火の花一輪
この蝋燭が燃え尽きるまでに彼が戻らなければ諦めよう。
春音はそう決めた。
春音は友人が趣味で作ったアロマキャンドルもたくさん持っていたが、今は蝋燭の気分だった。
きっかけは些細な喧嘩だったのに、硝子の器に入ったひびが大きくなるように、仕舞いには彼は部屋から出て行った。寒い初春の朝のことだ。実はもう、蝋燭は十本以上、費やしている。一本燃え尽きるごとにもう一本、もう一本、と春音は自分の未練を嗤いながら火を点けていった。カタカタと窓硝子の鳴る音。今頃彼は、寒さをどうやってしのいでいるだろう。このアパートは海傍にある。浜辺を、春音との喧嘩を思い出しながら歩いているのだろうか。
震えながら。
そう考えると春音はいてもたってもいられず、立ち上がり、彼を捜しに行きたくなる衝動に襲われるのだ。もちろん、そんなことは春音の矜持が許さない。春音は意地っ張りである自分の性格を承知していた。じっと蝋燭の炎を眺める。火の花が一輪、咲いている。
春音は溜息を吐き、立ち上がると朝食の食器を洗い始めた。彼の分も丁寧に洗う。スポンジがそろそろ買い替え時だ。湯沸かし器の湯で手を温めながら、皿にこびりついた汚れを落とす。油汚れの食器と、そうでない食器は分けて使っている。油汚れ用の食器には小さな凹凸がついていて、それが随分と摩耗していた。
食器を洗い終わると春音は再び蝋燭と対峙した。
この蝋燭は試金石だ。
彼と春音の将来を決める。
突然、春音の中に悲しみが溢れた。
このまま彼が帰らなかったらどうしよう。
自分は波の音響くこの部屋で、独りで生きていくのだろうか。
そんなことには耐えられない。
彼との出逢いから今までを反芻する。
出逢った当初から彼は優しかった。春音が落とした財布を、一緒になって懸命に探してくれた。お礼をしたいからと、遠慮する彼を押し切って、連絡先を手に入れた。どうしよう、これからどうすれば良いの、と春音は恋愛経験豊富な友人に泣きついて、そして出逢いから交際に至るまでの指南を仰いだ。そのお陰で今がある。でもそれも、もう終わりかもしれない。暖色の火が、春音の吐息に合わせてゆらと揺れる。小さく熱を発する光は、文字通り風前の灯火の春音と彼の仲を暗示しているのかもしれない。
またもや蝋燭が消え、新たな一本に火を点ける。涙を堪えながら。
滑稽なことと解っていてもせずにはおられない。これが恋の未練だ。春音は半ば開き直った気持ちでそう自分に言い聞かせた。
ドアに鍵を差し込み回す音がする。
春音は振り返った。
「……誰かの命日?」
蝋燭を見て、発した彼の第一声がこれだった。
「莫迦」
言って、春音は彼に抱き着く。受け止めてくれる確かな腕の強さ。彼の羽織ったパーカーは潮の香りがして冷えていた。その冷えが痛ましくて愛おしい。
「帰ってこないかと思った」
「莫迦だな」
今度は彼が笑う。
「おまけに、相変わらず泣き虫だ。俺のいない間、散々、泣いたんだろう」
「ええ、海の水が塩辛いのはそのせいよ」
「言ってろ」
春音は蝋燭の火に息を吹きかけて消すと、コーヒーを淹れる準備を始めた。
些細な日常が布織物のように紡がれていく。悲喜こもごも、それを人は生きる。
小さくて良い。
明るい火の花を一輪、心に咲かせていこう。