黄的
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偽りの神々シリーズ
「自己肯定感を得るために、呪術を勉強し始めました。」記憶の舞姫
「破れた夢の先は、三角関係から始めます。」星廻りの夢
「封じられた魂」前・「契約の代償」後
「炎上舞台」
シリーズの4作目になります。
リンフィーナ達が滞在する町から、数里離れた、アルス大陸の東のくんだりにある都は、漁業と貿易で栄えた活気に満ちた都で、黄的と言った。船着場には各地からの珍しい物産品が、毎日何百隻という大型の船に乗って届けられ運びこまれる。そしてその場で強かで陽気な商人たちによって競り落とされて黄的の中心地まで軒をつらねている店などで売られる。だから常にここでは威勢の良い掛け声が上がり、他所からやってくる者の目を見開かせ、その魅力の虜にしていた。高く澄み渡った空に輝く太陽は、何人の顔をも健康的に照らし出してしまう、そんな所だ。
今日も黄的の活気は相変わらずで、何十隻かの船が波止場に留まり、たくさんの露天が並んでいたが、ただある噂が都中に膨れ上がり、彼らの会話はその話題で持ちきりだった。
「やっぱりなんかあると思っていたが、人魚とはなぁ」
「なんだぁ、おまえさんそんな話を信じてんのか。そいつぁな、漁師が漂流してびびって見た幻覚に違いないって」
「だがなあ、一人じゃないんだぜ。ここのところもう何人もの船乗りが見たっていうじゃないか。アカタマのじいさんが言ってたのは嘘じゃなかったって、みんな口々に言ってら」
「馬鹿言うなよ、人魚なんてそんなもんいてたまるもんか」
昔から貿易や水資源において深い恵みを受けた黄的には、古くから船乗りたちの間で暗黙の了解があった。それは、キシル大陸とアルス大陸の間にある黄海を渡るときは、必ず日和を選ばなくてはならないということだった。
ここ七十年ばかり前、そういった迷信など鼻で笑うような無鉄砲な勇ましい漁師が、この暗黙の了解を破って、一人雨空の下、漁に出た。
その者の話によると、その日の漁は大量で、一人有頂天になって網を投げては上げ、投げては上げを繰り返したらしい。
空模様がますます悪くなり、よどんできたのさえ知らず、彼は夢中になってその手に確かに大量の重みを実感し、悪いものに取り付かれたかの形相で、船を奥へ奥へと漕ぎ出していった。
気が付くと男の船は黄海の中心付近まで流され、どんよりとした雲も闇の中に飲まれて、辺り一面真っ暗だった。その静寂に男が身を凍らせたとき、水面に幾つもの人の顔がぷかぷかと浮き上がってきたのだ。
男は息をのみ、目の前で起こった出来事に愕然とした。彼らの顔に、腕に、首に銀色のうろこが張り付き、鈍く光っている。
恐怖におののき座り込む青年の船を沈めようと、人と言うにはあまりにおぞましい偉業の生物等が、無数の手を伸ばしてきた瞬間、男は意識を手放した。
再び目を覚ましたとき、ばらばらに砕け散った船の残骸と共に岸へと打ち上げられていた。
「おい、じいさん聞いてるかい。都中の噂だぜ、じいさんの言ってたことが本当だったって、皆口々に言ってら」
小麦色に焼けた逞しい腕に、今さっき市で買ってきたばかりの食糧を入れた籠をかかえて、金髪の青年が薄暗い老人の家を訪れていた。
老人は部屋の隅のゆり椅子に腰を下ろした姿勢で、キイキイとそれを揺らしていた。
「あんだけじいさんが人魚の話をしたときは、馬鹿にして笑っていた奴等まで、血相変えて人魚の影に怯えてるんだから、世の中こうじゃなくっちゃと思うよなぁ」
どうやら彼はもとよりこの老人の人魚の話を信じていたらしく、鬼の首でもとったような勢いである。
丸い木のテーブルに、持ってきた籠をどさっと下ろすと、ついでに自分のしなやかに鍛えられた身体も、椅子にどかっと投げ出した。生まれながらに海の男で、荒々しい仕草が見に染み付いているといった風情で、だがその気取らなさが逆に彼の瑞々しい若さを魅力的にしていた。
「今頃騒いだって、時すでに遅いわ。あれだけわしが忠告してやったにも関わらず、あれらの怒りを買いおって……」
一方青年とは対照的に、身体のあちこちが老化という現象にさいなまれた老人が、しわがれた声で低くうめいた。
「俺はアカヤマのじいさんの言うことを聞けって、忠告しだんだぜ。それなのにあいつらときたら鼻で笑いやがって、それでこの有様さ」
「これだけで済んでくれればいいんだがな……」
「それにしても面白かったさ。青白い顔で、人魚が出た、人魚が出たって叫んでるあいつらの顔を拝むってのはよ」
「また何か起こりそうな気がする」
年寄りにありがちな一方通行な会話を始めてしまっている彼らだが、青年のほうももう慣れっこらしく全く自分のペースでしゃべっている。
「用心するに越したことはない……」
「まあ、それより見てくれよ。みんなこの噂話にばっかり気をとられてるから、今日は安くていいもんばっかり手に入った。今晩はご馳走つくってやるぜ」
「魚は……食わんぞ」
聞き取るのが至難の業なほどくぐもった声で話す老人の言葉を、青年はちゃんと聞きとって首をすくめた。
「わかってるって。心配しなくてもじいさんに魚なんて出さねぇよ。ちょと使えば、いい出汁のでるスープでもつくってやれるっていうのに、ほんっと我侭だよなぁ。漁師のくせに山のもんばっかり食うし、こんな山奥にひっこんじまうし、おばさんが心配するはずだよ」
「アイリナは元気か?」
「ああ、相変わらず面倒見がよくって感謝してるよ。ちょっと口うるさいけどなぁ」
青年はアイリナというこの老人の娘の養子だった。この漁師街では養子制度はよくあることで、男の子の出来なかった家庭では、家の大事な働き手として、他の家族から子供を譲り受けることが日常だった。赤子につく値段の相場もあり、おかしな話だが健康そうな赤子から、競って養子縁組がなされていく。
制度そのものは如何なものかと思うが、青年は恵まれていると思っていた。この家族に引き取られてからは、飢えることもなく、虐げられることもなく、目の前の老人は自分のことを立派な漁師にしようと随分目をかけてくれたものだ。
今では狂人と世間で烙印を押された老人だったが、若い頃はこうではなかった。漁師一番の腕の持ち主で、その気性も豪胆で都一番だった。だが新月の夜、仲間が止めるのも聞かずに黄海へ船をこぎだし、あくる朝波打ち際で半死半生で発見されて以来、彼の人生は一変した。
戻ったばかりの彼は、最初化け物を見たと都中に警鐘の声をあげてまわったが、やがて街の仲間からも気がふれたと相手にされなくなると、人目を避けるように山手の山荘へ篭りきりになってしまった。
この老人に可愛がられていた青年もまた、彼の行動で世間から白い目で見られるという扱いいを受け、漁師のくせに海を怖がる臆病者の孫とからかわれることもあったが、それでも青年は、この老人から大事にされた恩を忘れていない。
「じいさん、俺はうれしいよ。今更だけど人魚ってもんがもう一回現れてくれて。もし一生姿を見せてくれなかったら、じいさんの話は一生信じてもらえなかったんだからなぁ」
「馬鹿を言うもんじゃない。あんな奴等が再び現れたのかと思うと、今でもぞっとする」
「何いってるんだ、じいさん。陸に上がれば大丈夫じゃないか。相手は半人半漁なんだから、陸にはあがってこれないだろ?」
気楽な青年とは対照的に老人は眉間の皺をさらに深く刻んで暗い顔をしている。
「果たしてあいつらは、海の中だけを生業にしているんだろうか……」
重苦しいつぶやきはもう、青年にではなく不安をそのまま自問にしているにすぎない。
白い肌に銀色の鱗がびっしりと生え、自分を海へ引きずり込んだあの輩には、二本の足があった。半人半漁と言えば、人は魚の尾びれを想像するのかもしれないが、あれらには確かに足があったのだ。
「ひょっとするとわしは、人間が魚に変化していく過程上の生き物を見たのかもしれない」
老人の話は、青年にとっては今更どうでもいいことだった。老人の話を子供の頃は真に受け止めて怖がってはいたが、大人になり人魚でもなんでも現れてもどうということはない、という自信が生まれると、そんなことぐらいで騒いでるのも馬鹿らしくなっていた。結局人魚だろうがなんだろうが、出現してくれることで老人の汚名が晴らせたのだ。それで満足だった。
だから青年は、このときの事件が後々身の回りで大変な騒動に発展していこうとは考えもしなかった。
そして今また一人、行くあてもなくふらりと立ち寄った場所で、このような噂が流れ、不運にもその災厄に巻き込まれようなどとは露ほどにも考えない少女が、同行者とともに初めて見る海というものに、感嘆の声をあげていたのだ。
「炎上舞台7」:2020年10月20日