第47話:義ノ在処ハ単ニ非ズ
「すまないな」
「気ぃしねぐでいいべ」
きっと僕と同じように、不思議なほどの穏やかな心持ち。そんな小隊長は、自分の手に布を巻いてくれる萌花さんに目を向けて言った。
「少尉。あなたは先ほど、他国に恥じることのない国だと仰った」
「言った。誤っていたか?」
「いいえ。だからこそ困る人間も居るという話です」
「ふん?」
曇りなく、大きく見開かれた粗忽さんの目に対して、小隊長のそれは気後れした感がある。だとしても、その二つは交差していて、意思を交換することになんの妨げもない。
「八年前。この国から、紛争が消えました。それは直ちに全ての争いをやめよと、陛下のご意向でした」
「ああ……」
「以降どうしても避けられない小規模なもの以外に、これという争いは起きていません」
誰かに頭を垂れるわけにはいかない、いかなる干渉も受ける謂れはない。そこまで頑なではないにせよ、島国である飛鳥の土地に棲まいながら、王家に従うことを拒む人たちは多い。
それとは別に、例えば獣人と呼ばれていた人たちのように、差別に腹を据えかねたということもあっただろう。
愚王はそれらの不満を全て、交渉によって解決せよと言った。実際にその時に起きていた全ての争いを、数日中に終わらせもした。
飛鳥の土地に生きる者が戦うのは、その外からの侵略にのみだと。
「実に良いことだ。多くの国、多くの王がやろうとして、出来なかったことだ。なるべく長く、願えれば永遠に続けばいい。私はそう思うが?」
「本当に?」
「――どういう意味だ。その疑いは、私をどういう人間だと値踏みしてのものだ」
小隊長がなにを言わんとしているのか、僕にはまだ、はっきりしたところが見えない。
だが粗忽さんには分かるらしい。分からないような返事をしていても、精神的な負荷がおそらくゼロだった涼やかな目に、色を持った熱が溜まっていくのが見える。
「いえ、失礼を申しました。個人の嗜好として下卑たものをお持ちだとか、そういう風に言ったのではありません」
「分かった、とは言いたくない。私の勘違いだと、証明してもらうことは可能か?」
「いいえ。勘違いではありません。この世から、争いが消えることはない。いやむしろ、外に争う相手を置くことで、内側は安定するのです。その意味では、陛下の意向に背くものでもないでしょう」
粗忽さんの手から、弓が滑り落ちた。落ち葉で弾力のある足元に弾かれて、思いのほか静かに倒れて転がる。
「貴様……」
「はい」
「貴様は、それでも飛鳥の衛士か! 飛鳥の王を、飛鳥の土地を、飛鳥の民を、己の血肉を盾とするのが誇りではないのか!」
泥塗れの拳が、小隊長の襟をぎゅっと握る。僅かに震えて、でも身体を引き寄せるほどではない。萌花さんの術が残っているのか、粗忽さんの忍耐か、そこは僕に判別出来ない。
「貴様の隊では、朝礼をしないのか」
「いえ、ほぼ毎日行っております」
「では貴様の口は、どういう構造になっているのか」
「『明日の朝が過ぎるまで、我らの足が止まることなし』そう宣言することに、なんの躊躇いもありません。掲げた正義が違うだけです」
どこかで聞いたことがある。というくらいには、僕も知った言葉だった。実際どこかで衛士の人たちが朝礼をやっているのを、聞くとはなしに聞いたのだと思う。
明日の朝、が途切れることはない。今日それを宣言しても、明日にはそのまた次の明日の朝が存在する。だから永遠に、衛士の足が止まることはない。そういう意味だ。
「なるほど。貴様の口はニ枚舌かと思ったが、誤りのようだ。どうやら舌の両面が裏向きの、妖らしい」
「なんと申されましても」
顔を上向かせようと吊り上げる粗忽さんの拳に抗うように、小隊長は頭を深く下げた。それによって二人を繋いでいた手は外れ、粗忽さんは大きく息を吸って、大きくため息を吐く。
「そうか。そうまで想うなら、信じて生きるがいい」
「ありがたいお言葉です」
「連れて行け」
最後の言葉は、小隊長に向けてではない。見外さんに、ちらと一瞬視線が向いてされた指示だ。
忠実な副官、無二の親友。一体いまは、どちらなのか。いつもの軽々な言葉もなく、小隊長とその部下たちは、搗割の方向へ連行される。
厳しさに熱を加えた目が彼らから逸らされることは、景色に消えて見えなくなるまで、遂になかった。