覚醒
偽りの神々シリーズ
「自己肯定感を得るために、呪術を勉強し始めました。」記憶の舞姫
「破れた夢の先は、三角関係から始めます。」星廻りの夢
「封じられた魂」前・「契約の代償」後
4作目、「炎上舞台」突入しました。
「炎上舞台」は前作からストーリーが続いています。
やっと本筋のストーリーが動き出しました。
一日一章投稿していきます。
応援よろしくお願いします。
深い霧のみが続く虚無の空間を一人の男が歩いていた。
年は二十代半ばといったぐらいだろうか。本来ならば生気みなぎる年齢だが、彼の足取りは幽霊さながらだ。二メートル弱もある長身の身体は、鍛え上げられた剣士の肉体に相似するが、剣士特有の鋭さや俊敏さが今の彼からは欠如していた。
月の光のような白金の長髪が、覇気のない彼の顔を半分以上おおい隠し、その中にうつろなエメラルドグリーンの瞳がのぞいている。青白い顔は正気を失い、もはや生きた人のものではなかった。整った容姿なだけに蝋人形さながらにはかなげだ。
おそらくこの青年を知るものがそこに居れば、明らかな印象の違いにとまどっただろう。
しかしうなだれて歩いていた青年の顔に、瞬時にして表情が戻った。
足元を見つめている。
何もないはずだった。少なくとも先刻までは彼が歩いてきた道さえも存在せず、四方八方白い霧だけが広がっていたのだ。
だが今、彼の足元には、銀の川が流れている。青く、緩やかに流れる銀色の川。
「ワタシの眠りを妨げるのは誰?」
よく見るとそれは川ではなかった。
一本一本青く輝いて流れる、銀色の髪。美しい豊かな髪を踏まれ、不機嫌そうに眼を覚ましたのは、青い、ともすれば吸い込まれそうな大きな双眸を向けてくる少女だった。
冷ややかに見つめる少女のそれとは対照的に、青年の瞳には驚きと懐旧、そして純粋な愛情が溢れ、彼はまぶしいものでもみるように僅かに眼を細めた。
「リンフィーナ」
「オマエは誰?」
少女と青年の口から同時に出たその言葉に、二人は微妙に困惑した。つじつまが合わない会話に二人は眉をひそめる。
「リンフィーナ……ではないのか?」
「チガウわ。おまえは誰なのか、ナゼここに居るのか、答えナサイ」
戸惑いながら聞く青年とは別に、少女は存外高飛車な口調だ。
「いったいナゼ……、人間がここまで……?」
不服そうに眉根を寄せる少女の口調は途切れ途切れでたどたどしい。身体がたった今覚醒したかのように、少女は首を捻り、手首を動かし、自らの体の四肢の動作を確認している。
「オマエ口がキケナイの? どうしてここに来たのか聞いてイルのよ」
高慢な態度は、眠りを妨げられた不満を、一目瞭然に物語っている。
青年は、ゆっくりとその状況を把握しつつも、目の前にいるこの少女が、自分の知っている者にあまりにも似ていることに愕然としていた。残酷な人違いは彼を失望させるには充分である。
目の前の少女に酷似した、けれど喜怒哀楽の豊かなまったくの別人は、他ならぬ彼の血のつながらない妹で、彼女以外に今の彼の心を動かすものはなかった。
彼女を守るだけの力を得るために、また彼女への許されぬ思いを秘めているが為に、自分は妹の側を離れた。それなのに、と青年の表情が苦悶にゆがんだ。ここに来てしまった理由を青年は走馬灯のように思い出していく。
強大な力を持った魔道士との、歴然とした力の差をまざまざと見せ付けられ、無様にも覚悟せざるを得なかった、自らの死――。
「別にワタシの知ったことではないけれど、オマエはいつまでもここには居られないわよ。早く行くべきところへ向かわなければ、朽ち果ててその魂は永遠に苦しみ続けることにナルわ。未練を残したまま、せっかくの整った容姿が、この世でナニヨリも醜くなるのは残念よね」
少女は口を閉ざして立ちすくむ青年に向かって、退屈そうにそう言った。青年は未だ少女の顔を見つめている。
自分の愛する妹に似すぎている少女。
『銀の森の魔女、おまえの妹の半身を目覚めさせろ』
魔道士の言葉を思い出す。これほど酷似していると、この少女が例の魔道士が言っていた魔女なのだと一目で判った。
なんということか、律儀なことに自分は言いつけをきいてしまったことになるらしい、と青年サナレスは自らを嘲笑した。
「もちろん私は早々にここを出て行くつもりだ。何の因果かはわからぬことだが君には礼を言っておこう。君の目覚めと共に、空けていた私の目もしっかりと覚めたようだ」
埒が開かない、と少女は首を竦めたが、本来の精神の強さを取り戻したサナレスの瞳には確固たる意思がやどり、微笑みすら浮かべている。
サナレスは今ここで妹そっくりな少女に出会えたことが、唯一の幸運だと思うことにした。
本来肯定的な性格のサナレスは、少女が妹でなかったことへの失望を、いつしかこんなところに自分の妹が居たのではなくてよかったのだと安堵の気持ちへと変換する。そして更にあれほど絶対的な魔道士がいるのならば、どうあってももう一度生きて妹を護らなくてはならないという決意を固めてしまったのだ。
こんなところで死んでたまるものかという意識が、一刻も早くここを立ち去るのだという気持ちに火をつける。
ただ、目の前の少女の容姿が、他人の空似では片付けられないぐらい、妹と同じであることが気にかかった。
魔道士は、彼女は妹の半身だといった。この魔女が目覚めることが、妹に何か関わりをもたらすのかと、一抹の不安を覚える。
頭のてっぺんから爪の先まですべて同じ容貌である。確認するように眺めると、少女の方も同じようにサナレスを見つめ返し、徐に、「オマエ……、ワタシの古い知人達によく似ているわ」と言った。
「面差しが、とてもヨク似ているわ……」
サナレスは眉目を寄せた。
なぜ彼女は、自分の思いと似たようなことを口にするのか? 訝るサナレスに、少女は問う。
「名は、なんていうの?」
「サナレス・アルス・ラーディア」
「ラーディア!」
瞬間、少女が勝気な表情を動揺に染めたのを、サナレスは見逃さなかった。
「ふうん……、そうするとオマエ、あれを知っているのね? そしてワタシをあれと間違えたのね」
愉快そうに少女は笑う。
サナレスはあれという呼び方に不快感を覚えた。その気持ち通り、声のトーンが底から響く。
「いくら君がわたしの思っている者でも、妹をあれ呼ばわりはされたくないな」
少女はくすりと笑った。
「妹ですって?」と更に笑う。
「あれは、あれよ。何を勘違いしているのか知らないけれど、あれに兄などいるわけがないし、第一あれは……」
「それでも、彼女は私の妹だよ」
少女の言葉を奪って、サナレスは断言した。
それはサナレスがリンフィーナをひきとったときから変えようのない真実だった。もしも妹でなければと何度となく詮無いことを仮定しては打ち消し、堂々巡りとなって苦しんできたが、それでも、やはり兄妹という関係を絶ってしまうことは出来なかった。偽りを口にしてでも、守らなければいけないのはリンフィーナの心なのだ。それが自らに課せられた責務だった。
「私は彼女を守るために戻らなければならない」
「戻る? オマエ、それは叶わぬこと。ココが何処なのか、オマエならわかってイルわよね?」
「ああ、君に会うということは、私も一歩手前の危ないところにいるってことだな」
苦笑するサナレスを前に、少女は面白そうに笑った。
「やはりあの方の息子だけあって察しはいいようだけれど、オマエ馬鹿なの? ここが何処だか知った上で、戻るだなんて、オマエには無理な話だわ」
「おまえには、というぐらいだから、君にはそれができるんだろうね」
サナレスがにやりと笑うと、少女は言葉を呑んだ。口達者なサナレスを前に、少女はため息をつく。
「君にできるのだから、私にも可能かもしれないな」
拍車をかけてサナレスは言った。内心、そう容易でないことは判っていた。目の前の少女が誰で、なぜ魔女と呼ばれているのかその所以を知っているのなら、自分と少女を同列に考えるには無理があった。
それでも、強気で居ることが自分らしさを取り戻すことだと、サナレスは知っている。
一度は諦め、今生の別れを思い描いてしまった自分自身を、今は何より腹立たしく思う。そして嫌悪感があるからこそ、どうしても不可能を可能にしなければならない。
「本当に、諦めが悪いわね」
「なんと言われようとかまわん。だが教えてくれ、戻る術を――」
「あきれたわ。オマエ戻る術も知らずに、そんな大口を叩いていたの? こんな変な男に、永い眠りを妨げられるなんて、困ったことね」
小さい欠伸をひとつして、彼女は腕を組む。存外な口調だが、少しずつ彼女の意識もはっきりしてきているのか、活き活きと表情を変える。幼さを残した仕草が、妹リンフィーナに似ていて愛らしく感じた。
「戻る術を教えないことはないけれど……」
悪戯を思いついたような口調で少女は情報を伝え始めた。
「到底オマエには無理な道だと思うわ。それに、断っておくけど、一度その道を選んだら、引き返しはできない。たとえ生きて戻ることが出来なくても、一生そこをさ迷い続けることになる。いわゆる亡者、醜悪な姿に変わり果てながらね」
それでも教えて欲しいのか、と少女は念を押してきた。そしてサナレスの表情を見て、またため息をついて肩をすくめた。
「――いいわ。そこまで意思が固いのなら、道を開いてあげる。あれを見なさい」
少女の白く細い腕が持ち上がり、一方方向が指し示される。するとそこには今まで存在していなかったはずの門が現れ、不気味な錆びた鋼鉄が擦れ合ってきしむ音とともに、人が一人僅かに通れるほどの門扉が開いていった。
「方法は実に簡単。あれを潜って、そしてその先のもう一つの出口の門をくぐればいいだけなんだから。ただーー、今まで戻った人なんていないけど。それからオマエが肉体を離れてどれくらい経つのかしらないけれど、肉体が五体満足なわけないと思う。たとえ出口を見出しても肉体が既に腐乱し始めていたら、息を吹き返すなんてできないから、そのときは観念するのね」
「じゃあ一刻の猶予もなさそうだ」
サナレスは目の前に不気味に開かれた門を見据えた。
約束をした。リンフィーナとアセスに必ず戻るからと約束をした。たとえ魂だけになろうとも、彼らの側に帰らねばならない。数奇な運命を背負わされた愛しい妹と、そうと知りながらも彼女の運命の片棒を担ってくれると誓ってくれたその恋人のためにも、自分だけがこんな半ばでくたばることなど許されないではないか。
「では戻るとしよう」
軽快な口調で、だかしかしその奥には強固な決意を秘めて、サナレスは門下を潜ったのだ。
その場に取り残された少女は、サナレスの背中が小さくなり門が閉じるのを見届けながら、つぶやく。
「何の酔狂で現世にそれほど執着があるものか」と。
そして自らは、戻りたくなくとも戻らなければならない因縁があることを嘆いた。
これから先は修羅の道。おそらく彼にとってはこのまま命の終止符を打った方がどれだけ楽ともしれないというのに、わざわざ煉獄の炎の中に舞い戻っていった行為を、だからこそ少女は理解しがたい心境で見送った。
たとえ戻ることが出来たとしても、その先もまた、自分という魔女をその身に覚醒させる少女と共に居る限りは、険しい道を歩くことになろうというのに。
「奇特な男だ」
少女はこの青年ーー、サナレス・アルス・ラーディアに少なからず興味を覚えた。それは何千年か振りに抱いた興味だった。
「炎上舞台1」:2020年10月17日