部屋着
「笠井さん、このあと飲みに行きません。」
残業も一頻り終えたオフィスの一角、後輩の佐藤ちゃんが声を掛けてくる。
佐藤ちゃんはまだ25で、明るく元気で男性社員からの人気も高い。
私が結構可愛がっている娘で、仕事でもいつも面倒を見てあげている。
いつだって、あと一歩詰めが甘く、失敗しても何がいけなかったのか、
よく考えずにまた同じことをする。
頭の中では、今日どの男性とランチに行こうか。
次の合コンは何を着ていこうか。そんなことにばかり考えている。
私は今もそうだし、もちろん25の頃だって、そんなことは考えなかった。
どうやったら仕事がうまく行くか、仕事中はもちろん休日だって考えを巡らせていた。
楽しみといえば、年に数回、女友達と海外旅行に行くこと。
それがあるから、日々の忙しさもやり過ごせるというものだ。
そんな風にして、気がつけばもう32で、仕事帰りに飲みに行くのも、次の日のことを考えると、ちと辛い。
「ごめん、パス。」
「えー、またですか。笠井さーん、たまにはいいじゃないですか〜。
みんな行くって行ってますよ〜。」
「私、もう少しやっていくから、ほら、今度の私の担当さ、重いのよ…」
しぶしぶな顔。佐藤ちゃんは諦めた様子で、最後にはにっこりとして、
みんなとオフィスを出て行く。
こんな時、思い出してしまう。
あれはまだ同期の聡子が、寿退社していなくなる前だった。
聡子に、みんなで飲み行くよ。と誘われて断った時、
「あんた、そんなんだから男できないんでしょ。」と云われたことだ。
その場は笑って誤魔化したけれど、あれはショックだった。
正直幸せそうに辞めてった聡子が羨ましい。今では、一児の母だ。
20代の頃は、それなりに男の視線を感じていた。
けど、邪魔にくらいにしか思わず、気付かないふりをいつもしていた。
今では、そんな視線も少ない。
優しい言葉を掛けられても、すぐお世辞ねって判断して、そっけない態度をとってしまう。
一団が去ったオフィスは閑散としていて、急に夜が深まったようだ。
USBカードに、データを落として、お家で、もう少しやろうかしらと、
パソコンを弄り、シャットダウンしながら、コーヒーのお替りを入れに行く。
席を立つ瞬間に無意識にため息が出る。
「何、笠井さん。ため息なんかついちゃって、お疲れっすね。」
声の方を向くと、デスクを3列いった所、デスクライトがひとつだけ点いていて、
パソコンの隙間から顔が覗く。私よりも2コ下くらいだったか。
あまり目立たないけれど、仕事をこつこつしていく印象が強い、矢島くんだ。
「やだ、聞こえちゃった?そうなのお疲れなのよ。」
ちょっと恥ずかしかったけれど、動揺を隠し答える。
「ふーーっ」と両手を重ねて、天井に伸びをするように上げて、
それから矢島くんは、立ち上がりこちらに近づいて来る。
「笠井さん、最近どうですか?」
「何が。」矢島くんは私のデスクの隣、空いている椅子に座る。
「調子ですよ。」少し微笑みながら、デスクに肩肘をついてこちらを見ている。
矢島くんは、格好いいというタイプではなく、髪型も年中同じで見た目を気にしていない。女子からは、たまに気遣いが出来るというところもあって、
評判は悪くない。
ただ、仕事の成績が、それほど目立ってる訳でもないので、
女子に持てている訳ではない。
シャツの袖をまくりあげていて、そこから逞しい腕が、
少し日焼けしているせいもあって健康そうに見える。
もう、夜というともあって、ネクタイを緩め、第一ボタンも外してあり、
そこからなのか、男の匂いが小鼻を掠める。
少し伸び始めている髭が口と一緒に動く。
「なんだか最近、笠井さん。前に比べて元気ないのかなーって思ってね。
余計な心配でしたか。」矢島くんは笑顔を絶やすことなく喋る。
「あっそう?自分でも気付かなかったわ。けど、最近疲れが抜けないのよ。」
「頑張り過ぎですよ。俺みたいに、抜くときは抜かないと。」
「矢島くんが、そんな器用には見えないけど、だからなんだよねぇ。」
と壁に貼ってある成績表を見て云う。矢島くんの伸び悩む数字が踊る。
「ちょっと、そりゃないでしょ。」と矢島くんが云い、二人で笑う。
「まあ、いい時もあれば、悪い時もあるんです。」
「だね。まあ、うちの会社も必死だよね。どんどん首切られているもの。」
「明日は我が身ですよ。」そう云うと矢島くんは下を向いて真剣な眼差しになっている。
私はというと、空になったコーヒーカップを弄ぶ。
「矢島くんは、どうなの最近。」
「どうもこうもなく、なんとなしに日々が過ぎていく感じっすね。」
「彼女いるんだっけ?」
「いないです、どうもダメなんですよねぇ。」
「理想が高すぎるんじゃない、タイプはあるの?」
「タイプとか、あんまりないんですけれど、騒がしかったり、
今時の娘はダメっすね。笠井さんは?」
「部屋着がオシャレな人かな。
それで、オシャレな部屋で本とかいつも読んでいるような人っ。」
「はっ?何すかそれ。」
「結構重要なのよ、それ。」
「変わってますね。いるんですかそういう人。」
「おらんっ!!」
「ははは」
「俺、そろそろ帰りますけど、笠井さんは?」
「私も帰る。」そう云って身支度を整え、二人でオフィスを後にする。
オフィスから、駅まで一緒に歩き、そこから先は方向が違うので別々になる。
歩きながら、矢島くんにふと訊いてみる。
「矢島くんは結婚願望とかあるの?」
「ない訳ではないのですけれど、よく分かりませんね。
今の生活に不満があるって訳でもないですし、
かと云って寂しいとも思うこともありますけどね。」
「ふーん、」
「一生このままなのかなっとも、思っちゃんですよ。」
そう云っている、矢島くんが少し眩しく見えた。私は正直云って寂しい。
このまま終わっていくなんて、
考えただけでも嫌だけれど、今を打開していく力がない。
自分から行動に起こしていかないと変わらないのは分かっている。
だけど、何もしないことの楽に、埋没してしまう。
「今日は、珍しく笠井さんと話が出来て楽しかったです。
では、俺こっちなのでお疲れ様です。」
去って行く矢島くんの後ろ姿を眺めながら、
なんだか頼りがいが有りそうに見えてきた。
明日、ランチに誘ってみようかしら、そう思いながら、
慣れた電車に揺られ、ため息をまた一つ、ついていた。