生きる
偽りの神々シリーズ
「自己肯定感を得るために、呪術を勉強し始めました。」記憶の舞姫
「破れた夢の先は、三角関係から始めます。」星廻りの夢
「封じられた魂」前・「契約の代償」後
4作目、「炎上舞台」突入しました。
「炎上舞台」は前作からストーリーが続いています。
やっと本筋のストーリーが動き出しました。
一日一章投稿していきます。
応援よろしくお願いします。
豊かな水の都、ダイナ・グラムから西へ伸びる山道ルクサンをまる二日ほど歩いただろうか。山での野宿は想像以上につらいものだったが、こういうことに慣れている目付け役の先導で、なんとかリンフィーナは街の灯りが見えるところまでたどり着いていた。
今のところ追手はこない。しかしいつ何時、その手が伸びるのかと思うと、疲労していても先へ進む足を休めることができなかった。
「リンフィーナ様、もうすぐ関所です」
女にしてはえらく体格がいい二の腕が伸びて、彼女は街の入り口の門の方を指差した。
「夜の関所越えは怪しまれます。明日一番、夜が明けてから向かいましょう」
ため息交じりの言葉は、自分を早く宿へ連れて行ってやりたいのに、と申し訳なさそうにつむがれる。気遣うような目線は、ダイナ・グラムを出てからずっと向けられていたが、今のリンフィーナには、彼女のそういった配慮も見えていない。
絶望と孤独。
故郷と愛する人に決別して、それでも生きていかなければならないということに馴染めず、ただ生きることの意味のみを手探りする。
いったい何のために生きるのか。
山の中を追手からのがれて、重い足をひきずりながら、なぜ今、一歩だって動きたくはないというのに、前に歩いて行くのかということすら、彼女にはわからなくなっている。
「リンフィーナ様!」
目付け役のラディに、両手で頬をはさまれ、しっかりするように諭される。焦点が一瞬、浅黒い女の顔に定まり、リンフィーナは途切れ途切れに「大丈夫だから」と言った。
人は何があっても生きていかなければならない。そんな強さを、リンフィーナはまだ知らなかった。
愛する人に囲まれて、永遠楽土の地の恩恵を受け、悩みといえば如何にして講義をさぼって自分の探究心を満足させるか。リンフィーナは、苦労とは縁遠いところに居る十七歳の子供だった。
けれど突然、その幸せは奪われた。ラーディアの第三公女として守られていた生活は、一族の世継ぎの兄の訃報によって打ち消されたのだ。もともとラーディアの一族は、一族の総帥が統治し、その総帥は神に近い存在として特別視され、彼らの親族は皆雲の上の存在、貴族として扱われていた。
しかし神殿内に入ってみれば、実子たちの権力争い、世継争いにまみれ、唯一それを抑える才覚を持った兄によって、均衡が保たれていた。その兄、サナレス・アルス・ラーディアの戦地での突然の死は、ダイナ・グラム中をひっくり返した。
神殿の外に宮を持って、兄に守られていたリンフィーナを無理やり后にして、サナレス付の神官らの勢いを手中にしようとする輩。またその反対勢力による、圧力。そんな不幸が一気にリンフィーナにのしかかり、彼女は城を飛び出した。
本来ならば彼女には他の氏族に婚約者がいて、その偉大な権力で守られているはずだった。しかしその婚約者自身が、兄のサナレスを討った張本人だとリンフィーナに告白したのだから、酷すぎる現実だった。
信じることはできなかった。いつも自分のこと以上に、気遣ってくれた婚約者が、彼女が何より大切な兄を討ったということなんて、信じられない。まして兄は遠い国の戦に出かけたのだ。まさか婚約者のアセスが、兄サナレスを討伐しただなんて。
何かの間違いであると思った。アセスが魔道士と変わり果てたと知っていてもなお、リンフィーナには受け止められないことだった。
けれどもしそれが真実であったならば?
自分はもうきっと二度と、アセスを許すことはできないだろう。
それほど彼女にとって兄の存在は絶対であった。アセスがサナレスを討ったのであれば、リンフィーナはアセスへの想いを今生で口にすることはないだろう。
行方不明の兄と、そして魔道士になってしまった恋人。二つの盾を失ったリンフィーナは、あまりにも無力だった。今更ながら、兄の保護下でのみ、ぬくぬくと暮らしてきた自分に腹が立ってしかたがない。
なぜもっとちゃんと、自分のことを考えられなかったのか。なぜこんなにも、無力な自分を許してきたのか。姫として甘んじて暮らしてきたことをリンフィーナは悔いた。悔いながらも、なす術もなく、今度は目付け役に護られて、一族を逃げ出している。
第二王妃の実子である義兄から陵辱されかけて、彼女の魂はくだけそうになった。好きになった人と一緒に、幸せに生きていくのが当たり前だと思っていた彼女の考えが、大きな神殿のドロドロとした政権にまみれ、一瞬にしてくつがえされた。
意に沿わぬ結婚など、貴族達の間では当たり前のこと。聞いたことはあっても、彼女にはどこか他人事だった。
依存していたのだ。
兄と婚約者と肩を並べて、対等でいたいなどと思っていたが、実際は依存し、彼らに護られているのが日常だった。
精神的にも、状況的にも、自分は彼らに依存していた。
心の中でマグマのようなものが流れているというのに、リンフィーナの表情は凍ったままだった。
「姫様!」
気がつくとラディに抱きしめられていた。彼女は自分の教育係で、そうなる前は屈強な女戦士だった。その彼女が静かに泣いていた。
「大丈夫だから、ラディ」
心底自分の弱さが申し訳ないと思った。リンフィーナは彼女の腕の中でつぶやいた。
崩壊しそうになる精神は、ぎりぎりのところで持ちこたえていた。自分は生きて行かねばならないのだと、そう言い聞かすことでやっと。
「サナレス様は生きていらっしゃいます。アセス様もきっとまたお心を変えられるでしょう。今はとにかく、姫様が無事でいることが大事なんです。丸二日、物も食べず、睡眠もとられず、そんなことでは死んでしまいます」
ラディは懐から干し肉を出して、その肉を食いちぎった。そしてその切れ端をリンフィーナの口元に持って行く。
「お口に合わないのは承知の上ですが、どうかリンフィーナ様、これを召し上がってください」
どうか、と言った彼女の握りこぶしが震えていた。
ここ二日、自分の手を引き、山道を駆け抜け、夜も寝ずに抱きしめて暖めてくれていた養育係もまた、その顔に疲労の影が濃い。生気に溢れて豪快に口を開けて笑う、かつての彼女の面影がない。サナレスを狂信的に慕っていたラディにとっても、今回のことはつらくて信じ難かったことだろう。
「ごめんなさい」
リンフィーナは徐に肉切れを口に含んだ。噛むことにすら労を煩う有様だったが、一生懸命肉を噛む。干したそれは、干からびた草のような味しかせず、その不味さが口中に広がった。
生きていく。
水を口に含んで、噛んだ肉を一気に流し込む。とてもそういったものを受け付けてくれる身体ではなかったが、贅沢は言えなかった。
「ごめんなさい」
リンフィーナは泣かなかった。泣き崩れることは簡単だったが、自分を哀れむ状態ではないということぐらいわかっていた。身体が飢えていたことを知った。
肉を噛んだ顎から、身体の感覚が戻ってくる。
「私は生きる」
リンフィーナは大きな吐息をついた。
「関所は、どう抜ければいい?」
「炎上舞台2」:2020年10月17日