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私の女

作者: 仲村 なか

 


 近所の山奥にある廃校にその女はいた。


 年齢はわからない。赤みがかった黒髪を腰まで伸ばし、季節を関係なく喪服を着崩しているような女だった。


 美しい女だった。

 ホコリに塗れて朽ちた廃校の中にいるというのに、女の喪服はいつも新品のような黒さを失わず、彼女の髪は絹のように風に靡いていた。


 肌は毛穴ひとつなく、ツンと尖った形の良い唇は熟れたリンゴのように赤い。

 彼女の瞳は恐らく黒色だった。恐らくというのは、光の加減にもよって仄かに赤みがかっても見えたので、彼女の色彩に関して私は自信を持ってこうだということはできない。


 彼女がまつ毛を伏せてタバコを咥える様は、いつかドラマでみた若い男らに親父と呼ばれるような貫禄を感じさせたし、私が持ってきたシャボン玉で遊ぶ姿は、まるで世のことなどなにも知らない無垢な少女のようにも見え、年齢不詳という言葉がよく似合う女だとその度に私は思った。


 どうしても彼女の年齢が気になってしまい、一度だけ年齢を尋ねたことがある。

 しかし彼女は私の問いに10を超えてから数えていないと答えたので、私は彼女の年齢について考えるのはそれ以降はやめてしまった。


 私と彼女は良き友人だった。

 晴れの日も雨の日も雪の日も嵐の日も廃校でタバコをふかしているような女だったが、私は彼女が定位置である窓際にもたれながら、タバコを咥えてまつげを伏せているその美しい横顔を眺める時間が一等好きだった。


 私と彼女の出会いは、私がちょうど12回目の誕生日を迎えた頃のことだった。


 そのときの私は春になると生えてくると言う蕗の薹がどうしても食べてみたくて、しかしソレを母親に言って訝しげに思われるのもいやで、自力で蕗の薹を手に入れるべく、山に一人足を踏み入れていた。

 どうしてそんなに蕗の薹に固執していたのかというと、私は「ふきのとう」という名前の響きが好きだったからだ。

 私はそんな素敵な名前ならきっととても美味しい食べ物に違いないという根拠のない思い込みをしていた。

 私の真実は世界の真実であると信じていたため、私は蕗の薹が春を代表するほど美味しい食べ物だと、疑う余地もないほどに思い込んでいたのだ。


 兄からのお下がりでもらった、足が届くギリギリの高さのママチャリに跨り足でペダルを漕いでいく。

 家の裏にある田んぼを超えて、少し大きな橋を渡る。橋を渡ったら右に、白線でしか区切られていない歩道の脇を進むと、山側に階段が表れ、その先に神社がある。その学友の言葉を頭の中で繰り返しなが自転車を漕ぎすすめると、たしかに目の前に神社が現れた。


 その神社には覚えがあった。

 むかし、祖父に連れられて参加した何かの祭りを行っていた場所だ。車で訪れるのと自転車で訪れるのとでは随分と印象がちがう。


 この神社の裏には山道に続く道があって、その先に開けた場所があり、そこに蕗の薹が生えているのだと学友は言っていた。

 階段は苔むして、祭りの時に感じた騒がしさは鳴りを潜めてしまっている。整合性がなく、おぼつかない記憶をたぐり寄せながら、昼間だというのに薄暗い神社の中を歩いていく。


 食べ物ならばどれだけ採って帰るのが適切なのか、そもそもどれほど生えている植物なのか、私は自分の計画性の無さに自分で呆れながらも、探検にも似た蕗の薹探しを自分なりに楽しんでいた。


 私の計画性のなさに反して蕗の薹はたくさん見つかった。

 持参したビニール袋が形を変えるほどに蕗の薹を採った私は、ふと遠くに建物があることに気がついた。山道は続いている。頭の真上にあった太陽はいつのまにか西に傾き始めていたけれど、私は好奇心の赴くままにその建物へと足を進めた。


 それは廃れた学校だった。

 白い塗りが殆ど剥がれた木造二階建ての建物。山と一体化を始めているようなそれをなぜ学校だと判断できたのかというと、建物の入り口に辛うじて学校、という文字が残されていたからで、ソレがなければ私はその建物をただの廃墟だと認識しただろう。


 開け放たれた窓の淵に、誰かが頬杖をついていた。


 遠目に見ても美しい造形をした人だった。かすかに燻る白い煙が空気の中に溶けて消えていっている。


 一種の絵画のようだった。廃れて自然に帰った学校の中で、人工物の象徴でもあるような喪服を身に纏ったひとが、呑気にタバコをふかしている。

 果たしてあのひとの身に纏うソレが喪服なのかは定かではないのだが、直近で祖母を亡くしていた私にとって、大人が着る黒いスーツは全て喪服に当てはまったのだ。


 出会いといっても、私はそのひとを遠くから眺めただけで、絶対に近づいてはいけない類の大人だな、と思い、その日は近づくことなく素直に帰った。


 蕗の薹をたくさん持ち帰った私だったが、こんなに採ってどうするのだと母には叱られた。

 しかもまだ芽吹いていない小さなものが食用に向いているらしく、私が採ってきた大半の蕗の薹は捨てられ、残った少しの蕗の薹が食卓にお浸しとして出された。


 蕗の薹は不味かった。これは私の主観であり、蕗の薹が不味い食材というわけでは断じてない。しかし私は蕗の薹のおいしさに過度の期待を抱いていたため、理想と現実のギャップに泣いてしまった。

 母は採ってきたのだから責任を持って食べろと私に言いつけ、私は蕗の薹を嗚咽しながらどうにか口の中に詰め込んだ。その日から私の嫌いな食べ物のトップの座は蕗の薹が不動のものとなった。


 そんなわけで、私と彼女の出会いは、彼女のインパクトよりも蕗の薹への失望が勝って、彼女への関心というのはあまり刺激されなかった。

 彼女の存在への不可解さと興味関心が増大したのは、蕗の薹へのショックが回復した一週間後のことだった。


 その日は私の12歳の誕生日だった。

 四月一日。春休みだ。

 私はとくに学友の誰にも祝ってもらえず、しかも兄が受験に失敗し(兄は今年高校生になる)滑り止めで受かった私立に行くくらいなら死ぬと泣き喚いて家の空気は最悪だった。

 もともと私の家族は私の誕生日にあまり興味がなかった。だから私は家にいるのが嫌で、その時にふと廃校にいた喪服の人間のことを思い出したのだ。



 私が再び廃校に訪れると、喪服の人間はあの日と寸分違わず、窓際で頬杖をついてタバコを燻らせていた。

 私は朽ちた校門を通り過ぎ、タバコの不愉快な匂いが感じられる距離まで喪服との距離を詰めた。


 それは造形の整った女だった。赤みがかった黒髪を長く腰まで垂らし、タバコを片手に掲げながら、私のことなど気にも留めていないように空を眺めていた。

 私はタバコの煙に顔を顰めながら、喪服の女の視界に入る距離まで足を進めた。

 女は私に気が付かない。少し腹が立った。

 私は意を決して、彼女に声をかけようと乾いた唇を軽く舌で湿らせた。


「こんにちは」


 ほとんど彼女の正面に立ちながら、声をかける。喪服の女はいま初めて私の存在に気が付いたかのように、驚いた素振りで私に視線を合わせてきた。


 日はまだ高い。彼女の瞳は赤と黒が複雑に混じり合ったような色をしていた。


「どうも、こんちには」

「ここでなにしてるんですか」

「タバコ吸ってる」

「ここ、汚いよ」

「どこも似たようなもんだと思うよ」


 彼女はそう言ってタバコを窓の縁に押し当てて火を消し、吸い殻を廃校の中に投げ捨てた。

 女は私を無視していたとは思えないほど、友好的だった。

 それならば本当に私が見えていなかったのだろう。私は怒りと緊張が収まり、代わりに彼女に対して妙な親しみやすさを感じ始めていた。


「タバコ、ポイ捨てしちゃダメなんですよ」


 私がそう思ったのではなく、彼女の行動を他の大人が見たら提言するであろう言葉を口に出していた。

 少し大人ぶってしまったのは、この美しい女に気に入られたかったからかもしれない。


「そうなの?」

「うん。火の用心のひとが言ってた」

「じゃあ今度からやめる」


 女が私の言葉を受け入れたことがうれしかった。

 私は女と真っ当に意思疎通がとれていることに感動していた。


 見たこともないほど美しい顔をしているから、少し怖かったのだ。

 だからこそ会話のキャッチボールができることに心のそこから安心した。本当に人なのか怪しいけれど、正直どちらでもよかった。女とはしばらく話してから、私は日が暮れる前に家に帰った。


 女は最後まで友好的で、人間を食べる類の物の怪ではないのだな、と私は思った。




 それから私は週に一度、喪服の女の元に訪れた。

 女が窓際から動くことはなかった。

 なぜいつもそこに居るのか聞けば、歩けないのだ、と言われた。食事をしている様子も排泄をしている様子もないから、やはり女は人間ではないようだった。

 しかし幽霊にしては生気がありすぎるし、触れることもできる。物の怪にしては人間臭すぎた。


 彼女は私が持ってきた、シャボン玉や折り紙、ルービックキューブなどのオモチャで遊ぶのが好きだった。

 彼女はなにも知らなかった。

 彼女の世界はあの廃校とタバコと黒いスーツで完結していた。だから、飴やチョコレートをやると喜んだ。美しい女の姿形をしているというのに、彼女の精神性は無垢な少女のようだった。


 彼女の世界を形作るのは私の役目だった。

 美しい宝箱にオモチャを詰め込むように、私は大切に大切に彼女に知識を授けた。


 上に広がるのは空で、空を覆うのは雲。雲から降るのは雨、雨が溜まってできるのは水溜り。水溜りの水は汚いので飲めない。飲める水と飲めない水がある。

 ここは山で、下には街がある。街には怖い人間がたくさんいる。

 私はあなたの友達。

 あなたは美しいひと。



 小学校を卒業し、中学校に入学してから、彼女のいる廃校に私は入り浸るようになった。

 兄は不登校の引きこもりになって、父親は帰って来なくなった。

 母は私にも父にも兄にも興味はなく、変な水を買わせる新興宗教にハマっていた。私は兄に食事を運んでやった。


 兄は私に優しかった。私も兄が好きだった。

 しかし私は兄を見下していた。私は学校に行っているし、山の廃校には美しい友人がいる。あの友人がいる限り、私はどんな人間よりも優れているような心地になれた。


 だから私はクラスメイトに興味を持てなかった。

 醜く、無駄な知識を振りまく愚かな動物。

 私にはそれらが自分と同じ程度の知性の持った生き物には到底思えなかった。中学校で友達はできなかった。部活にも入らず廃校に入り浸る私を教師は腫れ物扱いし、クラスメイトはこそこそと鼻で笑っていた。


 どうでもよかった。

 私にはあの女がいる。それ以上に素晴らしいことなどないのだから。



 中学に入ってからしばらく、女からプレゼントをもらうようになった。私がお菓子やオモチャを与えるから、そのお返しのつもりらしい。

 風に舞って飛んできた綺麗な枯葉。折り紙で作った折り鶴。私があげた花で作ったドライフラワー。


 私は女から渡されるこの小さな宝物たちを今日まで捨てられずにいた。宝物は部屋にどんどんと溜まっていくばかりだ。

 適当な木箱に押し込めたその宝物達を、時折整理しなければ、と思いながらひっくり返してはいるのだが、側から見ればガラクタであるそれら。


 女が私のために作り上げたそのガラクタは、私には堪えようもないほど価値のあるものに思えた。

 彼女の世界の全てが私であるように、私の世界の全ても彼女だった。



 明日、中学校を卒業する。私がいつものように廃校に足を運ぶと、ある光景に目を奪われた。


 女が立っていた。


 女は磨かれた革靴を履いて、タバコを吸いながら廃校の壁にもたれかかっていた。私は女が廃校の外にいるところを、そして立っているところを見るのはこれが初めてだった。


 女は立つことができない筈だ。女は私に嘘をついていたのだろうか。


 ゾッと背中に恐怖が走った。

 壁に包丁を突き立てる母を見ても、兄の部屋の扉を殴りつけながら大声を捲し立てる父親をみても、夜通し泣き叫びながら吐き続ける兄をみても、教室の真ん中で私を笑うクラスメイトをみても私はなにも感じなかったのに、ただ女が立ち上がったというだけで、私は足元が崩れるような恐怖と絶望を感じていた。



「どこにいくの」


 私が声をかけると、女がこちらに振り向いた。足元には蕗の薹が咲いている。私の嫌いな食べ物。彼女には蕗の薹の名前を教えていない。

 女はタバコを手で握り潰して、ポケットにしまった。私のポイ捨てはいけないという言葉を守り続けているというのに、私の目の前から立ち去るつもりなのだろうか。


「私は、世界を救うために死ななければいけないらしい」


 女は涼やかな声で私を見ながらそう言った。私は女の頭がおかしくなったと思った。


 私を誤魔化すためにそんなことを言っているのか、それともただの女の妄言なのか、私には判別が付かなかった。


 私はスカートの裾を握りしめた。

 手に汗が滲む。口の中が乾き、運動していないのにも関わらず動悸が耳を強くつんざいた。


 許せなかった。


 女の妄言を信じるのなら、私のため以外に、いや、世界を救うのなら私のためでもあるのだろうけれど、そんなことはどうでもよく、私をその他一般に含め、そしてその全てのために命を捧げるという彼女のことが許せなかった。


 あの女は私のものだ。


 私が見つけて、私だけが彼女を知っていたはずだ。

 ならばその命も私のものであるべきなのだ。


 自分の呼吸が早くなるのを感じる。

 視界が狭窄する。心臓の脈打つ音が耳元で激しく響いた。

 有象無象に女の命が奪われることに対して抱く感情は、ただ一点の曇りなく怒りだった。


 だって、女は私のものだ。

 許せない。

 私のものを奪うものは、世界であろうと神であろうと許すものか。


 まだ蕾の残る蕗の薹を踏みしめ女に近づき、手を伸ばす。

 女の視線は私より随分と高いところにある。女の顔を見るには私は顔を持ち上げなければいけないほどだった。


 いつも私が見下ろしていた筈だったのに。


 女の首に手を伸ばす。

 額に汗が垂れる。口が乾いて張り付く舌が不愉快だった。

 手が首に触れる。


 暖かい。この女は、私の女は、生きているのだ。


 この美しい生き物がだれかに奪われるのなら、それなら、いっそ、


「ハル」


 静寂のなか響いた声に、一気に正気に引き戻された。


 浅い呼吸音がやけに耳につく。

 頭の芯がガンガンと鳴り響いていた。舌の根が渇いて、咄嗟に出そうとした声は音にならず、頬を撫でる風に溶けていった。


 いま、何をしようとしていた。何を考えていた。


 先程までの自分の行動に、身体中の血が凍るような心地になった。

 額に汗がびっしりと浮かび上がっていた。背中に張り付いた服が気持ち悪い。


 深く息を吸って、呼吸を整える。


 ゆっくりと女の喉に触れた手を退かし、そのまま祈るように両手で顔を覆った。


 ひどく手汗を掻いていたが、拭う気にもなれなかった。

 項垂れている私を気遣うように、女が私の服の裾を遠慮がちに握った。

 返事をしなければと思うが、乾き切った喉は声帯の役割を果たそうとせず、ただ掠れた呼吸音だけが情けなく喉の奥から漏れ出る。

 心配かけまいと、私ははゆるく首を横に振って、女の胸に頭を寄せた。


「泣かないで」


 私は泣いてなどいなかった。

 けれど、彼女の目からは少なからず泣いているように見えたのだろう。


 彼女に言われると勘違いしそうになるけれど、頬に当てた手は乾いたままだった。


 私はその日、それ以上女と言葉を交わすことなく家に帰った。

 家に父親は帰ってこない。母はお布施の催促の手紙をぐしゃぐしゃにしながら体を丸めているし、兄の部屋からは怒号が聞こえる。


 私は部屋に戻り、彼女からもらった宝物を詰めた箱を引き出しから取り出して、それを抱きしめたまま眠りについた。

 全てから目を背けたかった。いや、ずっと目を背け続けていた。逃げ続けていた現実についに追いつかれてしまっただけなのだ。ただ、足元に浸るような諦めが私の胸のうちを占めていた。


 私の女は死んだ。

 私に残されたものはこの宝箱だけだ。


 しかし女がこの世界を救うために死んだのなら、私が生きなければ道理に合わない。

 私は宝箱を強く抱きしめながら、濡れる枕の不愉快さを無視して意識を闇に落とした。






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