第37話:之ガ我ラノ宣戦布告
王殿の区画に入って最初にある、前廓。その最も奥に、僕たちは居た。この建物ではきっと、いちばんに広い部屋で、場違い感に苛まれながら。
最後の感覚だけは、僕と萌花さんだけだろうけども。
「伽藍堂の目的はなにかと聞いている!」
力任せにテーブルを殴りつけようとしたのは、兵部卿。飛鳥の軍隊である兵部の最高責任者で、一応は僕たちの上司にも当たる。頭頂付近まで禿げた頭は、残った髪も見えないくらいに刈り込まれている。
その潔い頭は赤く染まり、怒りが腕を通して拳に伝わろうとしていた。が、踏み留まった。誰に止められたわけでなく、自制した。
「情報を得る相手が居ないのだ、分かるわけがない」
破壊を免れた円卓を挟んで、兵部卿の正面。筋肉質な卿とは対象的に、細枝を組み上げたような体格は太政官。
政治、治安、国土管理を司る太政部の責任者だ。つまり衛士府も、この人の管理下にある。
その二人のそれぞれ隣には、人事や財務を担当する中務卿。祭祀を担当する神祇官の姿があった。双方ともに素知らぬ顔で、議事用端末へなにか書き込んでいる様子だ。
「おら本当に、こごさ居でいいべが……」
「僕も同じ気持ちです。でも、見てきたことを話さないと」
「んだねや――」
この部屋に居るのは、公職のトップに君臨する人たちと、その側近だ。ただでさえ人種的な疎外感を覚える萌花さんが、泣きそうな声を出すのも無理はない。
円卓からは離れていても、偉そうにふんぞり返る荒増さんの巨大な背中が、格好の隠れ場所になっていた。
僕たちが脱出したあと、防塔は活動を止めた。いや攻撃すればすぐに修復されたし、近付こうとすればすぐに木の根が現れた。だがこちらがなにもしなければ、あちらも動かない。市街を襲っていた木の根も、姿が見えなくなった。
ここまでに伽藍堂からなんの意思表示もされず、妖である防塔を叩き潰そうにも一筋縄ではいかない。
突然の事態に後手後手に回っていたこちらとしては、各所との意思統一を欲したのだ。
「裏切り者は、全てそちらの人間だったわけだが。なにか発言は?」
「裏切り者。さて――」
太政官に促されて、ぽつりと言ったのは女性。年のころは二十七の荒増さんより、もう少し上。緩く波打った琥珀色の髪がいつも濡れたような、細面。
涼やかに、優雅に仰いでいた扇子を音もなく両手で閉じて、それをテーブルに置く。そこでようやく憂いを帯びた瞳が太政官を見返して、再度問う。
「裏切り者、とは。我ら纏占隊に裏切り者が居たとして、それはわたくしが必ず誅しましょう。これは違うことなく、鉄壁です。けれどもたった今。いまこの時に、違いなく誤りなく、鉄壁に裏切り者と断ずることの出来る者。それが居りましょうや?」
冠された二つ名は、鉄壁。それがそのまま当人の口癖でもあるその人は、蕗都美心那。纏占隊の代表者である統括を補佐する、統括控としてこの場に居た。
「寝言を言うな! 國分の小娘と、ほか数人のことだ!」
太政官が答えようとしたのを、兵部卿が割って入った。筋張った顔が赤い顔を横目でちらと見て、多少呆れたように息を吐く。
「行方不明の者たちは、たしかに纏占隊の纏式士にございます。あの妖と化した防塔に潜み、なにやら企てていたように見受けられると、報告を受けております」
「それをどう思うかと聞いているのだ!」
「それならそうと、お聞きくださいませ。わたくしが、いま申しましたのは全て推測。一連のなにもかもが、伽藍堂の手というのも推測。推測と事実は分けて問答せねば、大きな誤りの種となりましょう」
心那さんは、その辺りに物分かりの悪い人ではない。ただ兵部卿がそうしているように、感情のまま動く人を嫌う。好き嫌いははっきりしているのだ、それこそ鉄壁で隔てたように。
「まあ待て。女史はつい先ほどまで、陛下の直衛を務めていたのだ。情報の整理も間に合っているまい。こちらとてそうだ、纏占隊が供与してくれるのに任せて、正式な情報提供を求めてはいないのだ」
「たしかに、討伐も調査もまだ依頼してはおらんが――」
ここまでこの白鸞になにが起こっているのか、誰も本当の意味では理解していない。それは事態を起こした当人が意思表示をしていないのだから当たり前で、たった今は首都の直近に凶悪な妖が現れたということしか明確でない。
どの部署も、そのあやふやな目の前の対応に追われるだけだった。その割りになんの成果も出ていないのだから、兵部卿の苛立ちは分かる。だがそれをテーブルにぶつけたとして、なにも改善はしないのだ。
「さて戯れはこの辺りで、わたくしの考えを申しましょうか」
相手を窘めたところで、それを戯れなどと言ってしまう。心那さんの性格を知っている僕でも、兵部卿の機嫌を窺ってびくりとしてしまう。事情を知らない萌花さんなんて、目を白黒させている。
でもこれに反応がある前に、心那さんの発言が止められた。
「お待ちください。陛下が、こちらへお運びに」
自動的に記録される議事録の監視を行う記録係の男性は、おずおずと言った。発言権のないその人が、出席者の発言を遮ってまでなにかを言うなんて、まあそれくらいだろう。室内の全員が、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がる。
あ、いや。心那さんは彼女らしいゆっくりとした動作で、それよりもさらにゆっくりと面倒くさそうに立ち上がった人も居た。
「ご入室!」
いつまで緊張していればいいのか不安になる時間が三、四分ほどあった。合図と同時に奥の扉が開いて、中肉中背の中年男性が入って来る。いつも少し細まった目の鋭いその人は、太政大臣。太政官の直属の上司であり、この場に居る全員の上役でもある。王を除いた臣下では、この国で最も高位の人物だ。
そのとても偉い人が露払いをするように先に部屋へ入り、室内をじろと睨みまわしたあと、道を空ける。その向こう、五歩ほど先にはもう姿が見えるはず。けれど室内の誰にもそれは見えていない。脇にそれた太政大臣を含めて、身体を二つに折り曲げんばかりに腰を折っているはずだから。
しんとした部屋に、衣擦れの音だけが鳴る。空けられていた円卓の主席に腰かける物音がして、喉を整えたのか、咳払いが一つあった。
「皆の者、面を上げよ」
とても柔らかい、落ち着いた声。しかしよく通って、聞き逃したり聞き違えたりは到底難しいと思える。命令に従って姿勢を直すと、そこに姿は在る。十六歳の僕よりも一つ年下。体格は小柄な僕と、そう変わらない。眉は細いけれどとても濃く、意志の強そうな目が温かい。
我が国、飛鳥の国主。愚王その人は、元服を終えているとは言え、身体はまだ少年だ。
「座れ」
また短く言って、愚王は顔ぶれを見回した。一周したあとにもう一度巡らせて、今度は心那さんのところで止まる。
「蕗都美、先は大義だった。お前の結界があると、やはり心強い」
「勿体ないことにて」
着席した心那さんは、目を伏せて頭も少し下げる。愚王が居るこの場に、急激で大きな動作は厳禁だ。まあまあ、それは原則としてではあるが。
「吉良はどうした」
吉良。この場に名の出る吉良と言えば、吉良義久しか居ない。誰あろう、僕たち纏占隊の統括の名前。本来は心那さんの座っているそこに、吉良統括が居るべきなのだ。
「纏占隊統括、吉良は、新入隊式へ出席の為に本日早朝より塞護へ赴いております。それ以後、連絡はございません」
「そうか……」
そういえば荒増さんも、統括が来ていたと言った。あれがお昼ごろのことで、今はもう午後十一時になろうとしている。普段どれほどの頻度で連絡を取り合っているのか知らないけど、さすがにそれだけの時間はおかしいように思う。
愚王がなにか考えるのには、十秒ほどしか使わなかった。だがその間に、また事態は動く。
「畏れながら……」
太政大臣が愚王のすぐ脇に歩み寄って、小声で話す。それはたぶん、その前に記録係が、なにかを言ったからだ。室外からの緊急連絡を受ける係でもあるから、きっとそうだと予測もしている。
「許す」
「ただ今」
太政大臣の視線は、記録係を無言で動かした。その手が簡単な動作を一つ二つほどもすると、愚王の対面にある壁にどこかの部屋の映像が現れる。それがどこかは、僕には分からない。けれどそこに映っている人物が誰かは分かる。一人は若い男性。もう一人は髪の長い女性。
女性は壁に、ぴたりと身体を付けている。いやそれはその人の意思でなく、腹を貫かれ、いまだ血の滴る刀によって縫い付けられているのだ。
「国分さん……」
若い男性は部屋の真ん中に立って、薄笑いでこちらを見ている。なんの間だったのか、数十秒ほども経ってようやく喋り出した。
「さあ。たった今、〇一となりました。新しい時代を始めるとしましょう」
「どういうことですか、仙石さん。分かるように説明していただきましょう」
説明を求めたのは心那さん。彼はそれに、失笑を返した。映っている若い男性は、仙石統尤。纏占隊の新人隊員で、七家の跡継ぎ。
少々鬱陶し――難解な性格をしている人だとは思ったけれども、どうしてこの場面でその顔を見ることになるのか。自信に満ちた表情は、昨日見たのと変わらないと思うのに。
「その声は、統括控でいらっしゃる。なるほど映像をこちらに寄越すこともしていただけませんか。まあ、構いませんがね」
「余計なことは結構です。この仕儀の趣向は如何に。お答えなさい」
「趣向ですか。それはまず、溜飲を下げること」
不平不満があると言うなら、彼の言動を思えば、さもありなん。だがそれは、一国の首都を脅かし、多くの人命を奪ってまですることなのか。
「なにか改善の求めでもあるのですか」
「不安だったでしょう?」
「なんです?」
返答としては適切でない。だがそれは、この事案で初の、敵の思惑だ。そこへ、これから先に繋がる糸も隠されている筈。
おもむろに、仙石さんは指を突きつける。
「あなたです。私からは見えないそこに居る、あなた。なにが起きているのか、不安だったでしょう? それとも、なにも思うように進まなくて、苛々としましたか?」
その指は、まっすぐ愚王を指した。それは意図していなかっただろう。けれどその光景は、真の目的を示しているようにも見える。
「さて、どんな面々が居るのでしょう。皆さん、不安だったでしょう? なにが起きているのか、なにが目的なのか、いつまで続くのか、理由はなにか。なにも分からない、おいそれと手も出せない」
平坦な声が、およそひと息に続いた。抑えている感情を練りこむように、そこで大きく息が継がれる。
「私たちは! 中央を離れて生きる者たちは! 待っていたのだ! 平等を目指すと言った愚王の即位から八年。やっと時代が来たと、期待をしていたのだ!」
血走った目が、正面に居ない僕でさえ睨みつけてくるように見えた。怒りに震え、次の言葉を言おうにも、仙石さんの喉も口も言うことを聞かないらしい。
皮肉を言いながらも怜悧な印象を与えた彼の、どこにこんな激情が潜んでいたのか。
ああ――それは思い上がりだ。僕は彼のことなんて、ほとんどなにも知らない。
「…………私たちは、中央だけが。主流だけがいい目を見る現実に、飽きた。だから変えさせてもらう。私たちが主流の世界に」
「どうしようというのか!」
怒気に怒気を返すのは、兵部卿。それが却って、仙石さんを冷めさせた。怒りの中にも、皮肉げな笑みが浮かぶ。
「まずは中央だけでは生きていけないのだと、知ってもらいましょう。手足がなければ苦しむのだと、知るがいい」
熱くなった身体が、酸素を欲したのだろうか。仙石さんは咳こみつつも、笑って言った。
そこにまた、記録係が太政大臣に合図を送る。新しい情報が入ったのだ。
「構わぬ。申せ」
「は、ははっ。衛士府から報告、本日午後十時五十分ころ確認――」
専用の画面をもう一度、記録係は確認する。本当にこれは間違いないのか、自分は読み間違えているのではないのか、そんな風に。
一秒にも足りない素早い確認と、きっと自身の気持ちを落ち着けるための、唾を飲み込む動作。記録係は、青褪めた頬で告げる。
「塞護が、壊滅しました。生存者は、限りなくゼロに近いものと思われます」