第16話:妖ノ脈ト疑懼ノ動悸
ドクン。
その赤には、二つある。
一つは炎の色。眩しい光を含んだ、緋の鮮血。もう一つは、柘榴の色。内に溜めた陰を覆う、昏き絳血。
人の身体には二つの色が循環し、その命を保っている。僕たちのようにこの世ならざる者をも見られると、生きているとはなにか分からなくなる。
そうでない者が、直ちに生きていないとは言わない。けれどもそうやって血を通わせるのであれば、生きている証左と言っても良いのではないだろうか。
機械の中を巡るオイルに、感情を乗せているわけではないのだ。僕たちの見る人工の建造物には、たしかに血が通っている。
「防塔を模した、妖か――?」
「い、いや。たしかに妖っぽい気配に包まれてますけど、あんな大きなのが入れ替わるまで、誰も気付かないなんてことありますか?」
ドクン。
白鸞を八方向に囲む防塔は、皆同じ形をしている。背の高いタンブラーグラスを伏せたようで、遠目にはのっぺりとしたグレーの構造物としか見えない。ブロックの継ぎ目はあえて白く塗られ、武装の見えないその姿に、なんとか軍事用途の威厳を保たせている。
高さは二十階建てのビルと同程度。本来は白い網目で覆われているはずが、それが全て絳血の色に置き換わり、数十秒に一度のゆっくりとした脈動が不気味に起こる。
メトロノームのように。時計の振り子のように。極めて正確に、血管の拡縮は繰り返される。それは例えば、ポンプなどで同じ光景を作ることは出来るだろう。でも違うのだ。遠く叫んだとしても声が届くはずもないこの距離で、脈動の音が聞こえてならない。
いやたぶん、きっとこれは無意識による錯覚だ。でもそこまで感じさせるほどの説得力が、そこにあった。あの防塔は生きていると思わせる生命力が、発し続けられていた。
ドクン。ドクン。と、聞こえてもいないそんな重々しい音が、僕の耳から離れない。
「すごいね、千引ちゃん。こんなことあるんだね」
「大過、先行してくれ。衛士府に行って、私の隊を呼んでおいてくれ」
「この車からも出来るよ?」
「それをしては、あいつの思惑に反するようだからな。忌々しいが、奴らに認められた特権だ」
粗忽千引。三十前の若さにして、少尉という階級。塞護支部長という役職は、伊達でないらしい。納得いくはずもない荒増さんの計画は保持しつつ、本来は担当区域外の場所で自身の責務を全うするつもりのようだ。
その副官、見外大過。当人がちらと言っていたところによると、粗忽さんとは幼馴染らしい。搗割に搭載された不整地用の二輪車で、あっという間に見えなくなった。
「おい、遠江」
他の人と同じように双眼鏡を覗いていた、萌花さんはなにも言わない。「そろそろ移動するぞ」と言った粗忽さんの指示に従って、元の席に戻っていく。
心なしか、顔が青褪めているようにも見える。無理もない、いきなりこんな大物なんて、僕だってそれほど何度も見てはいない。
「こら、聞いてんのかボケ」
「いたっ!」
動き出した搗割の中で、僕はベンチから転げ落ちた。場所を弁えない狼藉者に、前蹴りを食らわされたのだ。
「いたっ、じゃねえ。国分には連絡ついたのか」
「連絡しろなんて言われて――」
「ああ?」
「連絡はついてません。この事態ですから、忙しいんじゃ?」
せっかく答えたのに、荒増さんはなにも言わず、また防塔のほうへ目を向けるだけだった。訝しげな感じがするのは、なにか疑問でも感じているのか。
どうしたのかと素直に聞いたところで、教えてくれる人ではない。まあそういう感情まで隠す人でないから、自分で考える訓練にはなる。
「久遠さん、なんとした?」
「ああ、いえ。ちょっと気になることが」
顔色が悪いままの萌花さんが、聞いてきた。荒増さんに倣って防塔に目を凝らすのが、そんなにおかしかっただろうか。「だば、いいべが」と座り直す彼女に愛想笑いを投げておいて、もう一度塔を見る。
不審なのは、第二防塔そのもの。周囲には、その持ち主である兵部が部隊を展開し始めている。その外を半包囲するようにして在るのは、衛士の部隊。
兵部の司令官が居るらしいテント近くには、纏式士の姿もちらほら見える。
「ん? 初手が居ない」
「初手?」
「ええと纏占隊の中でも、なにか起きた時、最初に現地対応をする人たちです」
「そいだば、まだ着いてねんだな」
そうだろうか。
纏式士とは言え人の集まりなのだから、なにごとにも絶対ということはない。でも彼らは、いの一番にそこへ到着することを喜びとさえしていた。まるで、火事現場に到着する順番を命をかけて競っていた、古い時代の防災組織のように。
ましてやその代表者。纏占隊で付けられている役職名として、総代の任務を預かっているのは誰あろう国分さんなのだ。
纏占隊で唯一、良くも悪くも荒増さんと対等に話すことの出来るあの女性が、どういう事情があれば到着の一番手を他人に譲るのか。
いつもならば防塔の最も近いところに長尺の旗を靡かせ、そこに仁王立ちする姿があるはずだ。
「おい、急げ」
運転席との会話に使うスイッチを押して、荒増さんが言葉短く告げる。それがなんだか、ここからもっと悪いなにかが起きる。そういう予言のように思えて胸騒ぎが治まらなかった。