この世で最も贅沢なことは時間を無駄にすることらしい
空っぽというわけでもないし無色透明というわけでもないのに自分には何もないと思ってしまうことがある。
腹には内臓が完備されていて脳から贅沢な信号が送られて手足が都合良く動いてくれて、細胞の一つ一つに心が刻まれていてそれが魂まで成形してくれている。とても贅沢だと思う。五体満足。恵まれていると思う。
これほど恵まれているのに、やっぱり私には何もないと思ってしまう。これは贅沢なことだろうか。
この世に死にたくないのに死ぬしかない人がいるから、だから生きている私が贅沢だと言うのなら、その人達を全員殺してしまえば私は贅沢ではなくなるのだろうか。私は満足できるのだろうか。私に贅沢だと言う人達は満足してくれるのだろうか。満足できるのだろうか。
窓の側に電線がある。鳥がとまる。さえずる。
それだけで全ての気力を根こそぎ持っていかれる気分になる。溶けて布団に吸い込まれそう。身体から何か液体的な大切な物が流れて出て行く感じがする。気のせいだろうか。そうかもしれない。
眠くもないのに目を閉じてしまう。鳥のさえずりに耳を傾けてしまう。日が昇るのを温度で感じる。私は布団の中にいる。目を開ける。視界が黒く歪んでいる。よく見えない。でもそれが気楽でもある。できることならこのまま何も見たくない。だけどこれは贅沢な話だった。だって私の視力は2.0。贅沢な悩みなんでしょ。そう言われたことがある、だからそうなんだろう。
私は私である。私は私でした。今でも私は私でした。だけど私は私の幸せについてはあまり考えていないし、私はただ眼と耳と話と味覚と皮膚からの伝達が苦手で煩わしいとしか考えていない。それは主に自分以外のものとの接触によって生じるもので、私はそのことについても何も考えていなかった。あ、そう。その程度にしか感想も言えなかった。ただ煩わしいだけで。煩わしいからどうすると考えることもない。ただただ煩わしいとだけ考えている。煩わしいからどう、煩わしくないからどう、と考えることもない。
こういう時は、自分の関心に関心にがないのだと思う。それもどうでもいいことだった。
私は常に私が早く私以外の人と会話を切り上げる方法を教えてくれた。しかしそれは結果的に支離滅裂だった。でも確かに会話を早々に切り上げることができた。とても楽だった。記憶は曖昧にしか残らないけど、それはそれでどうでも良かった。とても楽だった。そんな私が私の中で私として、静かに、のうのうと生きている。
このまま誰からの興味もなく、静かに静かな存在でいたいと思う。それは寂しいと、そんなことを言う人の気持ちを理解できる私ではなかった。
もう何日布団から出ていないかわからない。このまま死ねたらどんなに楽か。
それでも私は生きていた。
贅沢にも、私は生きていた。