドは鸞を抱きしめた。
「これは失恋の抱擁だ。逃げないでくれ」
鸞は、震えるレイモンドの腕に、自分の腕を重ねた。鎧を脱いでいるともわからないマフィアの若きボスは、少なくとも鸞の前では紳士で、思いの外情が深い。いや、絆されて隙を見せてはいけない底知れぬ相手であることは百も承知の上だが、レイモンドの腕に包まれていながらも、鸞の心は穏やかに凪いでいた。
「ん?……尻の痣って……やっぱり脱がしたんだ!」
「やってないっ、本当だ、身体を綺麗に洗っただけで……あ」
振り向いた鸞がレイモンドの肩を叩いた。
「やる気マンマンだったんじゃんっ!」
そりゃ、それを楽しみにここまで金を注ぎ込み中央の連中誑し込んで仕組んだんだから……子供のように頬を膨らませて両手でレイモンドの胸を叩き続ける鸞を抱き寄せ、レイモンドはうっとりと鸞の柔らかな髪に口付けた。
「私は諦めない。いつか、本気で抱くよ」
「……頭がおかしいのかも知れないけど……レイ、あなたは紳士だね」
「マフィアにそんなことを言うのも、きっと君が初めてだ」
「違いない」
2人は顔を見合わせて笑った。
タイトロープ上での駆け引き。奇妙な触れ合いの先に待ち受けるものとは……




